家路
09.Ryou
自分が人とは違うものを鏡の中に見ていると気づいたのは、一体いくつのときだったろう。はじめはわからなかった。みんなが自分と同じものを見ているのだと思ってた。
――おかーさん。鏡の中に男の子がいるよ。
覚えたばっかりの言葉で、たどたどしくそういったとき、両親は笑った。きっと子供のかわいらしい勘違いとでも思ったのだろう。
だけれど。
――ねぇ、どうしてあの子の髪、青いの?
彼がそういうにいたって、彼の両親はうすうす彼の異常に気づき始めたのだ。母親が彼に触れる手がぎこちなくなっていくことを、彼は感じていた。彼の小さな、だけれどたまらなく優しかった世界はその日から少しずつ、でも確実に壊れていった。そして、鏡の話はタブーになった。
母親は彼を抱きしめなくなった代わりに、彼をしかることもしなくなった。
彼が小学生になる頃、弟が生まれた。そして彼は完全に、家族の輪からはみ出していった。
それでも、彼は鏡の中を見つづけた。いや、だからこそ鏡に固執したのかもしれない。
青い髪の子供は美しかった。そして、幸せそうに見えた。
子供は変な、ワンピースみたいな服を着て、おまけに頭には角までついていた。
彼はそれがほんの少し嬉しかったのだ。学校でも、家でも、彼はすでに異端者だったから。だから、青い髪の子供と彼は異端という点で、同じものだった。
実際彼は学校でも異端者だった。そもそも、クラスの仲間とまったくなじめなかった。クラスメートたちのやっていることはひどく子供じみて、くだらないことに思えた。クラスメートたちはいつも鏡をぼーっと覗き込んでいる彼を、気障だとか、かっこつけてるといったけれど、そのうちそんな言葉すら聞こえなくなった。彼は異端者だったけれど、いじめにあう対象ですらなかった。クラスメートたちは彼の異常に薄々気づいており、一番適当な言葉を使うとすれば、彼らは恐れていたのだ。得体の知れないクラスメートを。
さらに厄介なことに、彼はその状況をあんまり苦にしていなかった。彼には子供じみたクラスメートたちなんかよりも、よっぽど大切なものがあったのだ。鏡の中の角の生えた小さな子供。彼にとって現実の世界はあんまり意味がなかった。
そのうち、鏡の中に映る世界が変わった。豪奢な部屋から殺風景な部屋へ。青い髪の子供は相変わらず、鏡の中心にいた。だけれど、子供は泣いていた。一人っきりで。
鏡の向こうの音は聞こえない。こちらから、何かを伝えることも不可能だ。ただじっと見ていることしかできない。
はじめて、悲しいと思った。
だけれどほんの少し、屈折した心の裏側で、彼は嬉しかったのだ。彼もまたたまらなく不幸だったから。
☆
鏡の中と、こちら側では時間の流れが違うらしい。
中学生になる頃に、彼はそのことに気づいた。
鏡の中の子供は変わらなくても、鏡に映る季節は変化している。それもとんでもない勢いで。若葉の翌日に雪が降っているなんていうこともあった。こちら側とあちら側では、完璧に世界が違うのだ。
そして。そう、そして、本来あちら側こそが彼の住むべき世界だったのではないだろうか。彼は生れ落ちる場所を間違えたのだ。だから彼はいつまでたっても異端者だ。
鏡の中の子供は幸せそうだった。いや、もう子供というべきではないのかもしれない。すらっと背が伸びて、顔立ちがますます整ってきた。それは少年というよりもむしろ、やせぎすの胸のない少女みたいに見えた。髪を伸ばしているからますますそう見えるのだ。どうも、一緒に暮らしているらしい、髪の長い男を、真似ているようである。
別に変な関係ではないと思う。この頃には彼は唇の動きだけで大体の話の内容はつかめるようになっており、子供の名前が楊ぜん、ということも、楊ぜんが髪の長い男のことを師匠と呼んでいるのも知っていた。
だけれどそのことはほんの少しだけ彼をいらいらさせた。楊ぜんが幸せそうに見えるのもそれに拍車をかけた。そして、いつのまにか楊ぜんの角はなくなってしまった。楊ぜんは幸せそうだった。
彼は、相変わらず異端者だった。
だけれどそんなことはもはや彼には関係なくなっていた。レベルの低いクラスメートたちとは話をする気にもなれなかったし、なれなれしく擦り寄ってくる女生徒たちには怖気がさした。
違うのだ。自分と彼らとはまったく別の生き物であるべきなのだ。自分と同類でいいのは楊ぜんただ一人で、その他の生き物はただのガラクタでしかないのだ。なれなれしく彼に呼びかけるなんて論外だ。
一体なぜ自分は鏡のこちら側に生まれてしまったのだろう。もしもあちら側に生まれていれさえすれば。
