家路



04.杞憂



 朝議が終わるや否や太公望は執務室を飛び出した。思った以上に手間取ってしまった。進軍に関する予算が決まらなかったのだ。
 楊ぜんが朝議に出てこないのは、性質の悪い風邪を引いたようだから、無理やり休ませたといっておいた。もちろん、うつると大変だから見舞いなどにも行かぬように、と。
 その判断が良かったのか、悪かったのか今の太公望にはわからない。ただ、人間というものは自分にとって都合の悪いものは無意識に見まいとするもので、太公望としても、楊ぜんが本当にただ疲れて寝過ごしてしまっているだけならば――たとえその確立が一割あるかどうかさえ疑わしいものだったとしても――下手に大騒ぎするのは、楊ぜんにとって良くないと考えたのだ。
 もちろん、楊ぜんがこのままずっと目覚めない確立も考慮しておかなくてはならない。その場合は、楊ぜんをいったん崑崙に返すしかないだろう。そういう考えはしたくないが、しかしその場合楊ぜんが足手まといになるのは否めない。楊ぜんを危険にさらすこともしたくない。ただ、それができるかどうかも、疑わしい。間違ってもこの状況を殷に知られるわけにはいかないからだ。そして、殷に気づかれないように崑崙にいくのはとても難しい。
 どちらにせよ、今はごく少数のものだけが知っていればいい。



 楊ぜんの部屋の前で太公望はぴたっと止まる。
 このドアを開けたら、なんでもないような顔をして楊ぜんが出てきてはくれないだろうか。いきなり開け放たれたドアに振り返って、形のいい眉をほんの少しひそめて、
 ――師叔。ドアをあけるときはちゃんとノックしてくださいって、いったじゃないですか。
 たしなめるようにそういうのだ。
 そうだったらどんなにかいいだろう。
 だけれど、ドアを開けて振り返ったのは楊ぜんではなかった。
「やあ、太公望。四不像からきいてきてみたんだけど、楊ぜんがどうかしたのかい?」
 黒尽くめの背の高い仙人は、穏やかにそういった。
「おお、太乙。来てくれたのか」
 こくん、と太乙真人は頷く。
「四不像の様子がおかしかったから、何があったのかと思ってきてみたんだけど、私にはこれといった異常は見えないよ」
 太公望は楊ぜんに目を移す。朝と変わらず、楊ぜんは眠っているだけ。白い清潔なシーツと、明るい日差しのせいで、それは気持ちよさそうにすら見える。
「しかしぜんぜん起きぬのだ」
「疲れがたまってるんじゃない。ちゃんと休ませてた?」
「多少の無理は……あったやも知れぬ」
 楊ぜんは無理を顔に出さないからわからないのだ。
「単なる寝不足じゃないかな。深く眠っちゃうと、起こしてもおきないってことは結構あるよ」
 そんな簡単なことではない、と太公望は思う。
「しかし、楊ぜんがそこにいるという感覚が全然ないのだ」
 太乙真人は首をひねる。
「おきているときに存在感がありすぎるから、逆にわからないんじゃないかな。それとも、眠るときも一緒にいるような関係だったわけ?」
 意味深な太乙真人の発言に太公望は心持赤くなる。
「ふぅん。図星だったんだ」
 そんな太公望の反応に興味深そうに太乙真人は笑った。
「べっ……別に何もまだしておらぬ」
 律儀に太公望が返すものだから、太乙真人としては面白くてしょうがない。
「と、言うことはいずれは、何かするつもりだったんだろう」
 かわいそうに太公望は耳まで真っ赤になった。
「君も案外面食いだったんだね」
「わしはそういうことで楊ぜんを好きになったのではないっ」
「好きなんだ」
「うっ……」
 太公望はさくらんぼみたいに赤くなって、ついでにしどろもどろになった。
 その様子にくすっと太乙真人は笑う。楊ぜんの髪をやんわりなぜてつぶやいた。
「良かったね。楊ぜん」
 それは本当に小さな声だったから太公望の耳には届かなかったのだけれど。
 小さいときは、泣き虫で怖がりな子だった。オバケや幽霊を怖がるんじゃない。誰かに嫌われることをとことん怖がっていた。玉鼎真人が用事で出かけたときは置いてきぼりにされたんじゃないかと、ちょっとでも帰る時間が遅れると自分は捨てられたんじゃないかと、こっちがかわいそうになるくらいそういうことを恐れていた。
 そのくせ一人で、部屋に閉じこもって泣くのだ。人前で泣くことがどうしてもできない子だった。だから心配だった。いつか一人ということの重みにつぶれてしまうんじゃないかと思って。
 でも。
 良かったね、楊ぜん。君は一人じゃない。
 太公望の前でなら、君は泣けるようになった?
 やんわりと髪をなぜていた手に視線を感じて太乙真人は顔を上げる。
 と、思いっきりいやそうな顔をした太公望。吹き出すのを必死にこらえて太乙真人は言った。
「ごめん。もう楊ぜんは私の小さな楊ぜんじゃないんだね」
 「私の」という台詞に太公望はさらにいやそうな顔をする。
「気安く人のものに触れるでないっ」
「触らなきゃ、楊ぜんの具合がどの程度悪いのかわからないよ。もっとも、さっきも言ったように私には眠ってるだけに見えるけどね。脈も正常だし、熱もない。このまま寝かせておけば明日には起きるんじゃないかな」
「むぅ……」
 太公望はうなる。これはよっぽどお熱みたいだ。太乙真人は笑いをかみ殺しながら言った。
「このままここにいると君に嫌われそうだから帰るよ。何か異常があったら呼んでくれれば……」
「いや」
 きっぱりと太乙真人の台詞をさえぎって太公望は言う。
「楊ぜんがおきるまでここにいてはくれないかのぉ」
 太乙真人は怪訝そうな顔をする。太公望はやけに弱気だと思った。
「それはかまわないけど。私としてもナタクの様子が見られるしね。だけどやけに心配性になったね。老化現象かい」
「そうやも知れぬのぉ……」
 太公望はうなるようにそういった。
「で、私はどこに泊まればいいのかな。そんなに心配ならこの部屋に泊まろうか?そうすれば楊ぜんの様子が変わったときにでもすぐに対処できるし、私は別に椅子ででも眠れるよ」
「いや。おぬしには部屋を用意する。楊ぜんはわしが見ているから良い」
 これまたきっぱりと太公望が言い切ったので、太乙真人は今度こそ笑いそうになった。
「大丈夫だよ。明日になったら杞憂だってわかるから」



