家路



16.変化



 西岐城周辺の誰も気がつかない大きな変化。
 少しずつ楊ぜんは人々の記憶の中に戻ってきた。
 太公望の苦労は確実に実り始める――

 のどかな昼下がり蝉玉は屋根に向かって声をかける。
「ねぇ、韋護。楊ぜん知らない?」
 気持ちよく昼寝していたのを起こされて、韋護は眠そうに目をこすりながら蝉玉のほうを向く。
「いや、今日は見てないけど」
「そう。今日こそは分裂魔球をお見舞いしてやろうと思ってたのに。どこいっちゃったのかしら」
 五光石を手に蝉玉は残念そうに呟いた。
 韋護はちょっと考える。
「楊ぜんにあてるんかい」
「そうよ。あいつの濃ゆい顔って見てみたくない?」
 あっけらかんと蝉玉は言う。
 韋護は今度もちょっと考えるとけらけらと笑い出した。
「そんなことしたらあいつマジで怒るぞ」
「あら、望むところよ。あんたも楊ぜんの親衛隊だったの?」
「なんだそりゃ」
 よいしょと韋護は起き上がる。
「楊ぜんのファンクラブよ。良くわかんないけどあるって噂」
「しらねーな。そういや昨日も太公望が楊ぜんがどうしたって騒いでたけど、あの人もその親衛隊なわけ?」
「あれはこれよ」
 声を潜めてにやりと笑い蝉玉は小指を立てた。
「楊ぜんが、だけどね」
 韋護は怪訝そうな顔をする。
 蝉玉は面白そうに笑った。
「デキてるの」
「ふーん。あの二人がねぇ……。あれ。そういや、今日は太公望も見てねーな」
「はぁん。二人でエスケープね」
 蝉玉は決め付けた。それからぶつぶつと文句を言う。
「なによ。いっつも二人でいちゃついてるんだからっ。もういいわ。私も今日はハニーといちゃつくっ。ハニー、どこぉっ!」
 駆け出そうとした蝉玉に韋護は慌てたように声をかける。
「いちゃついてるんかい?」
 蝉玉はくるっと振り返る。
「誰が?私とハニー?」
「じゃ無くて」
 蝉玉はにやりと笑った。
「ほーっほほほほ。横恋慕はいけなくてよ、お兄さん」
 そして今度こそ本当に走っていってしまった。



     ☆



「なぁ旦。俺思うんだけどよぉ」
 一応机に向かいながらもやる気なさそうに頬杖ついて姫発は呟いた。
「なんですか小兄様」
 額にぴくぴくと青筋を立てながらも、律儀に周公旦は聞き返す。
「楊ぜんって、変化できるんだよなぁ」
 相変わらずやる気のなさそうな口調で姫発は言った。
「そのようですね」
 ため息混じりに周公旦は言う。
「だったらさぁ。プリンちゃんにも変化できるんだよなぁ。ほら、前やってた碧雲ちゃんとかさぁ。土公孫の奴が騒いでる、憧れの竜吉公主様とかさぁ〜」
 ハリセンを持った手がぴくりと反応した。
「楊ぜん一人いれば、世界中のプリンちゃん手に入れたのも同じだろ。変化ってさぁ。子供産めるのかなぁ」
 大きくハリセンが振り上げられて。
「だったら、俺楊ぜんと結婚しようかなぁ。いつも変化させときゃわかんね……」
 振り下ろされそうになったハリセンは周公旦の手からさっと抜き取られ、そのまんまぱしぃんっと、姫発の頭を直撃した。
「いってーな、なにすん……げっ。邑姜!」
 振り返った先には冷たい目で姫発を睨んでいる邑姜の姿。
「あなたという人は……それでも一国の王ですかっ!」
「な、何本気にしてんだよ。冗談に決まって……」
 姫発はあたふたする。
「冗談?王としての任務も果たさず、挙句の果てに人権侵害。これが冗談で済みますか!」
「じ……じんけ……?だから悪かったって言ってるだろうが。何妬いて……」
 再び――今度は容赦なく――ばしいんっとハリセンが振り下ろされる。
「いってーな!頭悪くなったらどーすんだよ!」
「これ以上悪くなるわけが無いでしょう!」
「一国の王とか言うんだったらそのハリセンをどうにかしろよ!」
「だったらまず王らしく仕事をしなさい」
「なんだよ。楊ぜんは殴んなかったぞ!このヒステリー女」
 一端始まった言い争いは延々と続く。周公旦はいらいらする。
「お二人とも、夫婦喧嘩は外でおやりなさい!」
「夫婦なんかじゃないっ!」
 たまりかねて怒鳴った周公旦は二人一編に睨まれて珍しくたじろいたのだった。



