家路



05.喪失



 つぎに楊ぜんが起きたとき、涼はいなかった。
 外は明るい。頭が重い。ひょっとすると、半日くらい寝ていたのかもしれない。
 自分が気を失って倒れたことをぼんやりと思い出した。情けない、と思う反面、あれは本当だったのだろうか、という思いが頭の中に渦巻いて、楊ぜんは首を振る。確かめるのは簡単だ。立ち上がって窓の外を見ればいい。だけれどその勇気はなかなか出てこなくて、楊ぜんは言い訳のようにあたりを見回す。そしてテーブルの上に書置きを見つけた。

 ――バイトにいってくる。冷蔵庫の中に食い物はあるから適当に食べてろ。金は一応ここに置いとくけど、釣りが出たらちゃんと返せよな。俺は金欠病なんだ。
 ――追伸。あんまり外に出るな。 涼

 最後の、追伸の一文だけが走り書きしたような、いくぶん乱れた筆跡だった。でも、それ以外は綺麗な字だ、と思った。
 そのすぐそばに、ぴらぴらした紙が一枚。日本銀行券、千円。楊ぜんは首をひねる。これがつまり、お金なのだろうか。こんな、紙切れ一枚が?
 ちょっと考えてから楊ぜんは、その日本銀行券をテーブルの上において、もう一回書置きを眺めた。
 つまり涼は出かけたらしい。あんまり外に出るな。余計なお世話だ。
 でも、それでは外に出てみる気があるのかと聞かれたら、楊ぜんは困るしかない。認めたくはないが、自分の理解を越えた出来事に怖気づいているのは事実だった。
 どうしよう。
 楊ぜんは考える。
 とりあえず顔を洗ってから、ふと気づいた。
 この部屋、鏡がない。
 どうでもいいことだ。そうは思うのだけれど、気になると頭の中にこびりついてしまうもので。それにいくら男の部屋だからって、鏡をひとつも置いていないなんてことあるだろうか。
 人のことを詮索するのは良くない。
 それはわかるのだけれど、鏡がないと落ち着かない。きっと髪の毛なんかぐしゃぐしゃで、ひどい顔をしているだろう。外に出たくても出られない。
 そこに楊ぜんは言い訳を見つけて、少し部屋の中を捜させてもらうことにした。
 あるいは、自分が今置かれている現状と全然別のことを考えていたかっただけなのかもしれない。ふとそんなことを思う。軽く頭を振って楊ぜんはその考えをふるい落とした。
 今は、鏡。それだけ考えていればいい。
 立ち上がって振り返って、そして窓の外が見えた。
 高層ビルの群れは見えなかった。それに楊ぜんはほっとする。もちろんそれは方角が違うというだけの話なのだろうけれど、それに、たとえ高層ビルが見えなかったところで、広がる町の様子はかなり異様だったのだけれど、少なくとも、楊ぜんはそれを正視することができたし、もちろん倒れたりもしなかった。
 違う場所に来てしまった。
 ぼんやりとそんなことを思う。
 あるいは。
 こういったほうが正しいのかもしれない。
 違う世界に来てしまった。
 徐々にわかりかけていた。
 この世界でどんなに探したところで、西岐にたどり着くことはないし、師叔にもあえないだろうということが。
 自分はもといた世界からはじかれてしまったのだ。
 絶望というにはあまりにも、深い。
 すべての思考が停止したように楊ぜんは無表情に町を眺めていた。
 知らないところだ。自分の知らない。
 こんなところで、いったいどうしろというのだろう。
 その感覚には覚えがあった。はるか昔、崑崙に預けられた頃にもこんな感覚を味わった覚えがある。もちろんそれは、ちゃんとした思考を伴ったものではなかったが。
 またか。
 自嘲にも似た笑い。
 一度ならず二度までも楊ぜんは故郷を失ったのだ。
 涙なんか、でてこなかった。全然。
 楊ぜんは窓からの景色を避けるように回れ右して、そしてつぶやいた。
「そうだ、鏡探すんだった」
 口から出た言葉は、ひどく乾いていた。



