家路



02.眠り姫



 ちょっとばかりいらいらしながら太公望は廊下を歩いていた。心持早足で。向かう場所は自分がよく知っている部屋。時たま遊びにいって、歓迎されたり、邪魔だからと追い出されたり。それを嬉しく感じたり、少しだけすねて見せたり。
 だけれど今は、遊びに行くわけじゃない。大体こんな早い時間に彼の部屋を訪れたことはない。
 太公望は彼を起こしにいくのだ。自分の部下として。
「まったく、世話の焼ける……」
 ぶつぶつつぶやいてみる。朝は苦手だといっていた。朝議ではいつもこっそりあくびをかみ殺している彼を見たことがある。朝はボーっとしているから、存在感のない幽霊みたいだとからかったこともある。彼は反論する様子もなく、眠そうにごしごし目をこすっただけだった。
 だけど、それでも。今まで遅刻をしたことだけはなかったのに。
「疲れがたまっておるのかのぉ……」
 そう思えばかわいそうでもあったが、今はみな同じ状況なのだ。一人だけ特別視することはできない。
 それがたとえ自分の――恋人であっても。
 目的の部屋の前でぴたっと止まる。
 トントン。
 軽くノック。
 返事はない。
 トン。
「楊ぜん。起きておるか?」
 沈黙。
「おぬし今何時だと思っているのか。皆はもう集まっておるぞ」
 沈黙。
 ドアをたたく音がトントンからドンドンに変わる。
「楊ぜん!」
 返事はなし。
 まったく。
 太公望はちょっとためらってから、ドアノブに手を伸ばす。
 一体どうしたというのだろうか。よっぽど疲れているのだろうか。
 ノブをひねってから思い切ってドアを開く。一瞬の罪悪感。本人に黙って部屋に入れるほど、まだ親しいわけではない。
 だけれど。罪悪感を振り払うように太公望は考える。
 これは、緊急事態だ。そんな大げさなものではないが、でも、少なくとも自分にとっては。気まぐれな彼は、このまま起こさないでおいたら自分の寝坊を棚に上げて、何で起こしてくれないんですかっ!もう絶交ですっ。それくらい言いかねない――ような気がする。
 それでも、部屋に入っていくのにはほんの少し躊躇した。やっぱりまだ眠っているのだろうか、いやに静かだ。
 それに。
 何が、とはいえない。だけれど、一歩部屋に足を踏み入れたとたん、ひどく――不健全な感じがした。あえて言うなら空気が、だろうか。空気、それを構成する小さな分子。その一つ一つすら、まったく動いていない。そんな感じ。頭を押さえつけられるような不快感。何なのだろう、これは。
 ぴたっ、と太公望は止まる。何か、よくないことが起こっている。そんな気がする。暑くもないのにこめかみに汗が流れた。
「楊ぜん」
 低くつぶやいてみる。依然、返事はない。
 ゆっくり、何かを警戒するように歩き出す。だけれどそれははじめの一歩、二歩のことで、それから先は走るように歩いていく。寝台に向かって。楊ぜんはまだ起きてこない。
 それとも――起きられないのか?
 気配がしない。
 足がさらに速くなる。
 寝室というわけでもないけれど、ちょっと奥まったところに寝台がある。
 太公望はぎくっとして足を止める。
 何か動いた。楊ぜんではない、何か。
 だけれど、それはすぐに寝台のそばに置いてある姿身のことだと気づく。
 ほんの少し苦笑。鏡に映った自分の姿におびえるなんて。
 落ち着かねば。何をびくびくしておる。
 視線を移す。
 寝台の中に楊ぜんは、いた。
 特に変な様子もない。寝相はいいほうなのか、たった今眠りにつきましたといった様子で。規則正しい呼吸の音が聞こえる。顔色も悪くない。寝顔なんて見せてもらったことはなかったけれど、こうしてみると少し幼く見える。そんなことをいったら楊ぜんは怒るだろうけれど、でも、整いすぎて一つ間違えば彫像じみた、生きている感じがしないとすらいわれそうな、その顔を救っているのもまた、その幼さだったのだと気づく。
 ほんの少しほっとして、太公望は楊ぜんの肩に手をかける。
「楊ぜん」
 起きる気配はない。
 ほんの少しゆすってみると、頼りなくぐらぐらゆれた。
「楊ぜん?」
 楊ぜんは起きない。寝息が乱れることもない。だけれど。
「楊ぜん。おぬし、どうしたのだ?」
 気配がない。目の前に楊ぜんがいるのに、楊ぜんがそこにいるといった、存在感のようなもの、それがまったく感じられない。
「楊ぜん!」
 たまらなくなって太公望は楊ぜんを抱き上げる。眠っている人間の身体は想像以上に重い。上半身を抱え起こしたときに、がくっと楊ぜんの首が重力にしたがってのけぞる。白いのどが眼に焼きつく。
 その様子は、まるで人形の首がポロっと何かの拍子に落ちてしまった様子に似て。
 どきん、とした。心臓がわしづかみにされたような、というのはきっとこういうときに使うのだ。
 楊ぜんは起きない。目を開けない。ぴくりとも動かない。
 呼吸もそのまま。体温もちゃんとある。でも、何一つ反応しない。
 慎重に太公望は楊ぜんを元通り寝かせる。もちろん本当に首が落ちたわけでもなく、楊ぜんは気持ちよさそうに眠っているだけ。
 だけれど、明らかに何かがおかしい。
 それから太公望はありったけの大声で叫んだ。
「スープー!ちょっと来てはくれぬかっ!」
 今度は半ば予期していたことだけれど、楊ぜんはまたもや反応を返さなかった。
 変わりに部屋の入り口の方から声が聞こえる。
「どうしたっスか、ご主人」
 真っ白な霊獣は部屋の主に断らずに部屋に入るのに抵抗があったようで、廊下で大声を出した。太公望が手招きするとふわふわとやってくる。
「すまぬが崑崙までいって、雲中子か太乙を呼んできてはくれぬか」
 四不像はきょとんとする。
「病気っスか?」
 眠っている楊ぜんに異常があるようには見えない。
「わしにはよくわからぬのだ」
 まるでねじの切れてしまったおもちゃみたいに動かない楊ぜんの髪を撫でる。サボらずに修行しておけばよかった。今にして後悔しても遅いけれど。
 人にはむき不向きというものがあるもので、太公望の医学の成績はさっぱりだった。だから、これが病気なのか、それとももっと別のものなのか、それすらもわかってやれない。
「了解っス」
 それからちょっと早口で四不象は続ける。
「大丈夫っス。楊ぜんさんはご主人と違って普段から行いがいいからきっとすぐに治るっスよ」
 ぎゃあぎゃあ文句を返してくるはずだった太公望は、ただ頷いただけだった。
「そうだのぉ」
 つぶやくような声が聞こえて、四不像は心配そうに自分の主人を振り返る。それから、大きく開け放った窓から空へと飛び出していった。
 それを見送ってから太公望はつぶやく。
「駄目だのぉ。あやつにまで心配をかけてしまった」
 少しためらってから、楊ぜんの頬に軽くてを這わせる。額が触れ合いそうになるまで顔を近づけて、そして言った。
「わしはちょっくら朝議に出てくる。すぐに戻るから、それまで安心して眠っておれ。楊ぜん」
 楊ぜんからの返事はない。
 太公望は楊ぜんの部屋を後にする。
 部屋を出たところで顔を引き締めた。
 周軍軍師太公望としての顔を。

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