懐かしの君



 久々に降り立った人間界は、どこかホコリっぽくて、懐かしくて、誰かに似た人に逢えそうで、きゅんっと胸が切なくなった。
 季節は夏。地面からの照り返しのむせ返るような暑さを久々に思い出し、楊ぜんはぶらぶらと大通りを歩いている。
 働きづめの楊ぜんのために武吉と四不象が気を利かせて、何とか燃燈道人から勝ち取ってくれたひと時の夏休み。二人の気持ちはとても嬉しかったけれど、楊ぜんはちょっぴりこの休みをもてあましている。
 今更、行きたいところも、逢いたい人もいないのだ。
 神界の師匠と父に挨拶をし、ついでに元始天尊様の将棋の相手をすると、暇をもてあました楊ぜんはほんの気まぐれで地上に降りてみることにした。
 久々の人間界は記憶にある風景と同じようで、どこか違う。人通りは多く、露天からの声はにぎやかで、人々は皆せわしなさそうで、楊ぜんはそれを眺めながらただぼんやりと歩いている。
 人ごみは嫌いだったはずなのだけれど、不思議と嫌ではなかった。
 ぼんやりと歩いていると、ふと、隣に誰かが歩いていそうな気がする。
 町の人と挨拶を交わすのが好きで、買い食いをするのが好きで、必ず何かしらお菓子を齧りながら歩いていた誰か。
 甘いものは苦手だと言うのに、必ず多めに買っては楊ぜんに食べさせようとしていた誰か。
 隣に、背の低い誰かが歩いているような気がして、楊ぜんははっとする。
 まさか、そんなわけないのに。
 立ち止まる。
 振り返っても誰もいない。
 ちくりと胸が痛んだ。
 そろそろ帰ろうか。それとも、どこかに宿を取って一泊くらいしてもいいか。あいにく人間界で使える通貨を持ってきていない。泊まるとしたら、薬丹でも売って稼がなければいけない。
 それとも、久々に妲己変化で歌でも歌ってみようか。
 くすっと楊ぜんは笑う。
 最近は使う機会はなくなったけれど、まだ腕は衰えていないはず。
 そうと決まれば、路地裏にでも隠れてさっさと変化してしまおう。
 大通りから一本道を外れると、とたんに物寂しい景色が広がる。集中しようとしたところに、なんとも間の抜けた声が聞こえた。
「いわしぃ〜。いわしぃ〜」
 鰯売りか。なんだか気力が殺がれる。完璧な変化には雰囲気も大事。もうちょっと別の場所を探そう。
「鰯占い、一回50元!」
 ん?
 この間の抜けた声は聞いたことがある気がする。遠い昔の記憶。楊ぜんはちょっと考えてから、路地裏に入り妲己ではなく仙界の誰かでもなく適当にイメージした女性に変化した。勿論化けるのなら美女。妲己と竜吉公主をブレンドしたつもりだけれど、手鏡で見たその顔は意外ともとの自分の顔に似ていた。
 腕が落ちたかな。
 仙界に戻ったら修行しよう。燃燈様が怒るから、なかなか妲己変化の練習が出来なかったけど、変化というのは技だけでなく芸術なんだから、単に便利とか戦闘に有利とかそんなのじゃ駄目なのだ。燃燈様はそこのところをちっとも判ってくださらない。
 一つため息をついて決心を新たにすると楊ぜんは頭を切り替えた。
 女性だし、髪は明るめの茶髪だし、目の色だって濃いグリーンだし大丈夫、ばれることはないだろう。
 それに杞憂かもしれないし。
 というか、絶対、そんなわけないし。
 きっと、ただの思い過ごしだし。
 久々の女性変化にうきうきして楊ぜんは、路地裏から飛び出した。
「占いやさ〜ん! 私も占って〜っ!」
 街ゆく人々があの美女は誰だと振り返る。この優越感はやめられない。
「お嬢さん、占い屋ならあの角曲がってすぐだよ。でもせっかくだからオレとデート……」
「そぉ? ありがとぉ。でも間に合ってるわぁ〜」
 声をかけた男性にノリノリでウインクをしつつ楊ぜんは角を曲がった。
「占い屋さぁん〜!」
