家路
15.Youzen
部屋の中で食器の片づけをする楊ぜんを、涼はじっと眺めている。食い入るような視線。気づいてしまったら痛いくらいの。
「どうしたんだい、涼?」
楊ぜんははにかみながら涼に尋ねる。
「いや……」
涼は低く答えた。昨日の夜。楊ぜんと寝た――眠ったという意味ではなく――夜。涼は一瞬だが本当に楊ぜんを透かしてその向こうの景色が見えた。目の錯覚?よくわからない。ただ、それが実際に起こったらどんな剛毅なものでさえ当然に覚えるような胸を鷲づかみにされたような衝撃。それだけはしっかりと覚えている。今も、そのことを考えると動悸が早くなる。
今は……今は平気だ。楊ぜんはちゃんと実体があって、勿論その後ろの景色が透けて見えることなど無い。
だけれど一秒後は?
楊ぜんが消える。そんなことがありうるのだろうか。死ぬのではなく、ここに確かに存在している人間が消える?
ここに確かに存在――
楊ぜんはここにいるのか?
不意に涼は手のひらをきつく握り締める。寒くも無いのにじっとりと汗が流れる。
鏡。
そう、鏡だ。
楊ぜんがこちらの世界に現れたものだから涼は鏡の向こうの楊ぜんはいなくなったのだと思い込んでいた。
だから、楊ぜんが現れてから涼は鏡を見ていない。家に合った鏡は捨ててしまった。つまり、楊ぜんが本当にあちらの世界を離れてこちらにやってきたのかどうかは、考えてみれば涼には判らないのだ。
もしもあちらの世界にも楊ぜんがいるとしたら?
だとしたら、今、楊ぜんはどういう状態なのだろう。あちらの楊ぜんもドッペルゲンガーのように勝手に動き回っているのだろうか。
鏡を見なければ。
もう一度。鏡を見なくては。
涼は軽く舌打ちした。
畜生、楊ぜんがきたときに真っ先に確認しとけばよかったんだ。
あの時、涼は舞い上がっていた。これ以上ないくらいに嬉しかった。だからそんなことには思いもよらず――それに。第一。涼にとって楊ぜんが両方の世界に同時に存在するなんてことは全く思慮の外だったのである。
「……涼。涼」
ふと気がつけば楊ぜんは心配そうに、黙って考え込んでしまった涼のことをじっと見つめていた。
涼は笑う。安心させるように。もしも楊ぜんがあちらとこちらで二人いるとしたら、この楊ぜんは誰なのだろう?あるいは、楊ぜん自身はどんな感じなんだろう。まさか自分が二つに分裂しているなど気づいているはずも無いけれど。――もっとも、その楊ぜんが同時に二人存在しているなんていうのは涼の妄想に過ぎないのかもしれなのだけれど。
そんな涼の考えには全く気づかずに、しかし気遣うような恐れているような瞳で楊ぜんは涼の目を覗き見る。
「涼、ひょっとして、後悔してるの?」
「あ?何が」
涼はきょとんとして問い返す。
楊ぜんは幾分ほっとしたような、拍子抜けしたような顔をした。
「何がって……昨日の」
ああ、そうか、昨日楊ぜんと……。
奇妙な感慨。それは満足感に一番近かった。それと同時にほんの少しの後ろめたさ。楊ぜんはまだ、自分の身に起こっていることを全く知らない。涼が教えなければ、楊ぜんにはまだ何の危機感も無い。だから楊ぜんは昨日の延長線上でしかものを考えられないのだ。
可哀想に。次に沸いたのはそんな感情だった。
なんだかたまらなくなって涼は楊ぜんを抱き寄せた。
「してない」
不安などというものを楊ぜんに見せたくなかった。
「良かった」
楊ぜんは安心したように微笑む。楊ぜんを見つめて涼ははっとした。
「楊ぜん、おまえ、痩せたか?」
楊ぜんは自分の手首をじっと見る。
「そう?そうかな」
「ん。それになんだか、顔色わるくない?」
「鏡が無いからわかんない」
鏡、という言葉に涼はどきりとした。
「そう、だな。鏡、いいかげん買わなきゃな」
「あれ、涼って不精で鏡買わなかったの?僕てっきり涼のが自分の顔嫌いだから鏡買わないのかと思ってた」
楊ぜんは意外そうに呟く。
「なんで、俺が自分の顔きらうわけ?こんな色男なのに」
楊ぜんはくすくすと笑う。
「そうだね。僕も涼の顔好きだよ。だって似てるじゃない、えーと、あれ。誰に似てるんだっけ?ほら、あの人。えーと。あれ、僕あの人のこと好きなのに何で思い出せないんだろ。おっかしいなぁ。思い出せないってことはそんなに好きじゃなかったのかなぁ」
楊ぜんは首をかしげる。涼が植え付けた都合のいい理論はすっかり楊ぜんにはなじみの物になってしまったようで、おそらくそれも楊ぜんの記憶が抜け落ちるのに拍車をかけている。
楊ぜんはこの世界に適応してきている。それなのになんで消えるんだ?
