家路
03.トリップ
水を飲み終わって、何とかしゃべれそうになると楊ぜんはそっくりさんを振り返る。そっくりさんのほうはといえば、ずっと楊ぜんを眺めていたようで、そういうことをされると楊ぜんとしては非常に気まずい。何か話さなくちゃいけないような気がして楊ぜんは口を開く。
「誰?」
相手が何者なのかわからなかったから、楊ぜんは短く訊いた。
「そういうことは、まず自分が名乗ってから聞くもんなんじゃないの?」
にやけたような顔で、そっくりさんは答える。実際にやけているのかもしれない。
「楊ぜん」
自分の名前を知らないってことは敵ではないだろう。そう判断して楊ぜんは短く答える。
「伊崎涼。大学生。もっとも大学なんてほとんどいってないけどな。出身は東京で、見てわかると思うけど、一人暮らし。現在彼女募集中。そんなとこでいい?」
人懐っこそうにそっくりさんは笑う。そっくりさんのプロフィール。
「いさ……?」
楊ぜんはきょとんとする。ちらほらとよくわからない単語の羅列。
「涼でいいよ」
「それ名前なの?」
「そうだけど」
「変わってる」
「こっちだと、あんたの方が変わってることになると思うけど」
「こっち?」
「ああ……、日本って意味」
またわからない単語。ニホン。楊ぜんは首をかしげる。
「あんたさ。自分の状況、わかってる?」
身を乗り出すようにしてそっくりさん――涼――は言う。
わかってない楊ぜんは首を振った。
だろうな、と涼は笑う。
「昨日の夜さ、その、うちのアパートの前で倒れてたんだ。はじめは酔っ払いかとも思ったんだけどね、髪長いから女の子かな〜とも思ったの。そしたら、女の子あんな場所に寝かせて置けないじゃん。この辺治安悪いし、春だから変質者とかも出るんだよね。俺、結構良心的だからさ。もっとも運んでるうちにあんたが男だってわかってガックリきたけど」
あっけらかんと話す涼に、楊ぜんは少し戸惑う。この顔でこんな話し方をされると、やっぱりかなりの違和感がある。
それにしても、涼の話からすると、自分は倒れていたところをたまたま涼に助けられたということか。敵にでも会ったのだろうか?わからない。よく思い出せない。そもそも自分は何をしていたのだろう?
楊ぜんは立ち上がる。一刻も早く帰らないと。師叔はきっと心配して待ってる。まさか、楊ぜんが殺されたとは思ってないだろうけれど、でもきっと心配してくれているだろう。
帰って、あなたにそっくりな男の子を見つけましたよっていったら、師叔はどんな顔をするだろう。それを考えると少しおかしかった。
「ありがとう。とりあえず御礼は言うよ。じゃあ、僕は帰るから。ここはどのあたりかな。周の方角ってわかる?」
「シュウ?」
だけれど、今度は涼が怪訝そうな顔で聞き返した。
「シュウって何?」
楊ぜんは戸惑う。そんな反応は予期していない。
「なにって……周は周だよ。西岐。武王が統治して、太公望師叔とともに殷を倒す」
涼は黙り込んで、眉間にしわを寄せるようにして考える。何かを思い出そうとするように。それからおもむろに口を開いた。
「まさか……あんたがいってんのは、中国史の中に出てくる周のことか。夏、殷、周、春秋戦国、秦、漢……。そのあとはなんだったっけな。よく覚えてないや。武王の前が文王だったっけ?太公望っていったら釣り人の代名詞だけど……でも言われてみればそれだけじゃなかったよな」
楊ぜんはさらに戸惑う。夏、殷、周、それはわかる。だけれどそのあとは何だ?師叔が釣り人の代名詞?桃泥棒の代名詞ならわかるけど。
涼は続ける。幾分不信そうに。
「なぁ、楊ぜん。だけどそれって、紀元前のことだろ。今何年だと思ってんだよ。二十一世紀だぞ。冗談だろ」
涼の言葉がうまく飲み込めなかった。ひょっとしたら涼は敵なのかもしれない。だから、わけのわからないことをいって楊ぜんを足止めする気なのかも。
「君のほうこそ。冗談言ってるんじゃないの?とにかく僕は帰るから」
わけがわからなくて、気味が悪かった。早口でそういって、逃げるようにドアノブをひねる。
変なところに来てしまった。早く帰らなくちゃ。
きぃっと音がしてドアが開く。
目の前に広がった光景。
……。
楊ぜんは呆然と立ち尽くす。
そこにあったのは、崑崙にならいざ知らず、地上には絶対にないはずのもの。
地上に伸びたいくつもの白い柱。霞がかって見えるほどの超高層ビルの群れ。窓ガラスが光を反射して、きらきら光って見えるそれは、楊ぜんにはひどく不気味なものに思えた。
そしてうるさいほどの音の洪水。どこかで、自動車のクラクションが聞こえる。踏み切りのしまるカンカンカン、という間延びした音。
前方に塔のようなものも見える。
これは何?