   ☆



 鏡を探すのに、あんまり時間はかからなかった。涼の部屋は極端に物が少なかったし、だから当然探す場所だって限られていた。楊ぜんが見つけたのはわけのわからないガラクタだけだ。
 鏡はどこにもなかった。
 もっと徹底的に探すことだってできたかもしれないけれど、どうやら自分を助けてくれたらしい人の家を家捜しする気にはとてもならなかった。第一鏡をそんなわかりにくい場所においておくわけもない。それにそういうことをするのは人のプライベートを勝手に覗き見たみたいで、あまり気分のいいものではない。
 だけど、ただひとつ、気になったことがある。
 クローゼットの扉の裏側に長方形の白い跡。おそらくここに鏡がかけてあったのではないだろうか。故意に取り外されたようなあとがあるのだ。もちろん割れたから取り外したのだと思えばつじつまは合うのだが、こんなところの鏡がそんなに簡単に割れるものだろうか。
 涼が帰ってきたら聞いてみればいい。そうすればきっと納得いく回答をくれる。
 それにしても。
 涼は自分の顔が嫌いなのかな。
 結局楊ぜんはそう結論付けた。
 自分の顔が嫌いで、だから鏡も嫌いなのかもしれない。だからクローゼットの鏡も取り外しちゃったのかも。
 それはあんまり嬉しい発想でもなかった。涼の顔はホントに太公望にそっくりなのだから。
「僕はあの顔キライじゃないんだけど」
 楊ぜんはそんなことをつぶやいて赤くなる。
 だけど次の瞬間いいようのない寂しさが襲ってきた。
 もう自分は師叔にあえないんだろうか。
 ぺたん、とその場にしゃがみこむ。
 故意に考えないようにしていたのに、その考えは隙を見せると襲ってきて楊ぜんを押しつぶそうとする。
 そんなのは嫌。絶対に嫌。
 どうしたらいいのかわからない。どうすれば帰れるのかも全然。だけど、絶対に帰ってみせる。たとえ一生かかっても、あの人の隣に帰ってみせる。
 ぎゅっと手を握る。くじけないように、負けないように。
 師叔。あなたに会いたい。
 鼻の奥がツンとなって、視界がぼやけた。
 泣いたら駄目。しっかりしなくちゃ。
 にじんだ涙を乱暴にぬぐった。
 狭い部屋の中にひとりぼっち。
 もう永遠に誰も帰ってこないような錯覚すら抱かせる。
 楊ぜんは虚脱したようにドアを見ている。



 それからどれくらいたっただろうか。
 カチャンと鍵が外れて、ドアが開く。
 楊ぜんはぼんやりした眼でそれをじっと見つめた。
「あ、楊ぜん。起きてたんだ」
 やわらかい声。
 入ってきたその人を見た瞬間。
「師叔っ!」
 駆け寄って、そして抱きついた。
 その声を聞いた瞬間、どうしようもなくなってしまったのだ。淋しかった。誰かにそばにいて欲しかった。もう一秒だって一人にされるのは耐えられない。
「えっと、あのぉ……」
 だけどもちろん、部屋に入ってきたのは涼のほうで、彼は困ったように抱きついてきた楊ぜんを見る。引き離すべきか、落ち着くまでこのままにしておくべきか迷っているようである。
 ほんの少し赤くなって涼はそっと楊ぜんの肩に手を乗せた。持っていたスーパーの買い物袋が落ちて、缶詰がからからと音を立てた。
「楊ぜん、どうした?何かあったのか?」
 幼い子供に話し掛けるような声。
 はっとして楊ぜんは顔を上げる。それから、気まずそうに涼から離れた。
「ごめん。ちょっと勘違いしてたんだ」
 涼は怪訝そうな顔をする。
「僕の知り合いに、君、そっくりだから」
「ああ、その。スースってやつ?」
 こくん、と楊ぜんは頷く。
「そいつと間違えて、こういう行動に出るってことは、コイビトとかだったわけ?」
 ぶっきらぼうな口調の涼に楊ぜんは小さく頷く。
「俺に似てるってことはさ、やっぱり女じゃないよな」
 楊ぜんはそこでようやく急にぶっきらぼうになった涼の口調に気が付いた。
「気持ち悪いと思う?」
「いや」
 涼は短く答える。
「あんたならそういうこともあるかなって思う」
 その言い方は、ちょっと怒っているようにも聞こえた。だからやっぱり涼は口ではそんなことを言ってくれたとしても、やっぱり気味悪がっているのかもしれなかった。まして相手が自分にそっくりというのならなおさらかもしれない。



 結局楊ぜんは鏡については何も聞けなかった。
 代わりに思っていた。
 もう涼の所においてもらうわけには行かないんじゃないだろうか。涼が出て行けといわないのなら自分から出て行くべきなんじゃないだろうかと。

next.

novel.