家路
07.過去
「は……ん。で、あんたあてがあるわけ?」
これ以上世話になれないから出て行くというと、やや意地悪く涼はそんなことを言った。
楊ぜんは黙る。そんなものあるわけない。
「行き当たりばったりで行動したってさ、あとで泣くのはあんただぜ?」
「泣いたりしない」
涼は頭をほりほり掻いた。
「ただの比喩だよ」
楊ぜんはなんだかくやしくて黙っていた。
「そうじゃないんだ。そんな話しようと思ってたんじゃなくって」
そういって涼は鞄の中からごそごそ何かを取り出した。乱暴に床の上にほうり出されたのは何冊かの本。
「借りてきたんだ。図書館入ったのなんて小学生以来だからちょっと迷った」
そういって笑う。
「あんたが言ってた、周時代の資料だよ」
楊ぜんは一冊手にとると表紙を眺めてみる。装丁はひどく綺麗だけれど、あまり大事には扱われていないらしい。角のあたりがふにゃふにゃになっている。本のタイトルは『殷周革命』。赤い表紙に金の飾り文字。
楊ぜんはしばらく本の表紙をただ撫でていた。
「どうしたの。中、読まないわけ?」
涼が顔を覗き込んでくる。
楊ぜんはこくんと頷いた。
「どうして?」
「だって、これを読んだら未来がわかっちゃうんだろ」
涼が黙っているので楊ぜんは続けた。
「そういうのって、ずるいと思うんだ。みんなが一生懸命働いてるのに僕だけが未来を知ってて上手く立ち回れるなんて、すごくずるいよ。それに、そんなことになったら、僕思い上がっちゃうもの。だからこれは読まない。ごめんね、涼」
涼はちょっと首をかしげて口を開く。
「今が、未来なのか?そっちが過去なんじゃなくて。楊ぜんはそう思ってるのか」
「え……?」
楊ぜんはきょとんとする。
「なぁ、楊ぜん。あんた本当に、タイムトリップなんてできると思ってるわけ?」
「何を言ってるの、涼」
「今の技術だってさ、そんなことはできないんだぜ。時間旅行なんて不可能なんだ」
「だって、じゃあ。僕はどうしてこんなところにいるのさ」
涼が変なことを言うから楊ぜんは不安になる。
「あんたは、この時代に生まれたからここにいるんだよ」
「は?」
「周だのなんだののほうが幻覚なんだ」
「冗談じゃないよ。そんなことあるわけない」
「どうしてそういいきれる?」
「言い切れるって、あたりまえじゃないか」
楊ぜんはちょっと声を荒げる。動揺している自分を、無理やり納得させるように。
「僕には記憶があるんだ。師叔と一緒にいた記憶も、師匠と修行した記憶も」
が、涼はあっさりという。
「記憶なんて簡単に改変できる」
涼の声はひどく冷たい。楊ぜんはぞくっとする。
「じゃあ、涼は誰かが僕の記憶を書き換えたって言うの?」
それこそできないと楊ぜんは思う。
「違うよ。自分自身で書き換えたんだ」
「莫迦なこといわないでよ。僕がそんなことするわけないだろ」
「どうして、だって楊ぜんには記憶がないんだろ」
「あるってば!」
楊ぜんは大声を上げる。自分にも、泣き叫んでるように聞こえた。
「いや。記憶がないんだ。代わりに、自分で記憶を作っちゃったんだから。人の脳って言うのは都合よくできてるんだよ。心が耐え切れないくらい、いやなことは忘れるんだ。なかったことにする」
「僕は記憶喪失なんかじゃない」
「じゃあ、どうやって楊ぜんは周の時代から現代まできたんだ?記憶があるなら覚えてるはずじゃないか」
涼の声は冷たい、と思った。
「だって、気がついたらここにいたんだもの。そんなの覚えてないよ」
「だろう、楊ぜん」
今度は一変。涼の言葉は優しくなる。
「すごく、忘れちゃいたいくらい悪いことがあったんだ。だから楊ぜんは忘れることにしたんだよ」
「そんなのって、ない」
楊ぜんは小さくつぶやく。自分というものが、解けて消えていくような気がした。この世の中で自分という存在はひどく不確かだ。今まで何よりも、確実なものだったのに。
――いままで?
でも、今まで、というのはいつのことなのだろう。自分の記憶すら当てにならないとしたら、楊ぜんは何を信じればいい?