気が遠くなる。頭がぐらぐらする。血の気がうせてゆく。
「なかなかすごいだろ。東京タワーが見えるんだ。夜になると結構綺麗だぜ」
涼の声をBGMに楊ぜんは自分が、まるで糸の切れたマリオネットみたいに崩れ落ちていくのを自覚していた。目の前が真っ暗になる――
嘘だ。こんなもの、あっちゃいけないのに。
現実を拒否した頭は考えることすら放棄した。
そしてBlack out。
あとはただただ真っ暗闇。
☆
楊ぜんが倒れていくのを、半ばあっけにとられてみていた涼は、はっとして駆け出すと楊ぜんを抱きかかえる。だから、楊ぜんはかろうじて無防備なまま、コンクリートの廊下に頭をたたきつけるということにはならなくてすんだ。もっともそのときすでに失神していた楊ぜんが、涼に感謝してくれることはなかったのだけれど。
ほっとして涼は楊ぜんを抱きかかえたまま、その場にしゃがみこむ。そしてくすっと笑った。
「よく倒れるやつ」
顔にかかった髪を払ってやる。
楊ぜんはまつげ一本動かさない。
だけど、ホントに、ほんっとに近くで見ると綺麗な顔してるよな。遠くから見たときでもそう思ったけど。でも近くで見たほうが余計綺麗だ。
だけどさ。くすくすくす、いたずらっ子めいたしぐさで涼は笑う。
もうちょっと場所選んで倒れてくれないかな。俺、そんなに体格ないから、あんた運ぶの結構手間なんだよね。あんた、軽いんだけどさ、身長あるんだもん。
そんなことを思いながらも、涼は楊ぜんを抱きかかえて立ち上がる。できるだけ、引きずらないように、何かにぶつかったりしないように注意しながら。
幸運にも、というべきか涼の部屋は広くはなかったのでこれはそんなに手間取らなくてすんだ。
しいたまんまだった布団に寝かせて、掛け布団をかぶせる。ちょっと苦しそうに見えたので、襟元を緩めてやった。白い肌が見えて涼は慌てて視線をそらす。
人の看護なんかしたことがない。このまま寝かせておいたので大丈夫だろうか。
ちょっと考えてから、固く絞ったタオルで顔を拭いてやる。顔色は悪くない。そんなに心配することもないのだろうか。いきなり倒れるからびっくりするのだ。
少しばかり安心して涼は楊ぜんの顔を見下ろす。そして少し表情を緩める。軽薄そうな表情が一転してなくなる。あとにあるのは優しい、少し幼さの残るあくまでもやさしい顔。
戸惑ったようにてを伸ばし、少しばかり躊躇してから軽く楊ぜんの頬に触れる。
小さく何かつぶやいた。声にならないくらいの音で。
「やっと会えたね。楊ぜん」
next.
novel.
|