家路



S11.疑惑



「おや、太公望。こんな時間に来たのかい」
 作りかけの宝貝から目を上げ、挨拶もなしに勝手に入ってきた太公望をとがめようともせず、太乙真人はのほほんとそんなことを言った。
「うぬ。西岐のほうをおろそかにしたら楊ぜんに怒られてしまうからのぉ」
 かかかと太公望は笑う。
「それで、西岐で夜おそぉくまで仕事して、それから四不象飛ばして私の洞府まで来たんだ」
 痛々しい物を見るような目で太乙真人は太公望をじっと見る。
「西岐も楊ぜんもわしにとっては大事だ。わしは欲張りだからのぉ」
 けろりとして太公望は言った。
「泊まってくんだろ」
「明日は早朝会議があるゆえ、楊ぜんの顔を見たら帰るよ」
「西岐にはなんて言って出てきたんだい?」
「何も言っておらぬ。のは、さすがにまずいかのぉ。わしの黄布力士を持ってゆくか。いざとなったら四不象がわしの元へ知らせにくればよい。あやつも毎晩つき合わせては可哀想だしのぉ」
「君は?」
 楊ぜんの寝ている部屋まで太公望を案内するために立ち上がりながら、太乙真人は短く尋ねた。
「ん?」
「君は、無理してなのかい、太公望」
「無理してない、とは言わぬよ」
 太公望は言葉を紡ぐ。
「だが、楊ぜんはあんなになるまで無理しておったのにわしは気がついてやれなかった。楊ぜんがああなっても、わしには楊ぜんが何故そうなったのかすらわからぬ。楊ぜんがどこにいるのかもわからぬ」
「楊ぜんは」
 ここにいるよといいかけて太乙真人は言葉を切った。
「別に自分をいじめておるのではない。わしが今楊ぜんにできることがあるのなら、やってやりたいと思うだけだよ。もう、遅いかも知れぬがのぉ」
「何かをはじめるのに遅いなんて事は無いよ」
 わずかの罪悪感を感じながら太乙真人はそういった。
「楊ぜんの具合はどうなのだ?まだ、変わらぬか」
 ぴた。太乙真人は歩みを止める。つられて太公望はいぶかしげに立ち止まった。
「何かあったのか」
 太乙真人はしばらくの間、言おうかどうしようか迷い、じっと見つめてくる太公望の瞳に押し切られたような形で口を開いた。
「わからないんだ」
「そんなことはわかっておる」
 太公望は答えを聞くのを恐れているようにそういった。
「そうじゃない。わからないのは、私のほうだ」
「何を言っておる?」
 太公望は怪訝そうに聞く。
「こんなことを言ったら君は嬉しくないだろうけど、太公望。私は楊ぜんのことが好きだったよ」
「それは……」
 太公望は何か言いかけて黙った、何故この場で太乙真人が突然そんなことを言い出したかの真意を探り出そうとするように。
「私はこれでもずいぶん長生きしてるからね。君が思うようなそんな激しい感情でもないし、ましてやあの子を抱きたいとかそんななまなましいことを考えたわけじゃない。私は君と楊ぜんが付き合うのにも賛成だったしね」
 太公望は不思議そうに太乙真人を眺めた。
「それでも私は楊ぜんが好きだった。たぶん、親愛の情よりはもうちょっと強くね」
 過去形。不意に太公望はそのことに気がついた。楊ぜんが好きだ。ではない、好きだった。そういった。
 それは太公望のために楊ぜんをあきらめたということか。否、この文脈からそんなことは読み取れない。だとしたら何故だ。まさか嫌いになったというわけでもあるまい。
 それとも――。考えられるもう一つの可能性。
 違う。嘘だ。
「楊ぜんは死んだのか」
 太乙真人は首を振った。太公望は一つ胸をなでおろす。が。
「死んでない、と、思う」
「思う?思うとはどういうことだ太乙!」
 太公望は太乙真人に食って掛かった。
「脳死とか植物状態とかそんな状態なのか」
「そういう、現実の状態じゃなくてさ」
 太公望はきょとんとした。
「では、何なのだ?」
「太公望は、楊ぜんのこと覚えてるかい?」
「何を言っておる?」
 混乱して太公望は叫びそうになった。
「覚えているも何も、覚えておるからわしがここにおるのではないか」
「そういうのじゃなくてね」
 太乙真人はやけに真面目な顔をしていった。
「初めて楊ぜんとキスした場所覚えてる?」
「な、何を言い出すのだ?」
 哀れにも太公望の声はひっくり返った。
「初めてデートした場所は?告白した場所でもいい。どっちの部屋で寝た?」
「お、おぬし、何を……」
 こやつ、妬いておるのか。否。とてもそんな雰囲気ではありえぬ。
「全部覚えてる?」
「あたりまえであろう」
 太公望の声はかすれた。
「きちんと細部まで?全部思い出せるかい?」
「な……」
 太公望は生真面目にもいちいち思い出そうとし耳の後ろまで真っ赤になった。
「そっか、君は覚えているんだね」
 太乙真人は安堵したような、それでもどこかに引っかかりのあるような微笑を見せた。
「おぬしさっきから何を言っておる?」
 太公望の質問には答えずに太乙真人は言った。
「もう一つだけ聞くよ。君はまだ西岐の人たちに楊ぜんのことを話していなかったね」
 太公望はこくんと頷いた。
「それが質問か」
「いや、今のは確認だよ。質問はね……。西岐の人たちに楊ぜんのことを聞かれた?」
「いや……」
 なんとなく太乙真人の言おうとしていることを汲み取った太公望は歯切れ悪く言った。
