家路
10.君と
涼がバイトから帰ったとき、楊ぜんは漸く起きだしたところだったらしい。眠そうにごしごしと目をこすりながら、おかえりと微笑んだ。涼はそこに楊ぜんがいるという事実だけで嬉しくて、楊ぜんに微笑み返しながら照れ隠しのように文句をいう。
「なんだ。あんた、まだ寝てたわけ?今何時だと思ってんだよ、この古代人」
それから目をこすってる楊ぜんの手をつかむ。
「あんま、こすんないほうがいいって。目悪くなるから」
「え?そうなの」
寝ぼけたように――いや、きっと十中八九寝ぼけてるな――楊ぜんは言った。
「偉い仙人様なんだろ、昼夜逆転してんじゃん、おまえ。そんなんじゃ、破門されるぞ」
茶化して涼は楊ぜんをからかう。
「師匠はそんなことしないよ。僕が――」
楊ぜんは何か言いかけ、困ったようにちょっと考えた。
「あれ、なんだっけ?なにしたんだっけ、あの時」
それは、おまえが仙人の免許はとるけど、弟子は要らないと言い張ったときのことじゃないか。涼はそう思ったけれど、黙っていた。あの時はかなりもめたんだ。
「覚えてないってことは、たいしたことじゃなかったんだろ」
代わりにに涼はそういった。嘘だ。楊ぜんはあのとき元始天尊とかいう変なジジイに散々説教されたのだから。
「うん、そうかもね」
楊ぜんはにっこり笑った。
「でも、涼。一人で部屋の中にいると寝てるくらいしかすることって無いよ。修行するにもここじゃ狭すぎるし。それに。そうしたら僕涼が寝てるとき起きてられるだろ。涼も布団で眠れるじゃないか」
どうやら、楊ぜんは涼の布団を占領していることを悪いとは思っているものの、かといって自分が布団なしで眠る気にもなれず、それならば眠る時間をずらせば言いという安直というか突飛というか、そういう考えにたどり着いていたらしい。
「莫迦か、おまえは」
思わず涼は呟いた。
「変なことに気を回すなよ」
「どうして?僕に気を使ってもらえる機会なんて滅多に無いよ」
楊ぜんはあっけらかんと言い放つ。
「そんなことに気回すより、帰る方法でも探したらいいじゃないか」
意地悪く涼は言った。
「勿論探してるさ。だけど見当もつかないよ」
怒ったように楊ぜんは言う。
自分が倒れていたというところを調べてみた。涼に難しい科学雑誌を図書館から借りてきてもらった。この際、SF雑誌にまで手を広げた。それでも、わからなかった。タイムトリップを扱った話はたくさんあったけれど、はっきり言ってどれもこれも荒唐無稽だった。
「ごめん」
沈み込んでしまった楊ぜんに涼は慌てて言う。
「なぁ、外出てみないか?」
「出たよ。涼だってついてきてくれたじゃないか」
「そうじゃなくてさ、もっと遠く」
楊ぜんの顔が不意に明るくなる。
「何か手がかりでもあったのかい?」
「あ……いや、そうじゃないんだけどさ。これは楊ぜんにはちょっとつらい話かもしれないけれど、でも、楊ぜんはここに、おまえの言葉を借りると、この世界にさ、なれなきゃいけないと思うんだ」
「涼……?」
楊ぜんは不安そうな顔をする。
「それはつまり、僕が……」
「いや、帰れないって言うんじゃないんだ。でも、帰れるようになるまでの間、楊ぜんはここにいなきゃいけないわけだろ。いつ帰れるかわからないのに、ずっとこの部屋の中に閉じこもってるつもりか?」
「ごめん。涼。やっぱり僕がいると迷惑だよね」
「いや。だからそうじゃなくて」
涼は慌てて言うと、あまりに意思の疎通ができない自分達がおかしくなってくすっと笑った。
「明日デートしませんかっていってんだ。俺は」
楊ぜんはぽかんとして涼を見つめた。
「涼ってそういう冗談言うんだ」
冗談。冗談かな?まあ、いいさ。いずれ本気にしていけば。
「バイトは明日無いのかい」
「ああ、辞めてきた」
「……辞めちゃっていいの」
「ん。蓄えはある」
「そうじゃなくて、いきなり辞めて向こうは困らないのかいって聞いたんだ」
「バイト先?もともと辞めるつもりだったから、前から言ってあった」
「そうなんだ」
楊ぜんはなぜか嬉しそうににっこり笑った。
「良かった。一人で部屋にいるの退屈なんだよね」
こいつって……。涼は苦笑する。
「そりゃよかったな」
「お弁当作るよ。涼、何がいい?」
「肉」
