家路



01.覚醒



 ふんわりと体が浮き上がるような感覚があって彼は目覚める。わずかに身じろぎし、そのせいで顔にかかってしまった自分の長い髪を乱暴にかきあげ、そして、目を開いた。



 ぼんやりとしていた視界が徐々にはっきりとしてくる。まず目に入ったのは白い天井。いや、以前は白かったというべきか。お世辞にしたってあの色を白とは呼べないだろう。パールイエロー、いや、むしろアイボリー。そのうえ彼から見て右上のほうに薄い水染みみたいなものが見えた。彼はちょっと顔をしかめる。きっと雨漏りかなんかのあとだろう。無意識に彼はそんなことを考える。
 ぼんやりとしていた頭が、だんだんはっきりしてくる。濃い霧が消えていくように。真綿がつまったようにもやもやしていた脳が働き出す。
 ここはどこだろう。
 彼は思う。こんな場所、彼は知らない。
 周りを見回す。四畳半くらいの狭い部屋。左側は障子がぴったりしまっている。その向こうにも部屋があるのだろうか。人の気配はしない。右側に窓。白いレースのカーテンがかかっている。そのカーテンも心持薄汚れた感じがする。窓の外は明るい。青空がのぞけた。
 起き上がってみる。体を動かすのに一瞬のためらい。なぜだろう。どうやって体を動かしたらいいのか、一瞬わからなかった。どこをどうすれば、右手が動くのかわからない。脳と身体がうまくつながっていない。そんな感じ。だけれどそれはすぐに消えて、彼は布団から身を起こす。視界の転換。一瞬のめまい。彼は頭を抑え、それをやり過ごす。
 正面にクローゼット。それから……。机の上に黒い四角い箱のようなもの。何かの画面のような、おそらくはそこに画像を映す仕組み。何だろう、あれ。
 その隣に、書籍が並んでいる。並んで――いや、適当に放り込んである。明らかに天地が逆になっている本に彼は顔をしかめる。そんなふうに本を扱うのは好きじゃない。
 後ろには押入れがあるだけ。ひどく殺風景な部屋だ。まるであの人の部屋みたい。もっともあの人は本を天地逆さまに置くようなことはしなかったし、部屋をこんなに汚したりは……
 そこまで考えてから、彼はわからなくなる。
 あの人って誰だ?
 ……。
 思考にほんの少しのインターバルが生まれた。
 あの人。
 記憶をたどろうとする。どうしても、思い出さなくてはいけない気がした。何かを手繰り寄せようとして、でも手繰り寄せるべき糸がないことに彼は気づく。「あの人」の気配だけを頼りに、彼は自分の中を覗き込む。顔の輪郭もわからないまま、「あの人」の微笑だけが感じ取れた気がした。ほんの少し、暖かくなった。
 だけれどそれはほんの一瞬のことで、わずかに感じられたそれは次の瞬間には彼の手元を離れていく。微笑みは消えてなくなり、気配すら残らない。自分の中の一部が消し飛んでしまったような気がして彼は慌てる。
 気が付けば、祈るようにして手を胸の前で握り締めていた。どうすればいいのかがわからない。失ったものがあまりにも大きすぎて、彼は自分がどんな反応をしていいのかそれすらもわからないのだ。自分がひどくちっぽけになったきがした。
 もう一回。せめてもう一度だけ、あの気配を。彼は目を閉じる。あともう少し、せめて顔だけでも、それが駄目なら声だけでも思い出せれば……
 集中しすぎると頭がぐらぐらする。気が遠くなるような浮遊感とともに
 ――楊ぜん
 懐かしい声で呼ばれた気がした。
 ああ、あの人だ。彼――楊ぜん――は思う。顔はわからない。だけれど、声は、気配は、間違いなくあの人のものだ。そして
 ――師叔
 自分はあの人のことをそんなふうに呼んでいた。
 もう少しで、すべて思い出せる。
 だけれど。
 そのとき障子の向こうに人の気配がした。
 カンカンカン。鉄でできた階段を上がるような音がして、そしてその気配は楊ぜんのいる部屋のすぐそばで止まった。カチャカチャとかぎを開けるような音とドアノブの回る気配。きぃっと小さく音を立ててドアが開く。障子一枚隔てたところに誰か人がいる。