 曲がった角に経っていたのは白い髪の老人だった。
 あれ、違ったのかなと楊ぜんはがっかりする。そして、がっかりしている自分に後ろめたいものを感じた。図らずも、随分期待していたのだ。
 浮かれた女性変化が急に莫迦らしくなったけれど、これも修行のうちと気分を切り替える。
「どうしても占ってほしいんですけど、お金がないの。明日必ず持ってきますからお願いできませんか?」
 すると老人はくるくると首を振った。
「文無しじゃ駄目だのぉ」
「そんなぁ」
 さめざめと悲しそうな顔でうつむくと案の定横から声がかかる。
「おい、じいさん。こんな可愛い子の頼みを断っちゃ、男が廃るぜ。オレが金出すから見てもらいなよ」
「いいんですか?」
 すかさず楊ぜんは縋るように声の主を見つめた。
「必ずお返しします」
「いいよ。いらないよ」
 すると楊ぜんと声の主のやり取りを聞いていた老人は仕方ないのぉと頷いた。
「誰の金だろうが、わしはもらえればいいが……おぬし、程々にせいよ」
 がらりと声色を変えて、楊ぜんにだけたしなめるように囁かれた声に楊ぜんはきょとんとする。
 今の言い方。やっぱり、似ている。
「それで、おぬしは何を占ってほしいのだ?」
「え、ええと……」
 しまった。考えていなかった。女性の悩みといえばやはり恋だろうか。
「私、結婚できますか?」
 うっかり飛び越して楊ぜんは尋ねた。
「一生できぬのではないか?」
 あっさりと老人が言葉を返す。
「酷い! 何も占ってないくせにっ!」
 どんと楊ぜんは地面を蹴る。
「そんなん、見れば判るわ」
 するとますますあきれたように老人が言った。
「じゃあ、私の王子様は今どこにいるの!」
「今まで王子様だと思った男はおらんかったのか?」
「いたけど、実は宇宙人でどっかいっちゃったのよ!」
 しまった。うっかり本音が……
「その宇宙人とまた合いたいと思うか?」
「判らないわよ。別れたときは、次会ったら殺してやるって思ってたけど……」
「怖いのぉ」
 にぃっと老人が笑う。その瞬間楊ぜんは確信した。
「まさか、あなたがその王子さまだったりして」
 脇にいた男が盛大にずっこける。
「こんな老いぼれでかまわぬのかのぉ」
「かまわないけど……浮気してたら八つ裂きにしてやるわ」
 そう言って極上の笑みを作ると、脇にいた男が慌てて逃げ出した。ちらりと老人はその様子を見てにやりと笑う。
「かわいそうに。すっかりおびえてしまって。手を出した相手が悪かったのぉ」
「私に手を出そうなんて100億年早いのよ」
 老人はため息をつく。
「やれやれ、物騒なおぬしのせいで、商売にならんわ」
 占いの道具を片付け始める老人を楊ぜんはじっと見つめる。
「帰らんのか?」
 老人に問いかけられて、楊ぜんは首を振る。
「私がどうしようが私の勝手でしょ」
「ボーっとつったってるんなら手伝わんか」
 そういって、鰯を持たせようとする老人から慌てて飛びのく。生の鰯を手でつかむなんて冗談じゃない。
「女の子にそんなもの持たせないでよ!」
「おぬしのどこが女の子なのだ」
「私に鰯なんかにあわないのよ。持つんならそうね……そこのルーペくらいなら持ってあげてもいいわ」
 老人は楊ぜんにルーペを渡しながら言った。
「いたずらするでないよ。火事になるからのぉ」
「莫迦にしないでよ」
 よいしょと占い道具の一式を担いで老人は歩きだす。楊ぜんはその後をルーペを持ってついていった。
 白髪の老人と、美女が並んで歩く姿は町の人々にも異様に見えたらしく、ちらちらと行きかう人が振り返る。中には爺さん、ナンパかい? なんて声をかけてくる人もある。
「だあほ。こやつは性悪の押しかけじゃ」
 それに対して飄々と返事をした老人を楊ぜんはぱこんと景気良く殴ってやった。

