家路
13.記憶
真夜中に崑崙から帰った太公望は、ばたばたと西岐城の廊下を駆け抜け楊ぜんの部屋へと入った。寝台のすぐ横。姿見は変に曇っていた。太公望は袖で鏡をごしごしと拭って、でも鏡はちっとも綺麗にならずに、むしろどんどん曇っていくようにすら見えた。
「一体どうなっておるのだ」
まるで嘲笑われているかのようだ。いまいましい。
太公望は鏡を叩き割ろうとし、しかしそれだけが自分と楊ぜんをつなぐ物になってしまった今、割ってしまうこともできずに鏡のすぐ横の壁に八つ当たりをした。腕がじんとしびれた。ひどくいたかった。
何故鏡は曇っているのだろう。楊ぜんにはもう太公望が必要ないということだろうか。楊ぜんはこの向こうで何を考えているのだろう。
「楊ぜんっ」
鏡の向こうに問い掛けてみる。
「おぬし今どこにおる?」
返事は返らない。
「わしのこと、覚えていてくれるか」
返事は返らない。
「楊ぜん……」
太公望は呟くように言った。
「楊ぜん。おぬしに逢いたいよ」
返事は、返らなかった。
楊ぜんを消してしまいたくない。思いで一つ残ることが無いなんて悲しい形で分かれたくは無い。
否。そうじゃない。楊ぜんを自分から取り上げないでくれ。
楊ぜんのためにじゃない。
自分のために。
楊ぜんを、取り上げないでくれ。
あさましくともよい。
太公望は思った。
楊ぜんのためにとか誰かのためにとか、そんな偽善はもういい。
だけれどたった一つ。太公望が楊ぜんを好きだというのは真実だ。
それだけあれば、いいのではないか。
「楊ぜん、おぬしが好きだよ」
それだけあれば、良かったのではないのか。
楊ぜんのために太公望のできる数百の事より、太公望が楊ぜんを好きだというたった一つの事実。その一番大切なことを太公望は果たして楊ぜんに告げてきたのだろうか。
気がつけばいつも隣にいた。なんとなく一緒にいるのがあたりまえになっていた。だから、楊ぜんもそれでいいのだと思っていた。
楊ぜんは妖怪だった。人間の中にいて皆に囲まれていても、一人ぼっちだと思っていたのかもしれない。太公望は人間だから、そこまで判らなかった。判ってやろうとしなかったから、判らなかった。太公望にはそれは些細な問題でしかなかった。
だけれど楊ぜんにとってそれが些細な問題だと誰が言い切れる?楊ぜんは当事者だった。ずっと自分が妖怪であることを背負って、人間の中で生きていかなくてはならなかった当事者だった。
判っていると思っていたのに。一番判っていると思っていたはずの人のことがわかっていなかった。
言い訳はいくらだってできる。太公望は封神計画の司祭だった。おまけに周軍の軍師だった。妲己に個人的な恨みもあった。楊ぜん一人の事にかまけているわけになどいかなかった。
そう。誰だってそういうだろう。
し か た が な か っ た の だ 。
だけれど、いくら言い訳してみたところで、楊ぜんはいってしまった。太公望の声の届かないところへ。
はじめて。楊ぜんが眠りについてから初めて太公望は涙を流した。
こんなに泣いたのは子供の頃以来だ。泣いて泣いて、そのうち泣くということに自己陶酔するまで涙を流して。そして――
――何かをはじめるのに遅いなんて事は無いよ。
不意に、太乙真人の声が甦った。
ぐいっと、太公望は涙を拭う。
そうだろうか。
まだ、間に合うだろうか。
☆
翌日、早々に太公望はまず姫発を叩き起こした。
「なんなんだよてめぇ!朝っぱらからっ!」
姫発は大声で怒鳴る。
「おまえもしここで一緒にプリンちゃんが寝てたらどーするつもりだっ!」
「そんな物好きおるわけなかろう」
あっさりと太公望は言う。
「なんだよ。全く。で、何の用だ。まさかあんまり俺がいい男だから夜這いかけに来たんじゃねぇだろうな」
「だあほ。わしはおぬしに聞きたいことがあったのだ」
姫発はほりほりと頭を掻いた。
「なんだよ。朝っぱらから聞きたいことって」
「楊ぜんのことだ」
「ようぜん?」