夜。夢を見た。楊ぜんの出てくる夢。
楊ぜんは男の癖になぜかやわらかくて、いい匂いがした。抱きしめると身をよじって喘いで、細い足を彼の足に絡ませてきた。夢の中に出てくる楊ぜんは鏡の中の楊ぜんとは全然別のもののようで、それでも確かに楊ぜんなのだった。誘われるように夢の中で楊ぜんを犯した。
それから楊ぜんは毎晩彼の夢に出てくるようになった。
さすがにおかしい。と思う。きっと自分は狂っているのだ。
だけれど、罪悪感とともにのぞく鏡の中の楊ぜんはいっそう、彼を興奮させた。
☆
高校に入る頃、彼はそれなりに、人と付き合うようになった。別に一人でいることに不都合を感じたわけではない。ましてや淋しいなどと思うはずもない。が、彼はひどく頭が良かったため、それが得策ではないということにも気づいてきただけだ。人に気味悪がられ、遠巻きにされているのはある意味面倒がなくて好都合なのだが、やはり目立つのだ。そして、いちいち目立つのはやはり面倒なのである。だから彼は、表面上周りに溶け込むことにした。
付き合ってみれば、レベルの低い馬鹿な話もそれなりに面白い。彼は気の利いた台詞を言うことができたので、簡単にクラスに受け入れられた。
興味本位で女生徒と付き合ってみたこともある。もっとも、これはさすがに面倒で一週間で別れた。どんな美少女であったところで、彼の楊ぜんと比べるまでもなかったし、彼女たちの話は、はっきり言って退屈なだけだった。なにより、そんな低俗な女たちに束縛され、その状況に甘んじているなど彼のプライドが許さなかった。
そして彼が高校生活になれてきた頃、楊ぜんの周囲がまた変わった。今度はひどくごちゃごちゃしたところである。宮殿のようなところだ。楊ぜんは淋しそうに見えた。あの髪の長い男と会えなくなったことが淋しかったのかもしれない。楊ぜんはひどくあいつになついていたから。
一人ぼっちで寝台に腰掛けている楊ぜんはひどく小さく見えた。いつだってそうだ、彼はただ一人、落ち込んでいる楊ぜんとずっといっしょにいることのできる人間なのに、どうあがいても彼の言葉は楊ぜんには届かない。慰めてやりたくても、彼にはそれができないのだ。なんと言う皮肉なのだろう。
何もすることができないから彼はずっと鏡の――楊ぜんの傍にいた。それが楊ぜん大して何も伝わらないことはわかっていたけれど、何かしてやりたかった。だから彼はずっと鏡の――楊ぜんの傍にいたのだ。
そして、自分とそっくりの男を見つけた。
それはなんという恐怖だっただろう。それはまさに自分というものが、なくなってしまうかのような恐怖だった。
そう、実際彼の居場所は取られてしまったのだ。彼は本来あちら側に属するはずの人間だったのである。それなのにあちらがわにもまた自分がいるのだ。では、この自分は何なのだろう。今ここにいる自分は。
なお恐ろしいことに、彼には楊ぜんが自分にそっくりな太公望とかいう男に惹かれていくのが手にとるようにわかるのである。もちろん、鏡を覗き込むことさえしなければ、そんなものは見なくてすむ。でもこの期に及んで、それを無視できる人間などいるだろうか。
違う。叫びたかった。いや、心の奥では絶叫していた。違う、そうじゃない。そこにいるべきなのはそいつじゃない。そこにいるべきなのは自分。ずっと楊ぜんを見つづけてきた自分なのだ。
だけれど、もちろん、彼の声が楊ぜんに届くことなどなかったのである。
そして。
そして月日は流れる。
いつのまにか高校を卒業し、惰性で大学に入っていた。高校を出てすぐ家を出た。彼の意思というよりは、家族が勧めたようなものだ。学校では受け入れられた彼も、家族に受け入れられることはなかった。
彼は、現実を拒否し、ついにはたった一つの支えだった鏡の中の世界まで拒否した。生きることが面倒になって、それで、死ぬのもまた面倒だった。彼は大学に入ったのと同じく惰性でただだらだらと生きていただけだ。
そんなある日。アパートの前で楊ぜんを見つけた。
嘘かと思った。幻だと思った。だけれど楊ぜんはそこにいて、そして彼の手の届くところにいた。初めて触れた楊ぜんは夢の中で見たそれより、やせていて、そしてちょっと骨が痛かった。真っ白な肌と、青い髪。彼の楊ぜんだ。
チャンスだ。そう思った。やはり自分と楊ぜんは一つセットになるべきものだったのだ。だからこれは、ねじれてしまった糸をもとにもどすチャンスなのだ。
その日彼は、家中のすべての鏡を捨てた。
next.
novel.
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