ちょっと待って。
楊ぜんは顔を上げる。
「じゃあ、涼は、師叔も僕の作った偽者だって言うの?」
それはいや。そんなことはありえない。
優しく抱きしめてくれた。
あれは嘘じゃない。
「完全に偽者だとは言わないよ。たとえば、楊ぜんはその人のことが好きだったのかもしれない。だから記憶を書き換えるときにもその人の存在だけは残したんだ」
ほんの少し、涼はしどろもどろになる。
「だけど、涼。そんな器用なことってできるのかな」
涼は黙っていた。
できるといえないから黙るしかないのだろう。
だから楊ぜんは言った。
「優しいね。涼は」
楊ぜんに聞こえないくらいの小さな声で、涼はつぶやいた。
「俺はちっとも優しくなんかないよ」
懺悔してるみたいだ。そう思った。
いいや、違う。これは間違いなく懺悔だ。
その場から逃げるように立ち上がる。
「俺、夕飯作るからさ」
だけど、楊ぜんがおってきてその目論見は失敗に終わった。
「手伝うよ」
「いいよ、別に」
「だけど、何食べさせられるか不安だから」
そういってくすっと楊ぜんは笑った。空元気なのかもしれない。
だから涼はほんの少し罪悪感を感じる。
「俺の腕、信じらんないわけ?」
「それもあるけどさ、なまぐさは駄目なんだ」
涼はちょっと戸惑う。
「その記憶は偽者なんだろ」
軽くうつむいて楊ぜんは言う。
「だけど、駄目だと思う。もしも、涼の言ったことが本当だったとしてもね、そういう食生活は変えようがないんじゃないかな」
「ふうん。生ものが駄目なの?」
「なまぐさだよ。動物性たんぱく質」
「ああ、菜食主義者なんだ」
そういって涼は楊ぜんにエプロンを放り投げた。
「だけどさ、俺、そういうの嫌いだよ」
エプロンを引っ掛けながら楊ぜんは軽く首をかしげる。
「動物がかわいそうって言うんだろ。まぁ、病気で食べられないって時はどうしようもないけどさ。だけど好きじゃないんだよね。そういうのって、偽善だと思うし。あ、俺別に偽善者が悪いって言ってんじゃないんだ。偽善でだって人が救われることってあるからさ。だけど、偽善を偽善って気づかずにやってる偽善者ってのは嫌いなんだ」
そういいながらスーパーの袋からあれこれ取り出す。
「菜食主義は偽善だって言うの?」
「まあね。動物って言うのはさ、殺生をするもんなんだよ。食物連鎖ってそういうもんだろ。それは生きるために絶対に必要なことなんだ。それをかわいそうって言うのは、生きることを否定するのと同じなんじゃないかな。それは生物全体に失礼だよ。俺たちは霞食って生きてられる仙人様じゃないんだ」
「仙人ならいいのかい?」
ほんの少し笑って楊ぜんは尋ねる。
「だって仙人って言うのは、生きてないだろ。不老不死って言うのは生きてないってことだよ。生きてないんなら生態系から外れたってかまわない」
楊ぜんは戸惑う。
戸惑ってる楊ぜんに涼はレタスを手渡す。
「動物食べらんないんなら、とりあえずこれで、サラダでも作るんだな。冷蔵庫の中に多分ほうれん草があると思うけど、うちにある野菜ってそれくらいしかないぞ」
楊ぜんはあいまいに頷く。
「ねえ、涼。何で仙人が生きてないなんていうんだい?」
「だって終わりのない生なんてないだろ。生きてるってことはいつか終わりが来るってことだ。歳をとらないって言うのはつまり、一般の時間軸から外れてるってことだろう。もっと言うなら時間が止まってるってことだよな。そういうのは普通仮死状態っていうんだ」
「そうなの?」
「冷凍睡眠って言うのは金魚くらいのレベルならできるらしいぞ。カチカチに凍らせとけば、年のとりようもないだろうが。仙人だって似たようなもんなんじゃないの。でもさあ、仙人だって所詮御伽噺だろ。それもあんたの幻覚だよ」
「でも、涼。僕は仙人なんだ。道士だけど、仙人の免許も持ってるからね」
涼は手を休めると、黙って楊ぜんを眺めた。
「もしも僕が、このまま歳をとらなかったら。それは僕の言ってることが間違ってないって言う証明になるよね」
涼はゆっくりと口を開く。
「かもな」
そのまま楊ぜんに向き直った。
「仮にあんたの、幻覚が本物だったとして、それがわかったらどうするんだ?」
ゆっくりと涼は訊く。
「もちろん、帰るよ」
「どうやって?言っただろう。今の技術だって時間旅行はできない」
「でも、来れたんだから戻れるはずだ」
「楊ぜん。この世界に仙人はいないんだ。できないんだよ。変に希望をもつくらいならあきらめたほうがいい。ここにいろ。俺はあんたを精神病院なんかに送りたくないよ」
「そっか」
ぽつんと楊ぜんはつぶやいた。
「この世界では僕は狂人なんだね」
その声はひどく悲しかったから、涼は顔を伏せる。
ごめんな、楊ぜん。
咽喉元まででかかった言葉は、結局音にはならなかった。
next.
novel.
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