家路
14.恋
妖怪。
人間。
妖怪。
窓の外の幾分なれてきたとはいえ、未だ違和感の残る風景を楊ぜんはぼんやりと眺めていた。あのあと――涼と出かけた後にも楊ぜんは何度か変化を試してみた。そしていずれも失敗。
嫌悪していた半妖体にも、戻れなかった。
涼の言ったとおりだ。楊ぜんは人間になってしまった。
楊ぜんはぼんやりと頬杖をつく。
ずっとずっと妖怪の自分が嫌いだった。師匠――あれ、誰だっけそれは――と同じ人間になりたかった。だから、こんなことで思い悩んでいるなんてはなはだ滑稽なのだけれど、それでもやっぱり楊ぜんは悩んでいた。
ということは、少しくらいは妖怪の自分に対する執着があったとでも言うのだろうか。莫迦莫迦しい。
楊ぜんは一つため息をつく。このごろは何もかもが億劫だ。少し動くのさえ面倒で、楊ぜんは一日の大半を家の中で涼と一緒にぼんやりと過ごす。体力も落ちてきているらしい。そう。それは問題。
楊ぜんが戦力外になってしまったら、あの人が困るもの。あの人――だれ。
楊ぜんははっとしてこめかみを抑える。とても大切なこと。それが最近思い出せない。夢の中の出来事のように曖昧で、本当に夢だったのではないかとさえ思わせる。
あの人。大切な人。
それなのに。
ぼんやりとした感覚。あの人のことを考えると暖かくなる。それなのにどうしてもあの人のことが思い出せない。記憶はするすると蛇のように這って楊ぜんのもとから逃げ出してしまう。
涼は言ってくれる。大切なことだったらそのうち思い出す。思い出せなかったらそれは大切なことじゃなかったんだ。
楊ぜんもそう思おうとして。でも。ときたま胸の奥に湧き上がるどうしようもない不安、焦り。いつしかこれも、思い出せない記憶のように薄くなって消えてなくなるのだろうか?
「楊ぜん、具合はいいのか、今日は?」
振り返ると涼と目が合った。
涼。涼といると楊ぜんは落ち着ける。大切な、思い出せないことを手に入れたような。涼がいてくれれば、悪いことは何もおこらないと思えるような。
そんな涼は、バイトを止めてからずっと楊ぜんと一緒にいてくれる。だから楊ぜんの生活は、ほとんどが涼で占められていた。
「大丈夫」
楊ぜんはにっこり微笑む。
「具合良くなったらまたどこか行くか?」
「いいよ」
楊ぜんは首を振った。
「なんで?」
「ここがいい。涼と一緒にここにいる。ここが僕の居場所なんだろう」
涼は笑った。
「どうして笑うの」
不満そうに楊ぜんは口を尖らせる。
「口説かれてんのかな、俺」
楊ぜんは涼に向かって枕を投げつけた。
「自信過剰!」
涼は首だけで枕を交わす。
「でも、でもね」
楊ぜんは背中を丸めるようにしてぎゅうっと自分の足を抱きしめた。
「涼だけでいいよ。涼だけいればそれでいい」
涼は笑ってぐしゃぐしゃと楊ぜんの頭を撫ぜる。それからかがんで楊ぜんと同じ高さで目を合わせた。
「楊ぜん」
呼びかけて少し考える。
「崑崙はどうするんだ?」
少しばかりの沈黙。
「なに、それ?」
涼は小さく微笑む。
「いや、いいんだ。気にするな。忘れろ、楊ぜん」
楊ぜんの記憶は薄れてきている。そして、楊ぜんが妖怪だという事実もなくなってしまったようだ。つまり、楊ぜんはこの世界に順応するために前の世界の記憶や属性を失っていくということか?
まだ何か考え込んでいるような楊ぜんの整った横顔を眺めながら涼は静かに考えた。
さっきは、楊ぜんに太公望のことを思い出させるのが怖くて涼は、当り障りのなさそうな崑崙のことを尋ねた。しかし、このまま時が過ぎれば楊ぜんは本当に太公望のことを忘れて涼だけの物になるのではないだろうか。
そう、つまり。物事は順調にあるべき姿へと訂正され始めたのだ。涼ではなく楊ぜんが属する世界を離れたのは少々意外だったけれど、でも、そんなのどうだっていいことじゃないか。涼と楊ぜんが一緒にいることが大切なのだ。
後は少しずつ二人の距離を縮めていけばいい。否、楊ぜんはもう涼に心を許している。これは決して自惚れでは無いはず。
涼は猫のような動作で楊ぜんを背中から抱きしめる。低い、でも確かに感じる淡い体温。
楊ぜんは驚いたような顔をして涼を振り返った。
「涼……?」
「さっき俺だけいればいいって言ったよな」
楊ぜんは微笑む。無邪気な微笑み。
「言ったよ。涼」
くいっ。頤に手をかけて、上向かせた楊ぜんの顔。なんてあどけなく、なんていじらしい。
「それはつまりさ」
涼は笑った。
「こういう事?」
触れるだけの短い接吻。
ああ、おまえがはじめて太公望とキスしたのはいつの事だっけ?あの時俺は泣き出したいくらい惨めだったんだ。鏡の前でどうすることもできずただ歯噛みして見ているしかなかった、哀れな自分の残像。
「涼……?」
楊ぜんは何が起こったのか理解できていないかのようにゆっくりと俯き、それからゆっくりと自分の唇を抑えた。
わずかに上気したやわらかい頬。抱きしめた腕は振り払われることもなくそのままにある。
「涼は、僕のこと、好き?」
そんなの何年も前からずっと叫んでたさ。
「好きだよ、楊ぜん」
「気持ち悪いって、思わない?」
おずおずと楊ぜんは尋ねる。
「自分が?」
「僕と涼が、好きでいること」
「自分のことを気持ち悪いとは思わない。好きなやつのことも気持ち悪いなんて思ったりしない。思いたい奴には思わせておけばいい。理解なんかいらない。二人でいればいい。楊ぜんだけいればそれでいい」
楊ぜんは笑った。
「涼は強いね」
「おまえが言ったんだろうが」
「そうだっけ?」
楊ぜんはくすくす笑う。
「涼ってさぁ。僕だけのために神様――いるとしたらね――がくれたプレゼントみたいだね。僕の言って欲しいこと言ってくれるもの」
ああ、そうだよ。その通りなんだ。
「言って欲しかったのか?」
「僕はきっと、僕だけのための人が欲しかったんだ」
太公望のようにではなく?そう、俺は楊ぜんだけのためにここにいてやる。そうだ、それこそが、太公望がどんなに頑張ったってできないことだ。だから、楊ぜんは涼を選んだ。だから。だから――?