「別に無理に思いださなくったっていいよ。俺、ちょっと鏡かってくるわ。不精だから忘れると困る。楊ぜんも来るか?」
案の定――というのも涼は楊ぜんがおもてに出ないだろうことを見越してこんなことをいったのだが――楊ぜんは首を振った。
「いいよ。ここで、涼を待ってる」
「御利巧にしてる?」
「莫迦」
楊ぜんは狭い玄関で靴を履きかけた涼に向かって枕を投げつける。
「あたんねーよ」
涼はそれをよけようと振り返り。そして――
見事に膠着した。
今度は見間違いなどではなかった。楊ぜんの色彩はすぅっと薄くなり、そしてしっかりと楊ぜんが背にした窓の外の風景が――その空を横切る飛行機雲まで――はっきりと見えた。
ばしっと枕は呆然と立ち尽くす涼の顔面を直撃した。
「あたったじゃないか」
くすくすと楊ぜんの笑い声。
涼はおもむろにそれから徐々にスピードを増して楊ぜんに走りより――といってもそんなに距離があるわけではなかったが――力いっぱい楊ぜんを抱きしめた。
その頃には、もう、楊ぜんはすっかり元に戻っていて。勿論、その後ろが透けて見えることもなく。涼に抱きしめられてほんの少しよろけただけだった。
「涼、何?どうしたの、急に」
戸惑ったように、というか事実戸惑って楊ぜんは尋ねる。
「楊ぜん、いいか。俺はすぐ戻ってくるからな。戻るまでここを動くんじゃねーぞ。間違っても消えるなよ」
ずっと向こうから走ってきたように勢い込んで涼は言った。
「消えるって何?」
楊ぜんはくすくすと笑う。
「この部屋からいなくなるな。一歩でもそこを動くなよ」
「は?」
楊ぜんはぽかんとする。
「とにかく、判ったか」
楊ぜんは戸惑ったものの、涼の勢いに半ば押された形でこくりと頷いた。
「判った。動かない」
「絶対だぞ」
「う……ん」
訳がわからないながらも楊ぜんは頷く。理由を問いただしたい気がしたが、それは本人はもう覚えているかどうかわからないが、戦場で戦ったことのある彼である。とりあえず涼が理由もなく楊ぜんに我侭を言っているのでないことも、そして楊ぜんが涼の言葉に従うことが非常に大事な緊急事態であることもなんとなく、気配で感じられた。
ただし、そんな自体がこの世界、現代日本で起こりうるということには楊ぜんはあまりぴんと来なかったのだが。
涼は楊ぜんの頭をまるで、そうするのがもう最後になるかもしれないというように優しくなで、それから額に一つ接吻して急いで出て行った。
楊ぜんは動くなといわれた以上、仕方なくそこにうずくまって。それでもやはりどうしても納得できなかったのか、何にも無い部屋の中で誰かに理由を求めるように一人呟いた。
「……だって鏡買いに行くだけなんだろ……」
鏡売り場まで行く必要は無かった。そこは駅前にある専門店街を一つのビルの中に押し込めたような感じの建物で、一階には婦人服売り場があり、そして当然そこにはちょうど姿見があった。
婦人服売り場で姿身の前にへばりついている大学生――もっとも涼の場合下手をすると高校生を通り過ぎて中学生に見えてしまうのだが――というのはかなり目立つ物だったが、勿論涼はそんなことにはかまってられやしなかった。
鏡の中には――これはもう予期していたことだが――楊ぜんがいた。
やはり、楊ぜんはあちらの世界にもいたのだ。
しかし、楊ぜんは眠っていた。白いシーツに包まれて。ぞっとするような、まるで死んでいるのではないかと思えるほどの白い顔。腕に伸びた点滴の管が痛々しい。わずかに点滴液が漏れてしまったのか青黒くあざになっているようだ。
横には男がいた。太公望ではない別の男。涼はそれにほんの少しの安堵と、違和感と、いらだたしさを感じる。恋人じゃなかったのかよ、という裏切られたような感覚。それを涼が感じるのはなんだかひどく奇妙だった。
楊ぜんの側にいる男は見たことがある。子供の頃の楊ぜんがお気に入りだった人物。あれから十年は経ったというのに全く年をとっていないというのはさすが仙人といったところか。確か――そう。太乙様。楊ぜんがそう呼んでいた人物だ。
一体どうなっているのだろう。楊ぜんは病気なのか?
それで、魂だけがこちらの世界にやってきたとか言う話だろうか。魂?ばかばかしい、そんなものあるものか。
この期に及んで、涼は変なところで現実主義者だった。
畜生、どうなってるんだ。
「お客様、あのぉ……」
制服を着た売り子が困ったように涼に声をかけた。
「あ、すみません」
涼は逃げるようにその場を立ち去る。
まるで死んでるみたいだった鏡の向こうの楊ぜんの顔色。それが、消えていく楊ぜんの残像に重なった。
鏡のあちら側とこちら側はリンクしているのだ。
そしてきっと、こちら側の楊ぜんが完全に消えてしまったとき、あちら側の楊ぜんもまた死ぬのかもしれない。
魂――もしも現実にそんなものがあるとして――それと身体が離れてしまったら、やはり死ぬしかないのだろうか。
何故だ?なぜこんなにも中途半端に楊ぜんはこちらの世界にやってきた。
せっかく、手に入れたのに。
やっと、涼のものになったのに。
next.
novel.
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