 老人はどんどん町のはずれを歩いていき、終いには畑も途切れた山の中に入ってゆく。
 獣道を登った山の中腹に、小さな掘っ立て小屋があり、それが老人の家らしかった。

 小さな小屋の片隅に老人は占い道具を置く。
 そして、突っ立っている楊ぜんを振り返った。
「いい加減、変化を解かぬのか?」
「あなたこそ」
 楊ぜんは老人を睨みつける。
「これは変化ではないよ」
「当たり前ですよ。いくら始祖だからって、そうやすやすと変化の術なんか使わないでください」
 怒った楊ぜんにくすっと老人――伏羲――は笑った。
「これはのぉ。本来ならこうあるべきわしの姿だ」
 その伏羲の言葉で、楊ぜんはジョカの姿を思い出す。本来の姿といえば、むしろそちらが伏羲の本来の姿のはず。
「違うよ。楊ぜん。わしは呂望に当たり前のように歳を取らせてやりたかったのだ」
 楊ぜんの頭の中を見越したように伏羲が笑う。
「それにのぉ、楊ぜん。おぬしが思い描くわしの本来の姿は、ジョカと同じなのか?」
 違う。楊ぜんが思い描く伏羲の――否、太公望の姿は、あの宇宙人の姿ではない。
「でも、その姿も違いますよ」
 楊ぜんが思い描くのは一緒に戦った、初めて楊ぜんに膝をつかせた、あの太公望だ。
「僕が思い描くのは、人間の呂望じゃない。道士の太公望師叔です。その姿じゃない」
 すると老人は困ったように笑う。
「道士の太公望はもうおらぬよ」
 その言葉に、えぐられるような痛みを感じた。
「僕と共に戦ったあなたは、もう、いないんですか」
 老人はどこか遠くを見つめるような目で、低くつぶやく。
「もう、おらぬ」
「では、僕の目の前にいるあなたは、誰なんですか」
 楊ぜんは静かに尋ねる。
「わしは……伏羲だよ」
「呂望の皮をかぶった?」
「わしはずっと呂望になりたかったのだ。それは太公望もそうだ。この地で、人間として生まれ、人間として生き、人間として死にたかった」
「僕と出合ったのは、あなたにとっては無駄だったんですか」
「おぬしには悪いことをした」
「なんですか、それ」
 怒りをこめて小さく楊ぜんはつぶやく。
「わしの運命に巻き込んだ。四不象にも、武吉にも、天化にも、ナタクにも……」
「誰もそんなこと思ってませんよ!」
「わしと出会わなければ、おぬしは父も師も、失うことはなかったのだぞ」
「そのことに心を痛め、自分を責め続けたのは太公望師叔です。僕は誰よりもそばにいた。だから判っている。僕はそれだけでよかった。師叔がたとえ……たとえ父と師を捨て駒として使ったとしても……そのことに痛みを感じてくれたならそれでよかったのに」
 声を荒げれば、伏羲は辛そうにうつむいてしまう。
「痛かったよ。この身を切り裂いたほうが、ずっと楽だった」
「僕はそんなあなたが好きだった。そんなあなただからついていった。それなのに一人だけ楽になろうなんて……許しません」
「わしが隣にいてはおぬしが辛かろう?」
「だからって……逃げるなんて、許しません」
「許さぬか」
「そうですよ。だから早くそのおかしな変化を解いてください! 太公望師叔は消えてなんかいません。ちゃんとここにいるじゃないですか。伏羲なんて僕には見えません!」
「伏羲は見えぬか」
「僕の目の前にいたのは、いつだって師叔だけです」
「そうだのぉ、おぬしはいつもわしのことを師叔と呼んだ」
「さあ、ちゃんと前を見て、あごを引いて」
「おぬしとて……泣くときぐらい素顔を見せぬか」
「な、泣いてなんか!」
 楊ぜんは慌てて目をこする。
「ホントに泣いてなんかないじゃないですか!」
 涙をぬぐったはずの手の甲はからからに乾いていた。
「いや、ここで泣いてたら可愛いのぉと」
「どうせ僕は可愛くないですよ」
