kiss



「だって、お前ら、付き合ってるんだろう?」
 それは、執務室で唐突に発言された、姫発の一言から始まった。ように思う。
 太公望と楊ぜんは議論の真っ最中だったために、一瞬反応が遅れ、なんともいえない顔でお互いの顔を見た。そして相手の顔の中の全く同じ表情を見つめた。
 ――ねぇ、私達、つきあっているのでしょうか?

「あたしは付き合ってると思ってたわよ」
 蝉玉は言い放つ。
「だってあんた達、いっつも一緒にいるし、ラブラブなんだと思ってた。違ったの?」
 天化は何故か顔を赤くして言った。
「俺っちよくわからねーけど。でも、アンタらが一緒にいるときの雰囲気は何かいいなって思ってたさ」
 周公旦はこめかみを押さえる。
「私は、あなた方がちゃんと仕事をしてさえ下されば、プライベートには口出ししませんよ」

 真夏の炎天下。暑さにしおれかけている向日葵をぼんやりと眺めながら、太公望は悩んでいた。
 果たしてわしは楊ぜんと付き合っているのだろうか?
 刺すような日差しは容赦なく太公望の上に降り注ぎ、こめかみを汗が伝う。
 楊ぜんは頭が良くて話は合うし、仙界での話もできることもあって一緒にいる機会が多い。自然と二人セットみたいな扱いにされることも多い。
 しかし――
 それだけで付き合ってることになるのか?
 太公望は空を仰ぐ、真夏の日差しは強烈な光で太公望の頭の中まで真っ白に染め抜いて――そして――
 ばたん。
 太公望は見事にひっくり返った。
 熱射病である。

 冷たいタオルが、太公望の顔をぬぐう。丁寧に汗をふき取って、生ぬるくなったタオルを冷たい水に浸し、ぎゅっと絞ってもう一回。
 ひやっとした感触が離れると同時に体温を奪っていく。
 気持ちいい。
 うっすらと目を明けると、青い水の精みたいな楊ぜんがいた。
「全く、何考えてるんですか」
 太公望が気づくやいなや、楊ぜんは早速お説教を開始する。でもその声すらも、どこか涼しげで気持ちいい。
「何で倒れるまで、外にいたりするんですか。子供ですか、あなたは」
 眉をひそめて楊ぜんはあきれたように太公望を見つめる。
「聞いてるんですか、師叔」
「綺麗だのぉ」
 思わず言葉が口からこぼれた。
「は?」
 楊ぜんは怪訝そうな顔で、動きを止める。
 太公望は目を閉じた。まだ、頭がくらくらしていた。

 夢を見た。
 草原の夢。羊飼いの夢。
 子供の頃の――
 否、違う。
 太公望は子供ではなかった。子供みたいな形といわれてしまえばそれまでだが、少なくとも平和に羊を追っていた頃の姿ではない。成長していて、それでも家族とともに暮らしている夢だった。
 父がいて母がいて兄がいて妹がいた。
 皆笑っている。
 ――今日はおめでたい日だから
 知らない女性が言う。知らない女性でありながら、太公望はそれが兄の妻だと認識できた。
 これから、一族皆でお祝いをするのだ。
 だって今日は――
 ――兄さま、嬉しい?
 妹が笑う。まだ小さかった妹は綺麗に成長している。
 ――私、あの方と仲良くなれるかしら?
 はにかんだように笑う妹に、太公望は微笑みかえした。
 ――大丈夫。あやつははじめはとっつきにくいが、根はやさしいから――
 そう、今日は祝言だった。
 太公望の。太公望と――
 ――師叔?
 青い髪、紫の瞳。美しい、わしの――
「ねぇ、師叔」
 ぱちん。太公望は目を開ける。
 血の気が引いた。何て夢を見ていたのだろう。
 太公望は自分と楊ぜんが結婚する夢を見ていたのだ。
 そうとは知らず怪訝そうな顔をした楊ぜんが口を開く。
「何ですか、にやついていたと思ったら、急にお化けでも見たような顔をして」
「嗚呼、家族の夢を見ておった」
 太公望がつぶやくと、楊ぜんは小さく目を見開き、静かに「そうですか」といった。
 おぬしが出てきた。
 声に出さずに太公望は語りかけた。

