家路
08.鏡
主のいなくなった部屋は空虚で淋しい。太公望はぼんやりとさっきまで楊ぜんが寝ていた寝台を眺めていた。身体の中に大きな穴があいてしまったみたいだ。それは楊ぜんと一緒に崑崙に連れて行かれてしまった。
「情けないのぉ……」
ぽつんとつぶやく。返事の返ってこないつぶやきに、余計自分が一人っきりだということが自覚されてしまって、太公望は身動きできなくなる。
何をしているのだろう、こんなところで。
何ができるのだろう、こんなところで。
楊ぜん一人、守ってやれなかったというのに。
そのまま寝台に腰を下ろす。たっているのすら億劫だ。そのまま寝転がると、楊ぜんの匂いがした。何の香りなのだろうか、薄い、気をつけていないとわからないくらいの香り。あの、長い髪の毛ごとぎゅっと抱きしめると、いつもこの香りがした。いつか何の香りなのか訊こうと思っていたのに。
「訊きそびれてしまったのぉ……」
楊ぜんはここにはいない。
崑崙になど返すべきではなかったのではないだろうか。太乙真人は楊ぜんをどうしたのだろう。一人だとあやつは淋しがるから。
寝ている楊ぜんにそんなことがわかるわけがないのだが、太公望はなんだかひどい罪悪感にさいなまれた。せめてついていくべきだったのではないだろうか、崑崙へ。このままでは、まるで、楊ぜんを厄介払いしてしまったようだ。
検査が終わったら無理にでも楊ぜんを引き取ろう。そして、隠居して楊ぜんと二人で暮らす。花を飾って。青い花がいい。眠ったままの楊ぜんと一緒に。二人っきりで。ひょっとしたら楊ぜんは目を覚ますかもしれない。再びあの紫色の瞳を見ることのできる日が来るかもしれない。楊ぜんは笑うだろうか、怒るだろうか。
いいや。起きなくたってかまわない。一日中楊ぜんの顔を見てすごせばいい。今まで一緒にいてやれなかった分ずっとずっと一緒にいよう。そうだ。何事も悪いほうにばかり考えてはいけない。これはきっとチャンスなのだ。楊ぜんと一緒に幸せになるチャンス。
うつらうつら、太公望はそんなことを考える。
夢を見ている。
なんて浅はかな夢なのだろう。
望という名を捨て太公望と名乗ったときから、彼には殷を倒すという未来しかありえないというのに。そのときから彼はすべてを捨て、殷を打つことを選んだ。だから太公望はいつまでたっても封神計画を捨てることはできないのだ。二者択一などありえない。太公望は太公望であるがゆえに、封神計画を捨て楊ぜんを選ぶことはできない。
わかりきっていることだ。
だけれど夢はひどくあまくて。
うつらうつら、うつらうつら。
夢を見ている。
甘美な夢を。
うつらうつら、うつ――。
はっとして太公望は身を起こす。
何かが動いた気がした。自分しかいないはずのこの部屋の中で。
気配を消してあたりをうかがう。
敵だろうか。
いや、違う。何の気配もしない。
では錯覚だったのだろうか。
そのとき、視界の端で何かが動いた。気のせいではない。はっきりと。
太公望はそちらを伺う。そこにあったのは。
鏡だった。
姿見だ。そういえば以前にもこの鏡に驚いたことがある。
何をやっているのだろう。
ばかばかしくなって部屋をでようとし。なんとなしに、もう一回鏡を覗き込む。
何か、変な気がした。
鏡には太公望が映っている。あたりまえだ、鏡なんだから。
だけれど。
太公望は目をこする。もう一回鏡をじっと見る。
そんな、莫迦な。
何か別のものが、二重写しになっている。ごく薄くではあるが、この部屋ではない、まったく別の部屋の様子が映っている。そして、中で何かが動いている。
それは、薄暗い部屋の中で窓ガラスに部屋の様子が映るのに良く似ていた。
太公望は目を凝らす。
なぜだろう。心なしかさっきよりもはっきり映っているように見える。
二人いる。
何かしゃべっている。
狭い部屋の中で動き回っている。鍋がかけてある。台所なのだろうか。一人は小さくもう一人は背が高くてひょろっとしている。青い、長い髪。
あれは――
そんな莫迦な。
だけれどそれは
どう考えても楊ぜんだ。
間違えるはずなんてない。
しかしなぜだ。
なぜそんなところにいる。
隣にいるのは誰だ?