「でも、泣きそうになっておったのは本当であろう?」
 にやりと太公望は笑う。
「わしは楊ぜんに会いたい。さすれば、わしの中の太公望が目を覚ますやもしれぬ」
「師叔はあなただって言ってるでしょう!」
 楊ぜんはそういってそして変化を解いた。
「わしの、楊ぜんだのぉ」
 感慨深くそういった伏羲は、いつの間にか太公望の姿に戻っている。
「師叔」
 楊ぜんは目の前に現れた太公望に微笑もうとして、だけれど次の瞬間には思いっきりにらみつけた。
「どうした」
 太公望は飄々と尋ねる。
「ずるしましたね」
「な、何かのぉ」
 びくっとして太公望がどもった。
「師叔はこんなに背が高くありません! 不純な動機で変化を使わないでください!」
 現れた太公望の背は明らかに高すぎた。いくら始祖といえどもなれない変化に身体のバランスが取れておらず、はっきり言って凄く変だ。
「だあほめ、これはかっちょよく成長した太公望の姿だぞ。惚れ直したとかいえぬのかっ!」
「師叔は成長なんかしません。とっくに成長なんて止まってるんだから」
「ひ、ひどいのぉ」
 太公望はそういって顔を覆ったが楊ぜんは容赦ない。
「ほら、早く不正を正してください!」
「むぅ」
 しぶしぶ太公望は、楊ぜんとともに戦ったあの頃の太公望の姿に戻った。
「の、のぉ楊ぜん。やっぱりさっきのかっちょいいわしのほうが」
「違いますよ。こっちが僕の師叔です」
 楊ぜんはくすっと微笑む、そしてぎゅうっと太公望を抱きしめる。
「ほら、抱き心地も同じ」
「偶にはわしが抱きしめてみたかったのにのぉ」
 膨れる太公望を楊ぜんはそっと離す。
「師叔、仙界にもどりませんか」
「いや、わしはもう皆の前に姿を見せる気はないよ」
 太公望は首を振った。
「武吉君も、四不象もあなたに会いたがってますよ」
「そのうち忘れてしまうよ。また、そうでなければならぬのだ」
「僕だって……」
 楊ぜんは言いかけて唇を噛む。
「僕が泣いて縋れば、あなたは側にいてくださるんですか?」
「おぬしもわしの側におりたいか。そうかそうか、もてる男は辛いのぉ」
 太公望がニヤニヤするのを楊ぜんはキっとにらみつけた。
「やっぱりそんなことしません!」
 その言葉にくすっと太公望が笑う。
 その微笑があんまり優しくて、楊ぜんはきゅんっと胸が痛くなった。
「やっぱり、帰ります」
 逃げるように立ち上がる。
「泊まっていかぬのか?」
「帰ります!」
 引き戸を開けて、外に出る。
 おそらく、ここで別れたら二度と太公望に会う機会はないだろう。泣いて縋ればよかったのだ。素直になれない自分に腹が立つ。今だって引き返せば間に合うくせに楊ぜんは哮天犬を呼び出した。
 せめてさよならくらいちゃんと言えばよかった。
 空を見上げればきらきらと星が瞬く。
 未練がましく振り返ると戸口に太公望が立っていた。
「師叔……」
 口を開こうとすると、その前に太公望が口を開く。
「また会えるよ。楊ぜん」
 楊ぜんは大きく目を見開いた。
「おぬしがわしのことを思い出してくれさえすれば、いつでもまた会いに来よう」
 会いたいと思っているうちは会えない。忘れてしまえば余計に。ただ時折、ふと思い出す瞬間には側にいる。
「意地悪ですね。師叔」
「それともおぬし、わしと一緒に来るか?」
 太公望の言葉に楊ぜんは小さく首を振った。
「僕にはまだ、仙界に僕を必要としてくれる人がいますから」
 太公望は優しく微笑んで、ひとこと、そうか、とそういった。

 哮天犬に乗って楊ぜんは仙界に帰る。
 地上にはもう太公望の掘っ立て小屋は見えない。
 それでも楊ぜんには、太公望が空気のように近くにいるような気がしてならなかった。

end.

novel.