   ☆



 日が暮れるころ、太乙真人は気がすむまで太公望をからかうとナタクの様子を見に行くと出て行った。おしゃべりな太乙真人のいなくなった部屋は一段とさびしく思えた。太公望は楊ぜんの寝台のすぐそばに椅子を引っ張ってきてそこに腰を下ろす。
「楊ぜん。疲れておったのかのぉ」
 太乙真人が払っていったのか楊ぜんの髪はそれほど乱れてはいなかったのだが、太公望はそのあとを消そうとするように少しだけいじってみた。
「すまなかったのぉ。何にもわかってやれないで。でも、わしはもう少し甘えて欲しかったよ。楊ぜん。わがままくらい、いくらでも言ってくれてよかったのだぞ」
 楊ぜんからの返事はなかったが、太公望は敢えて声に出して続けた。
「もっとも、いってくれたところで、かなえてはやれなかっただろうがのぉ。ふがいないのぉ、わしは」
 軽くまぶたをなぞってみる、男にしては長すぎるくらいのまつげが指先に触れた。
「目を開けてくれぬか、楊ぜん。おぬしに会いたい」
 目を開けて、自分を見て欲しい。
 明日になったら本当にこの眼が開くのだろうか。
 ――おはようございます。師叔。何でそんなところで寝てるんですか?
 そういって無邪気に笑ったりするのだろうか。



 眠ることなんて到底できないと思っていたのに、自分自身も疲れがたまっていたのだろうか、夜がふけるにしたがって太公望も眠りについた。



   ☆



 翌日。やっぱり楊ぜんは目覚めなかった。

next.

novel.