「じゃ、里芋の煮物とがんもどきと海藻サラダにしよう」
「そのメニューって、俺に聞いた意味あるわけ?」
「涼、デザート作ってあげる。寒天買って来て」
楊ぜんは涼の言葉を軽く無視するときわめて上機嫌に微笑んだ。なにかふんわりと暖かい物が部屋を満たしていた。
翌日は晴れで、楊ぜんは今日に限って涼よりも早く起きだしていた。本当に弁当を作る気らしく、台所でなにやらいそいそとやっているのを涼は幸せに眺める。これが本当の、涼と楊ぜんの在るべき姿だったのだ。ここに太公望なんて奴が入る隙間なんかあるものか。涼といるときのほうが楊ぜんは楽しそうにしているじゃないか。
「涼、予定変更。卵焼き作ろうか。何入れる?砂糖?それともトマトとチーズ入れてオムレツにしようか?」
「なまぐさは駄目なんだろ。それとも卵ならいいわけ?」
「涼のために作るんじゃないか。いらないんなら作んないよ」
楊ぜんはすねたように言う。涼のために。悪くない響き。
「ごめん。作ってよ。えっとね。砂糖」
「はじめから素直にそう言えばいいんだよ」
偉そうに楊ぜんは言った。
「わかりましたよ、楊ぜん様」
楊ぜんは楽しそうにくすくすと笑った。
「涼って師叔と全然違うね」
「ん。そう?」
何気ないふりを装い涼は尋ねる。
「なんかね。見た目も中身も子供」
「なんだよそれ」
ホントに、何だよ、それ。マイナスイメージじゃ無いらしいのはいいけど。男としては、うーん。考えるな。
「涼といると無責任になれる。ちょっと、楽、かな」
「それはさ、俺の前では子供でいられるって、そういう意味なんじゃないの?」
涼は身を乗り出す。
「全然違うね」
楊ぜんはあっさりと首を振った。
まあ、いいさ。これからだ。これから。
どこ、連れてってやろうか。弁当持ってくところとなると、新宿御苑でも行ってみるか。平日だし、桜の季節じゃないからすいてるだろうし。それとも葛西の臨海水族館とか。あ、本格的にデートみたいじゃん。
「楊ぜん、魚と木、どっちがいい?」
「?……んーと、じゃ、木」
「じゃ、新宿行こう」
えーっと、確か地下鉄だったな。何線だっけ?新宿駅から歩いてもいいけど。
「しんじゅく……?」
「そ、新宿。あ、ついでに紀伊国屋で地図買おうな。おまえいいかげん地理覚えろよ」
「きの……?」
「本売ってるとこ」
「ふうん」
楊ぜんは不意にぴたりと菜ばしを止めると、考え込むようにする。
「ねぇ、涼」
「何?」
「周のあった場所にいけない?」
「そりゃちょっと無理だな」
「何で?」
「海の向こうだもん」
楊ぜんはぽつんと呟いた。
「そう……。それなのになんで僕、こんなところにいるんだろう。帰るなって言われてるみたいだ」
ああ、そうだよ楊ぜん。帰るな。帰らなくていいんだ。
「涼、何か言った?」
涼は慌てる、まさか口に出してはいなかったとは思うが。
「いや。こういうのもいいなって思ってさ」
「どういうの?」
「誰かが俺のために弁当作ってくれたりするの。笑うなよ」
「笑わないよ」
そういいつつも楊ぜんはにっこり微笑む。
「なんていうか、俺、いつも一人だけ幸せな家族団欒って言うのからはみ出してたからさ」
あーあ。何言ってんだ、俺。涼は慌てる。慌てつつも、人に自分の過去を話すのは初めての経験で、聞いてくれる人がいるというのがほんの少し心地よかった。
「涼は家族が嫌いなの?」
「逆、かな。嫌われてんだ。きっと」
「そう思い込んで、すねてるんだね。きっと」
楊ぜんはやけに断定的に決め付ける。
「あのなぁ」
さすがに涼もこれにはちょっと頭に来て、だけれど。
「僕がそうだったんだ」
楊ぜんは真っ直ぐに涼を見つめていった。
「大丈夫。僕は、涼のこと好きだよ」
それは楊ぜんにしてみれば、恋愛など全く関係の無い単純な好悪、それだけだったのかもしれない。
だけれど、その言葉は、まるで放たれた矢のように涼の心を突き刺し突き破っていった。
何か、仄暗い炎が胸の中で燃え始めた。
ああ。夢の中で何回、楊ぜんを抱き、そして犯したことだろう。
――楊ぜん。
おまえはそれでも、俺を好きだというのだろうか?
next.
novel.
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