奇妙な引っ掛かりを涼は覚えた。だけれどそれは取るに足らないわずかな物で、たちまちのうちに涼はその引っかかりのことを忘れてしまう。
あるいは。涼は怖かったのかもしれない。その引っかかりの示唆するところに気がついてしまうことが。
「涼。どうしたの?」
不安そうな楊ぜんの瞳。涼はにっこりと微笑んだ。
「なんでもないんだ、楊ぜん」
大切なことなら、いずれ思い出すさ。
涼は楊ぜんのこめかみに軽く口付ける。
「くすぐったいよ。涼」
「そうだ。そういや、まだ聞いてなかった。楊ぜんは俺のこと好きなのかよ」
楊ぜんはくすっと微笑む。
「嫌いだったらこんなことさせないよ。今ごろ死んでるよ、涼」
ごもっとも。もっとも、今の楊ぜんに涼が殺せるかどうかはいささか疑問だったが、涼は珍しく意地の悪いことを言わずに黙っていた。
楊ぜんは甘えるように涼に頭を寄せる。涼はいたずらに楊ぜんの道服のファスナーを押し下げた。
楊ぜんはぺしっと涼の手を叩く。
「性急過ぎるんだよ、野蛮人」
そう、そうかな?だって、何年待ったと思ってんだよ。
「いいじゃん。好きなんだから」
「そう告白してから何分立ったの?」
涼は生真面目にちょっと考えた。
「……三十秒くらい」
楊ぜんはあきれてため息をついた。
「ずっと待ってたんだ。楊ぜん。おまえが俺の前に現れるの」
楊ぜんはくすっと笑った。
「涼って意外と少女趣味だったんだ」
「違うよ、楊ぜん。これはそんなんじゃない」
「いくら真面目な声出してもね。こういう事しながら言ったんじゃ、全然説得力無い」
楊ぜんはずるそうに笑った。
「でも、いいよ。涼がしたいんなら」
「したい」
楊ぜんはくすくすと笑って涼の手を抑えていた手を離した。
「涼、前にきて。涼が見えない」
「見たいの?」
「変態!」
言いながらも楊ぜんは涼に抱きつく。
「ねぇ、莫迦みたいだね。昼間なのに」
「言いたい奴には言わせておけばいいんだ」
「僕が言ってるのに?」
涼はちょっと考える。
「それは困った」
布団の上に押し倒された楊ぜんは涼を見上げて口を開く。
「ねぇ、涼。男同士でどうやるか、判る?」
「知ってる」
涼は短く答えた。
知っている。ずっと鏡を見ていたから。見たくなくてしょうがなかったのに、それでも見ずにはいられなかったから。
楊ぜん。おまえのことはなんだって知っているんだ。
いつ、どこでどんな風にあいつに抱かれたのかも――。
☆
ねっとりとした、重苦しい空気が部屋を満たしていた。窒息しそうなほどの甘ったるい空気。汗ばんだ体を起こして涼は楊ぜんを見つめる。楊ぜんは目を閉じている。眠っているのだろうか。幾分苦しそうな、悩ましいおもて。汗で額にべっとりと張り付いた髪が淫らな模様を描いている。
疲れた重たい身体には充足感。手に入れた。涼の楊ぜん。
楊ぜんの額に張り付いた青い髪を、涼は丁寧に幾分固執するように払ってやった。
可愛かった。楊ぜんのあげる高い悲鳴にも似た声がボロアパートの隣に響くのを恐れて、涼は楊ぜんの口を抑えた。楊ぜんは苦しがって逃れようとし、涼の手に噛み付き、にじんだ血の味におびえるようにそれを離した。その一連の仕草が妙に嗜虐心をあおったことを覚えている。
う……ん……。軽く身をよじって楊ぜんは目を開ける。涼を視界に入れて小さく呟いた。
「……変態……」
言いたい奴には言わせときゃいいんだ。
涼は軽く笑って、壊れ物でも扱うかのように慎重に楊ぜんを抱きしめた。楊ぜんは眠たそうにくすっと笑ってもう一回、今度はからかうように身をひねる。だから涼はぎゅうっと楊ぜんを抱きしめる腕に力を込めた。
「……痛いよ……涼……」
幾分腕の力を抜くと楊ぜんは安心したように微笑む。
「涼、寝ちゃってもいい?」
言葉どおりの眠そうな顔。
「いいよ」
「おやすみ、涼」
「おやすみ、楊ぜん」
楊ぜんは静かに目を閉じた。
そして――。
涼は瞬きをする。鼓動が早くなる。目の錯覚だろうか。そう。そうに決まっている。だけれど。
涼は頭を振った。
疲れてるんだきっと。
今、一瞬。楊ぜんをすかして部屋の風景が見えたような気がした。
next.
novel.
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