 うかつだった。楊ぜんは思う。
 この部屋が自分のものでなく、そして生活感があるのだから当然この部屋に誰かが帰ってくるという予測はついたはずだ。だとすれば楊ぜんのすべきことは、自分の記憶をたどることではなく、やってくるであろうその人物について備えておくことだったはずだ。
 障子の向こうにいる人物が、楊ぜんをここに寝かせたのか。それとも楊ぜんが自分からこの部屋に入ったことを忘れているだけなのか。前者について考えるのならば、それはどういう状況だったのか。そもそも障子の向こうの人物は楊ぜんの敵となりうるだろうか。
 いや、だけど。神経をぴんと張り詰めて楊ぜんは思う。向こうにいる人物は楊ぜんに敵意を持っていないか、あるいは持っていたとしても楊ぜんにとっては取るに足りない小物に過ぎないだろう。もしもそれなりに力のある人物だったら楊ぜんが起きていて警戒していることを感じているだろうが、扉の向こうにいる人物は警戒する様子も見せない。
 これなら、何かあっても切り抜けられる。最悪の場合は窓を割って飛び降りることも可能。
 でも。それはあくまでも普通の体調だったならだ。今の楊ぜんは動けないわけではないのだが、何か変なのだ。身体が自分のものではないような感じ。動くたびに感じる違和感。向こうはこれを知っていて、だから楊ぜんを警戒しないのだろうか。
 敵?でもそれならば、楊ぜんが寝ている隙に殺してしまうことだってできたはずだ。味方?でも、こんな気配彼は知らない。
 障子を見つめる。正確にはその合わせ目、ほんのわずかに開いた隙間を。障子の向こうの人物は、何を考えて楊ぜんをここに寝かせておいたのだろう。向こうに気づかれずに障子の向こうをのぞくことはできないだろうか。そっと障子に近づこうとして――
 するっ。
「何だ。起きてたんだ」
 きわめてあっけらかんと障子は開かれた。
 楊ぜんはぎくっとしてその場に固まる。だけれど、固まったのはそのせいだけではなかった。
 人畜無害そうににっと笑ったその顔。さっきまで必死で思い出そうとして、でもぜんぜん思い出すことのできなかった……
 太公望師叔……?
 口から出てきそうになった言葉をかろうじて飲み込む。
「どうしたの。人の顔じっと見つめちゃって」
 違う。
 顔も体格もとにかく見た目はそっくり同じ。しゃべる声さえあの人そのものなのに。明らかに違う何か。
 口調が違うのはもちろん、そのしゃべり方もあっけらかんとしていて、ひどく軽い感じがする。もっている雰囲気も、どことなく少年めいていて、幼さすら見える。親しみやすさという共通点はあるものの、彼からにじみ出ているのは全体的にすべてを茶化してしまうような無責任さだった。
 違う。師叔じゃない。まったくの別人。変な話だけれど、こんなに似ているのに、ぜんぜん似ていないと言い切ってしまうことすら可能なくらいの。
「……」
 口を開こうとして、そのときはじめて口の中がからからに乾いているのに気づいた。声は出なかった。
「ん、どしたの?」
 太公望のそっくりさんが顔を近づけてきたから、楊ぜんは慌てて後ろによける。仕方ないからのどを指差した。
「声が出ないわけじゃないだろ」
 そっくりさんは首をかしげる。いやに断定的。
 違う。と楊ぜんは首を振る。こんなとき太公望だったらすぐに気が付いてくれるだろうに。
 しょうがないからそっくりさんを押しのけてかってに台所まで行って蛇口をひねって水を飲んだ。さすがに勝手にコップを使うことははばかられたから、手で水をすくって。寝ぼけたような感覚の手に冷たい感覚の水の感触は気持ちいい。水は少し金気くさかった。
「いってくれれば、冷蔵庫の中にミネラルウォーターがあったのに」
 後ろでそっくりさんがのんきそうにつぶやいた。

next.

novel.