古傷



 久々に里帰りした金霞洞は静まり返っていた。
 冷たく凍る木立を通り抜け、懐かしむように歩いてきた先にあった洞府は、鍵は開いていたもののからっぽだった。
 きんっと音を立てそうな静寂が洞府の中を満たしている。
 楊ぜんは、それが自分の実家とでも言えるような場所であるにもかかわらず、勝手に他人の家に上がりこんでしまったときのような不安と罪悪感を抱え、不自然に辺りを見回す。
「師匠?」
 小さく呟いた声は思いがけず反響し、どきりとして楊ぜんは動きを止めた。
 師匠はいらっしゃらないのだろうか。太乙様のところか、あるいは十二仙の定例会が今日だったのか。楊ぜんは小さく息をついた。
 せっかく師匠に顔を見せに帰ってきたのに……
 200年来一度も洞府を出た事のなかった楊ぜんは、今封神計画という大役を担って地上で働いている。初めての環境で、それまでの人生で知り合った倍以上の人間と言葉を交わし、それまでしてこなかった経験をした。寂しいと泣く歳でもないが、やはりどうしても師の顔が見たくなるときはある。寝る間も惜しんで仕事を片付け、無理やりに暇を作って帰省したのだが。
「師匠の莫迦……」
 小さく呟き、リビングの椅子に腰掛ける。たった数ヶ月留守にしただけで、もうこの部屋は他人のようだ。お茶を入れるのも悪いような気がして、楊ぜんはする事もなく、足をぶらぶらさせながらテーブルに頬杖を着いた。
 これからどうしようか。
 ぼんやりと考える。自分の部屋を見てこようかと思ったが、このリビングのように他人の顔をした部屋を見るのは嫌だった。
 玉虚宮に挨拶してこようか。しかし、何故帰ってきたのかと聞かれれば返す言葉もない。太乙真人や道徳真君に挨拶する事も考えたが、彼らと世間話をするのも疲れそうだ。もともと人付き合いは苦手である。
 帰ろう。
 消極的な決断をした後、それでも立ち去りがたく楊ぜんはまだリビングの椅子で足をぶらぶらさせていた。テーブルの傷をこする。子供のころ楊ぜんがうっかりガラスのコップを割ってできてしまった傷だ。なじみのあるものを見つけて楊ぜんは微笑んだ。あのころは失敗ばかりしていた。
「行儀が悪いな」
 振り返ると玉鼎真人が立っていた。楊ぜんは驚いて立ち上がり、その拍子にばたんと大きな音を立てて椅子が倒れた。
「師匠……」
 どうやら風呂に入っていたらしい玉鼎真人は浴衣をだらしなく着込んだままごしごしとタオルで髪を拭いて笑っていた。
 とたん、楊ぜんは顔をしかめる。
「師匠こそ、なんて格好してらっしゃるんですか。お客様がいらしたらどうするんです」
「来ないさ」
「来たらって言ってるんですよ」
「来ないとわかっているものの心配をしてどうする」
「来なくてもだらしないでしょう? 僕が嫌なんです」
「おまえは私に小言を言いに帰ってきたのか」
 楊ぜんはむっとして黙り込み、それから小さく首を振った。
 玉鼎真人は何を思ったのかぽんぽんと楊ぜんの頭を撫ぜた。
「だからっ!」
 怒って手をどけようとした楊ぜんは不意に手を止めた。師の腹に縦に走る引き連れたような傷跡を見つけて。
「師匠。それ……」
「ああ」
 玉鼎真人は小さく表情を動かした。しまったという顔だ。
「そうか。そうだな。家の中といえど、こんな格好をしていたら良くないな。悪かった、楊ぜん」
「待ってください」
 浴衣を着なおそうとした玉鼎真人の腕をぐいっと掴み、楊ぜんは玉鼎真人をにらみつけた。
「楊ぜん……」
「それ、その傷……」
 押し殺した声で楊ぜんは言う。
「ああ、すまない」
「それ……どうして……」
「お前に見せるつもりはなかったんだ。いつも注意しているつもりだったが今日はうっかりしていた」
「そんなこといってるんじゃないでしょう!」
 楊ぜんは声を荒げる。白い頬に緊張が走る。
「楊ぜん……」
 それは楊ぜんがつけた傷だった。子供のころ、自分の力を持て余して加減も何もできずに。楊ぜんが刻んだ楊ぜんの妖怪の証だった。
「そんな傷、師匠なら消せるはずでしょう?」
 雲中子ほどの技術がなくたって、それくらいの傷を消す薬丹くらい玉鼎真人なら作れるはずだ。
 ぽんっと再び玉鼎真人は楊ぜんの頭をなでてあきらめたように言った。
「残しておきたかったんだ」
 こつん。額に額をぶつける。子供のころ泣き出した、あるいはすねている楊ぜんのご機嫌をとるためにいつもしていたように。
「おまえの事は、どんな小さな事でも残しておきたかったんだ」
 楊ぜんは戸惑いながら子供のころのようにできる限り背伸びをして玉鼎真人の首に手を回した。
 あれはまだ崑崙につれてこられたばかりの頃だった。未だ妖怪としての力とどう向き合って良いのかわからなかった楊ぜんは、よりによって力が一番強まる満月の晩にその力を引き出してしまった。不安と恐れに手を振り回し、泣き叫び、気がついたときには師が抱きしめてくれていた。嫌な手ごたえにぬるりとした手触りときつい血の匂いが満ちて、楊ぜんは怖くてまた少し泣いた。
 あの時、半楊態に変化しかけていた楊ぜんを、恐れもせず師は抱きしめてくれた。自分が傷つくのもかまわず、頭をなでてくれた。
 あの時も、こんなふうに、抱きしめてくれた。
「すまない。楊ぜん。もうこんな傷、消してしまおう」
 楊ぜんは首を横に振ってそっと傷跡を手でなぞった。確かめるように、ゆっくりと。
「いえ。……消さないでください。やっぱり」
 そして、力いっぱいぎゅうっと師に抱きついた。

end.

novel.