家路
06.ego
太公望は部屋の隅でじっとその様子を見ていた。
昨日は冷やかすように笑っていた太乙真人の表情も、どことなく真剣になっているようで、それがいっそう太公望を不安にさせる。
白い清潔なシーツの上で楊ぜんはまだ眠ったまま。聴診器を当てるためにとはだけられた白い胸が、明るい日差しの下、ひどく痛々しい。栄養を補給しなくちゃいけないからと、左手首につけられた点滴がそれに拍車をかけた。
太公望は黙って太乙真人が楊ぜんを診察する様子を少しはなれたところでじっと見ている。
こんなときだというのに日差しはひどく明るい。
太乙真人は一通り楊ぜんを診察したあと、口を開いた。
「異常はないんだ」
その言葉が耳に染みとおるまでの一瞬。痛いほどの静けさ。
「それはつまり……どうして楊ぜんがこのような状態になったかわからないということか?」
半ば詰問調で太公望は聞き返す。
「手っ取り早く言うとそういうことになるね」
太乙真人はそれに動じることなく答えた。
それはつまり、楊ぜんを治す方法もない、という答えにつながる。
「本当に、眠っているだけなのか?」
いっそ異常があって眠っているのなら、まだ何か方法があるかもしれないのに。
だけれど太乙真人は彼としては珍しく淡々と言葉をつむぐ。
「私が見た限りでは。もしも私の言うことが信じられないのならば、雲中子を呼べばいい。ただ、それで事態が解決するとは、私は思わない」
それはおそらく、医者としての太乙真人の言葉なのだろう。
「そうか。では……」
太公望は言いよどむ。口に出したくはないがどうしても訊いておかなければならない質問だった。
「楊ぜんは一生このままなのか?」
一生眠ったまま。植物人間という嫌な単語が頭の中を掠めた。
「それはわからない。いきなり眠りつづけたんだからいきなり起き上がることもあるかもしれない」
「可能性は?」
「今は……そうだね、五分五分としかいえないな」
太乙真人は少しつらそうな顔をする。太公望はあえて無表情を保っていた。
「どうしようもないのか?」
「ある種の薬品を与えてみるという方法はあるかもしれない。あるいは電気ショックとか。ただ……その場合上手くいっても後遺症が残る可能性もある」
もしも楊ぜんが命にかかわるような病で倒れたのならば、あるいは太公望はそれに賛成したかもしれない。だけれど、今の楊ぜんは眠っているだけなのだ。そんなことは耐えられない。
その場に重い沈黙。窓から入ってくる風はひどく乾いていた。
太乙真人は少しためらってから再び口を開いた。
「これは本当なら私から話すべき事じゃないんだけど」
太公望は顔を上げる。
「楊ぜんが妖怪だということか」
「うん。つまりそういう可能性もあるってことだ。これが妖怪特有の病気だったり症状だったりした場合、私には手のうちようがない」
太公望は口を閉じた。
何も言うべき言葉が見つからなくて、でももやもやしたものが頭の中をぐるぐる回っていた。それは自分自身を責める言葉だったのかもしれないし、あるいは太乙真人への八つ当たりだったのかもしれない。それを口に出してしまえるほど、太公望は子供でもなかったけれど、それを消化してしまえるほど大人にはなれなかった。
「太乙。楊ぜんは崑崙に返したほうがいいのかのぉ」
だいぶ時間がたったあと太公望はぽつんとそういった。それはひょっとすると一秒か、二秒くらいの長さだったのかもしれないけれど、二人にはひどく長く感じた。
「私としてはそうしたいね。ここは危ないし。楊ぜんだって君のお荷物になることは望まないと思う。――それに、脳波を取ってみたいんだ」
「脳に何か問題があるのか?」
そう訊き返しながらも、太公望は楊ぜんを手元に置いておきたいと思っている。だからこの質問は最後の抵抗。
「そうとはまだ言い切れないけれど、ひょっとしたら楊ぜんがこうなった原因がわかるかもしれない」
そういわれてしまえば、太公望としては頷くことしかできない。ぼんやりと見つめた楊ぜんは、能天気に眠っているように見える。このままずっと起きないかもしれないなんて、誰が信じるだろう。
「のぉ、太乙。わしがついていってやることはできぬかのぉ」
「君は誰だい?」
珍しく強い口調で太乙真人が言う。太公望は表情を変えなかったけれど、その様子がなぜかうなだれてるように見えた。
「……そおだのぉ。わしが任務を放り出したら、楊ぜんは怒るだろうのぉ」
周軍軍師太公望は、悲しそうにそういった。
太乙真人は、ぽんっと、太公望の頭に手を乗せる。太公望は背が低いから、そんなことをされると本当に小さく子供のように見えてしまう。
「何をするのだ」
太公望は怒った。カタチばかりに。
太乙真人は薄く笑う。
「君と楊ぜんは似てるんだね。違うように見えても、よく似てる」
太公望はちょっと戸惑う。
「そうかのぉ」
「君は滅多にそれを表に出さないけれど」
日の光は暖かい。
太公望は自分がどんな表情をするべきなのか良くわからなかった。
太乙真人の言葉は的を射ているように思えた。自分は楊ぜんを失うことをひどく恐れている。楊ぜんを一人にしておきたくないといっておきながら、実際に一人になりたくないのは自分なのかもしれなかった。甘えていたのはむしろ自分のほうだ。
考えたくはなかったし、気づきたくもなかった。
だからずっと考えなかった。
だけれど。
楊ぜんを守っているつもりだった。一人になるのを怖がる楊ぜんについていてやっているつもりだった。かわいそうなお姫様を守る白馬の騎士、それはなんと気持ちのいいものだっただろう。
だけれど結局のところ楊ぜんはただの当て馬で、後ろに控えているのはどろどろとしたエゴ。一人になりたくないのはむしろ自分。楊ぜんを利用したのは都合が良かったから。楊ぜんを利用すれば、一人になりたくない弱い自分を見なくてすむ。
愕然とした。
だとすれば、なんて汚いのだろう。自分というものは。
「太公望?」
一人自分の考えに沈みこんでしまった太公望に太乙真人は気遣うように声をかける。
「いっても無駄かもしれないけどさ。気を落としちゃ駄目だよ。楊ぜんはそんなこと望んでないんだから」
太乙真人は太公望が楊ぜんの状態を聞いて落ち込んでいると思ったらしい。
実際にそうだったらどんなにいいだろう。だけれど太公望は自らの心を覗き込んで、唖然としていただけだった。
「太乙、楊ぜんが目覚めるときは呼んでくれぬか、あやつは一人だと淋しがるから……」
自分の口がそんな言葉をつむぎだすのを太公望は人事のように聞いていた。それが本当に楊ぜんを思いやって出た言葉なのか、それとも自分自身に対する言い訳なのか、太公望にはわからなかった。
「うん、わかった。太公望。君もちゃんと休まなきゃ駄目だよ」
「ああ」
上の空で太公望はつぶやいた。
眠っている楊ぜんの顔をじっと見つめる。
愛していると思っていた。
軽くなぞった顔の輪郭。楊ぜんは身動き一つしない。
それが嘘だったとは思わない。
だけれどそれは――
それは本当に愛と呼べるものだったのだろうか。
楊ぜん。
ああ、だけれど。
たとえそれがエゴでしかなかったとしても。
おぬしにそばにいて欲しい。
たとえそれがエゴでしかなかったとしても。
next.
novel.
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