「そういえば、おかしいのぉ。楊ぜんが出てこぬのをちっとも不思議におもっておらぬようだ。まるで……まるで……楊ぜんなどはじめからいなかったよう」
 太公望はそこで言葉を切った。そしてはっとして太乙真人を見る。
「おぬしもそうなのか」
「私は、楊ぜんを覚えているよ」
 太公望はほっとしたようにため息をついた。が、太乙真人は続けて言う。
「でも、いつまで覚えているかはわからない」
「記憶が消えるのか」
「楊ぜんがらみのことだけ、絶対に覚えているはずのことが思い出せない」
 太公望は怪訝そうに太乙真人を見た。
「私は、どうして玉鼎が封神されたのか思い出せなかった」
 太乙真人はぎゅうっと手のひらを握り締める。
「玉鼎のことを忘れたんじゃないんだ。玉鼎が封神されたのは覚えてる。ただ、その場に楊ぜんがいたってことが、それだけが思い出せなかったんだ」
「そんな……」
 太公望は呆けたように太乙真人を眺めた。
「こんなことあるはずないんだ。あるはずないんだよ、太公望。科学的にそんなこと……。いや、そんなことどうだっていい。私が、私が楊ぜんを忘れるなんて、そんなことあるわけ無いんだ。あっては、いけないんだよ」
 太乙真人の言葉をBGMに太公望は考えていた。
 楊ぜんは死ぬのではない。消えていくのだ。そう、あの日、楊ぜんが目を覚まさなくなった日。あの時感じた存在感の無さ、それは予兆だったのではないのだろうか。
 今はまだ、太公望は楊ぜんのことを覚えている。そう、今はまだ。
 このまま、誰の心からも、太公望の心からも楊ぜんは消えて、はじめからいなかったかのように跡形も無く消えて、ひっそりといなくなってしまうのだろうか。
 自分だけは楊ぜんを忘れないと、そういいきることが果たして太公望にできるのだろうか。
 しかし。
「嫌だ」
 誰にとも無く太公望は呟いた。楊ぜんは死ぬのですらない。忘れられるのだ。そんな消え方は、
 ――あまりにも淋しすぎる。
 一体何故、どうしてこんなことになったのだ。頭の中で幾度も問い返した問い。
 そして、突然太公望は思い当たった。
 鏡か。
 鏡の中に見えた影。楊ぜんの意識はあの中に吸い込まれてしまったのか。そして、だから、どういう理屈でつながっているのかはわからないが、だから。だから楊ぜんは人々の記憶の中から消えようとしているのか?
 鏡の中で、笑って、微笑んで。
 まさか。
 たった今気がついた恐ろしい可能性。
 忘れたのは、楊ぜんのほうではないのか?
 楊ぜんはもう、太公望を必要としていないのか。
 それとも、太公望が必要としなくなったから楊ぜんは消えたのか?
 鏡。鏡だ。すべてはあの楊ぜんの部屋にあった姿見。
 あれを、どうにかせねば。
「太乙、済まぬ。わしは今から下界に帰る」
「どうしてだよ太公望。楊ぜんに会っていかないのかい」
 とがめるように太乙真人は言った。
「鏡だ。あの中に楊ぜんはおる」
「何を莫迦なこと……ああ、そういえば君はこの間もそんなことを言ってたんだっけね。もう私には、何がなんだかさっぱりわからないよ」
「わしはあの鏡を何とかするから、おぬしは楊ぜんに付いていてやってくれ」
「ああ、それは勿論」
 太乙真人は頷いた。
「それから」
 太公望は言う。
「これはおぬしにどうにかできることではないやもしれぬが……楊ぜんを忘れないでくれ。楊ぜんをこの場につなぎとめているのは、わしらの記憶とかあやつに対する想いとかそんなものであるような気がする」
「わかったよ。太公望。私は楊ぜんを忘れない」
 ゆっくりと、誓約するように太乙真人は言った。
「でも、せめて一目、逢ってやってくれないか」
「わしは時間が欲しい。タイムリミットはすぐそこであるような気がする。何とか楊ぜんをこちら側に引き戻したい。今、ここにあるのは……楊ぜんの抜け殻だ」
 太乙真人は目を伏せた。
 それでも、楊ぜんは君に逢いたいと思うよ。
 太乙真人の言葉を聞く間もなく、太公望は下界に下りるため、駆け出してしまっていた。だいぶ憔悴してるな。走り方だってふらふらじゃないか。
 楊ぜん、君のために太公望はこんなに走り回ってくれてるよ。一体何が不満で目を覚まさないのかい?
 太乙真人は仕方なく一人で楊ぜんを寝かせてある部屋に向かった。客間として設計されたはずのその場所は、宝貝の試作品置き場と貸していて、足の踏み場も無かったものだが、ものぐさな太乙真人は珍しくあれこれと掃除をして、楊ぜんに住みやすい――と言っても楊ぜんはずっと眠ったままだったのだが―― 一角に仕上げていた。
 白い寝台で楊ぜんは眠っている。いつもより血色がいいようにすら見える頬。閉じられたまぶた。かすかに上下する胸。
 抜け殻なのだろうか。
 太乙真人にはわからなかった。
「楊ぜん……」
 太乙真人はそっと楊ぜんの髪を整えてやった。
「太公望が側にいなくて淋しいかい。太公望は君のために走り回ってるんだからがまんするんだよ。そうだ思い出話をしようか。初めて私に会ったときのこと、覚えてる?君はまだ小さくて、玉鼎の後ろに隠れてばかりで……」
 そして太乙真人は静かに語り始めた。
 起きることのない楊ぜんに向かって、自分の記憶を確認するかのように。

next.

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