「あなたは大切な立場なんですから、軽率なことはしないでくださいね」
 ちくりと小言を言う楊ぜんを太公望は黙っていることでやり過ごす。
 ちゃんと聞いてるんですか、という目で楊ぜんは太公望を睨んだが言葉には出さなかった。
「一体何考えてらっしゃるんですか」
 かわりに、じっと太公望の目を覗き込む。
「また、何か一人で抱え込んで悩んでらっしゃるんでしょう?」
「いや、一人ではない」
 太公望の言葉に楊ぜんは怪訝そうな顔をする。その顔を太公望は不思議そうに見つめた。
「おぬしは悩んでおらんのか」
「何をですか?」
「わしとおぬしが付き合っているのかどうか」
 今度は楊ぜんが不思議そうに太公望を見つめた。
 そしておかしそうに言葉を紡ぐ。
「だって、ありえないでしょう」
「ありえない?」
「僕と師叔が付き合ってるなんて」
 小さく楊ぜんは笑う。
「あなたが僕のことをそう言う意味で好きになるなんて事ありえませんよ」
 やけにきっぱりと言い切った楊ぜんの顔を太公望は見つめる。
「どうしてそう思う?」
「だって、ありえないから」
 楊ぜんはそう言って目をそらした。軽く唇を噛む。
 ありえない。
「おぬしはどうなのか?」
 身を乗り出して太公望は尋ねる。
「おぬしがわしのことをそういう意味で好きになることはありえるのか?」
 太公望の言葉に楊ぜんは少し戸惑ったそぶりを見せる。
「僕は」
 ちいさくため息をついて楊ぜんは続けた。
「判りません」
「判らない?」
 頷く楊ぜんに太公望は小さく笑った。
 いたずらを思いついた子供の表情。わずかな期待。
「なら、試してみよう」
「どうやって」
 苦笑する楊ぜんに太公望は言う。
「例えば……キスしてみるとか」
 その言葉を言った瞬間、欲望が生まれた。
 そして、唐突に、随分前から自分が楊ぜんとそう言うことをしたかったのだと気づいてしまった。今まで目の前を閉ざしていた扉が、急にばたんと開いたように。本心という名の欲がそこからあふれ出してきた。
 後戻りができなくなった。
「キス」
 小さくつぶやいて楊ぜんは自分の唇に触れる。白い頬が朱に染まる。その様さえ艶めかしい。
 しかし彼は慌てて首を振った。
「そんなの、嫌ですよ」
「どうして?」
 意外そうに太公望は尋ねる。
「だって、おかしいでしょう? 好きでもないのに」
「好きかも知れぬ」
 戸惑う楊ぜんに、とある確信を持って太公望は言った。
「それはありえないって……」
「好きだけれど、おぬしが気がついていないだけなのかも知れぬ」
 だって、おぬしは熱射病で倒れたわしの側にずっとついていたではないか。
 ずっと、わしのことを見ていたくせに。
 周りの人間が、すでに二人が付き合っていると誤解するほど側にいたくせに。
「キスしたら、判るんですか?」
 わずかに震える声で楊ぜんが言う。その声のうちにはっきりと期待を感じ取ったと思った。
「少なくとも、嫌ではないだろう」
「師叔は、嫌じゃないんですか」
 すねたように楊ぜんが言う。
「してみたらわかる。でもきっと……嫌じゃない」
 それをきっかけに、二人にとっての一番初めの、大きな歯車が回り始めるのだ。
 紫の瞳がわずかに潤んでいる。
 楊ぜんもきっとそれを感じている。
 しかし、重たいため息をつくように楊ぜんが口を開く。
「ありえない」
「何故?」
「だって僕は」
 言いかけて楊ぜんは首を振った。
「僕は?」
 太公望が先を促す。しかし楊ぜんがその先を言うことはなかった。
「誰にだって秘密の、2つ3つあるでしょう?」
 かわりにそう言った。
「そうだのぉ」
「師叔が後悔しますよ」
 自嘲気味に言う楊ぜんに太公望は言葉を紡ぐ。
「おぬしは後悔せぬのか」
「僕は」
 見詰め合った瞳の中に、わずかに熱がこもるのを見た気がした。
「あなたを後悔させたことに後悔します」
 熱を冷まそうとするかのように楊ぜんは瞳を閉じる。
 太公望は黙ってそれを見つめた。
 苦悩する表情さえ美しい。

 唇を軽く触れ合わせてしまえばいいのだ。
 それだけで、もう、後戻りはできなくなる。
 お互いにそれを望んでいるはずだ。

「僕たちは……違うんですよ、師叔」
 やがて、諦めたように放たれた一言に太公望は寝台から下り立ち上がった。
「わしは後悔せぬよ、楊ぜん」
 うつむく楊ぜんに太公望は言葉を続ける。
「おぬしが何者であったとしても、おぬしはおぬしだ」
 そしてそのままその部屋を出て行った。

 追いかけてくればいい。
 楊ぜんが、自分から追いかけてくればいい。
 そうしたら二度と離しはしない。

 果たして、自分を追う足音を、太公望は確かに聞いた気がした。

end.

novel.