なぜ笑っている。
わけがわからない。
状況についていけない。
自分がどういう表情をしたらいいのかわからなくて、太公望は口の端だけで笑った。
身体の中が空っぽになった気がした。
☆
翌日の午後、太乙真人がやってきた。
それまで機械的に仕事をこなしていた太公望は、顔を上げ無感動に太乙真人を眺めた。
「おぬし、何をしにきたのだ?」
太乙真人はほんの少し、驚いた顔をしていう。
「何って……楊ぜんの様子を教えにきたんだけど。太公望、君、ちょっと顔色が悪いよ」
「わしは、別に何でもない。楊ぜんとてまだ目覚めたわけではなかろう」
そういってまた書類に目を戻す。
「それは……そうなんだけど、ねぇ太公望。本当に変だよ、君」
「わしは変わらぬといっておるではないか」
そういいつつも、傍目にもいらいらした様子は明らかだ。太乙真人は珍しくちょっと腹を立てたように言う。
「楊ぜんが大変なときにその態度はないんじゃないかい」
とたん、太公望はすくっと立ち上がる。
「では、何か。わしがここでおろおろ心配だけしていれば、あやつが目覚めるとでも言うのか。ここで涙でも見せれば楊ぜんは起き上がるのか」
太乙真人はあっけにとられたように太公望を見た。それから口を開く。
「……。そうだね。ごめん、今のは私が悪かった」
「別に心配しておらぬわけではない」
太公望は小さくつぶやく。しかしいらいらしていないわけでもないのは事実だ。鏡の中をのぞいてから、楊ぜんに対する理不尽なわだかまりが生まれた。それは小さなしこりになって、今も太公望の胸の中にある。
「のぉ、太乙。楊ぜんは本当に崑崙におるのか」
「は?何いってるんだい、太公望」
怪訝そうな顔で太乙真人は聞き返す。
「別の場所にいるということはないのか」
「それはつまり、私を疑ってるってこと?」
不機嫌に太乙真人は言った。
「楊ぜんは崑崙にいるよ。私が信じられなければ、君自身が見てくればいい。幸い、まだ戦況はそんなに悪くなってないんだろう」
「いや、そうではないのだ」
慌てて太公望はいいただす。
「そうではなくて、わしはそういうのは良くわからぬのだが、身体だけおいて心とか、そういうものだけが別の世界にいってしまうようなことは、ありうるのかといいたかったのだが」
「科学者に聞く質問じゃないね」
「しかしおぬししかおらぬ」
「幽体離脱とかそういう話なら私は信じないよ。だけれど、君は何かあるとすぐにオカルトと結び付けて考えたがるような人間じゃないと思う。何か根拠でもあるのかな」
どうやら機嫌を直したらしい太乙真人は、そういって太公望に向き直った。
「鏡の中にあやつが見えた」
率直に太公望は言う。
「ごく軽い神経症じゃないのかな。見たいと思うものが実際に見えてしまうって言うのは、普通の状態でもありえることだろう。楊ぜんが倒れて君はほとんど寝ていない。寝不足の状態の脳にならそういうことは良く起こることだよ」
あっさりと太乙真人は言う。
「そう……か、のぉ」
「お化けが怖いと思ってると、壁のしみだって人の顔に見えたりするんだ。私はそういいたいんだけどね」
最後の言葉に少し引っかかりを感じて、太公望は太乙真人を見上げる。
「楊ぜんの状況を説明するよ。眠りには二種類あるって言うのは有名な話だよね。ノンレム睡眠とレム睡眠。このうちのレム睡眠のほうが夢を見ている状態。普通の眠りはそれが交互におとづれるんだけれど。楊ぜんにはそれがないんだ」
「脳が眠りつづけているということか。つまり意識が楊ぜんの元にないという……」
太公望は少し考え込む。
「そういっても間違いではないだろうね」
「では、やはりあれは楊ぜんなのか」
「私はそれ以上は言わないよ。そこからどう考えるかは君次第だし。立場上私がそういう軽はずみなことを言うわけにもいかない。あるはずがないといいたいところだけれど、それも科学者の言葉じゃないからね。ただ、わたしはそれは単なる妄想だと思う」
太乙真人のその言葉が太公望に届いたかどうかは定かではない。考え込むようにうつむいていた太公望は顔を上げて、太乙真人に言った。
「崑崙へいく。楊ぜんに会わせてくれ」
next.
novel.
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