姫発は怪訝そうに眉をしかめる。
「誰だそりゃ」
太公望は唇を噛み、それから気を取り直して口を開いた。
「わしの恋人」
「げっ。そんなのいたのか。どこの物好きだよ、それ」
姫発はにやにやした。
「わしの補佐をしておった」
「仙界でか?」
「西岐で」
姫発は不信そうな顔をする。
「俺の知ってる奴か」
「しっとるはずだ。おぬしもたまに追っかけておったから」
「プリンちゃんか」
「おぬしはそう言っておったが」
「ちょっと待て、思い出すから。俺、プリンちゃんは忘れないぜ」
姫発は珍しく考え込む。だが一分悩まずにあっさりめげた。
「なんかヒントくれよ」
「そうだのぉ……」
太公望は考える。
「髪がこう、ぬけるように青くて、さらさらで綺麗で、長くて。肌は真っ白だのぉ。まるで雪のようだ。目が大きくて瞳は紫で、わしはそういうのにはこだわらん性質だが、ああいうのは傾国の美というのだろうのぉ。万が一あやつのことが嫌いな奴がおったとしても、あやつの美しさだけは認めぬわけにはゆくまい……」
「んっなに綺麗なら俺が忘れるわけねーんだよな。そいつ胸でかい?」
「だあほ。男だ」
「お、男ぉ!」
姫発の声はひっくり返った。
「いくら俺でも、男色の趣味はねーぞ」
「あやつは男とか女とか気にならないくらい綺麗なのだ」
「そんな奴ホントにいるのかよ」
「いまさら、何を言うか。プリンちゃんに変化しろと騒いで楊ぜんに哮天犬向けられたのはおぬしであろう。わしが止めなければ、おぬし今ごろ死んでおったぞ」
「哮天犬……?」
姫発は腕を組む。その表情が微妙に変化していく。
「そういや、犬の宝貝持った誰かに……」
考え込む表情。それから――。
「ああっ。思い出した!楊ぜん!何であんな目立つ奴忘れてたんだろ。それで楊ぜんがどうしたんだ太公望。振られたんなら俺がもらってやるよ」
太公望はほっとしたように笑った。
「そうか、思い出したか」
満面の笑みを太公望から向けられて姫発はギョッとしてのけぞった。
「なんだよ、おまえ。気味悪いな。で、楊ぜんがどうしたんだ」
「いや、もうよい」
太公望はにっこり笑って手を振った。
「は?何だよそれ」
「二度と楊ぜんのことを忘れるでないぞ」
太公望は急いで部屋を出て行く。
「なんなんだよあれ……」
部屋の中で姫発は頭をひねった。
☆
――そうやって。
太公望は、天化、蝉玉、周公旦。思い当たる節を全部あたって――つまり叩き起こして、太公望は楊ぜんのことを思い出させて回った。西岐中回った頃にはもう日が暮れかけていた。
太公望は疲れて、走り回ったせいで汗びっしょりになって、楊ぜんの部屋に帰ってきた。身体は重かったけれど、心はだいぶ軽くなった。ただ、手をこまねいて見ているほか無いというよりも、少しでも楊ぜんのために動き回れることがあるというほうが、何倍も精神衛生上楽だったのである。
太公望は楊ぜんの部屋に入り、一つ深呼吸して奥に向かった。あの姿見に向き合うにはなかなか勇気がいる。もし、夜中よりももっと曇っていたらと思うと、じっとりとした恐れが太公望を襲った。
そっと太公望は鏡を覗き込む。
鏡は――
透き通っていた。
太公望はほっと安堵する。やはりみんなの記憶と何らかの因果関係があったのだ。
しかし。
鏡の中をのぞきこんで、太公望は息を呑んだ。楊ぜんがいる。誰かの袖を握り締めるように芝生にうずくまっている。その誰かというのが――。
前見たときは影のように薄くてよくは見えなかった。だけれど今度ははっきりと見える。
うずくまった楊ぜんを抱きしめているのは自分だった。
否。自分にそっくりの誰かだった。自分にそっくりの誰かは立ち上がろうとし、楊ぜんはその袖をつかんで甘えるようにそれを止めた。
これはなんだ。
太公望は自問する。
一体どうなっておるのだ。
答えは見つからなかった。
next.
novel.
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