    ☆



「キサマ、何故こんなところに楊ぜんがいるんだ」
 寝台に寄り添ってうつらうつらしていた太乙真人は弟子の声に目を覚ました。
「おや、ナタク。こんなところに来るのは珍しいね」
 寝ぼけながら彼は応対する。
「何故楊ぜんがいるんだと聞いている」
 次の瞬間、太乙真人ははたと気がついた。
「え?ああ。ちょっと待ったナタク!楊ぜんは病気なんだ。攻撃して怪我をされたら私が太公望に殺されるっ」
 太乙真人は珍しく身を呈して楊ぜんをかばう。
「キサマが殺されるのはかまわんが、そんな弱弱しい匂いの楊ぜんを攻撃するつもりは無い」
 ナタクははっきりと言い切った。私を何だと思ってるんだと太乙真人は心の中で呟く。きっと専属の修理工か何かだろう。あながち外れてなさそうなのが怖いところだ。
「そうか、ナタク。楊ぜんの匂いがしたからここに来たのかい?」
 疑問に思って太乙真人はナタクに尋ねる。
「そうだ」
 フェロモンか……?太乙真人は一瞬莫迦なことを考えた。
「昨日は、楊ぜんの匂いしたかい?」
「いや」
 すると……。太乙真人は楊ぜんの寝顔を眺めた。少しだけ、顔色が良くなったか?そっと前髪を払ってみる。そうだ具合が良くなっている。起きなさい。楊ぜん。
「キサマ楊ぜんから離れろ」
 とたんナタクがそんなことを言い出した。
 ほほぉ。私が楊ぜんにとられてしまったと思ったのだろうか。やっぱり親は親だよね。とられると淋しいんだよね。そんなことを思ったのもつかの間。
「楊ぜんは俺が下に連れて帰る」
 はぁ……?
 ぶっきらぼうな――といってもたいていいつもぶっきらぼうなのだが――弟子の様子を眺めながら太乙真人は考えた。
 これはひょっとして、初恋とか言う奴か……?
 なんか、複雑かも。胸の奥でこっそりと太乙真人は呟いた。さてと、どうやってナタクを納得させようか。太乙真人はちらほら考える。
「おい」
「なんだい、ナタク」
 どうやら何も壊すつもりはなさそうだと安心して、太乙真人はナタクを部屋に通した。
 点滴の透明なチューブにつながれた楊ぜんは、ひどく透明な感じがする。それを感じ取ったのかナタクは寝台から3歩ほど手前でぴたりと立ち止まった。
「……泣いている……」
「え?」
 太乙真人は怪訝そうにナタクを振り返り、それから楊ぜんを眺めた。
 長い睫の奥から、白い頬を伝い透明な涙がするりと落ちた。
「……楊ぜん?」
 慌てて太乙真人は楊ぜんの下へ駆け寄る。
 指でそっと涙を拭う。涙は――
 あたたかかった。
 ――いきてる。
 ここにいる。
 何か暖かい物が身体を満たし、次の瞬間訪れる叫びだしたくなるくらいの衝動。
「良かった。良かったよぉ。ナタク」
 太乙真人はナタクの手をとるとぶんぶん振り回した。
「なにをする。離せ気色の悪い!だいたいなんでキサマまで泣くんだ!」
「だって嬉しいじゃないか!」
 ぐいっと太乙真人は涙を拭う。
「楊ぜんが泣くと嬉しいのか?」
「楊ぜんがここにいるのが嬉しいんだ。判るだろうナタク。楊ぜんは他のどこでもない。ここにいるんだ!」
「わからん。楊ぜんは最初からここにいる」
 ナタクは怪訝そうな顔をする。
「そうなんだけどさぁ……そういえばナタク。君は楊ぜんを忘れなかったのかい?」
 ナタクはますます怪訝そうな顔をした。
「何故忘れるんだ」
「そうか。忘れなかったんだ。さすが私の弟子だ」
 そして、さすが初恋だよね。初恋かぁ。いいよねぇ。初恋。私はいつだったかなぁ。そして、今度はすっかり躁状態になってしまった太乙真人はにやにやし始めた。
 太乙真人に付き合いきれないと思ったのか、それともかかわるのがいやになったのか、ナタクは途中から太乙真人の言葉を無視して楊ぜんを眺めていた。
 涙は止まることなく流れつづける。辛そうでもなく苦しそうでもなく、それでも涙を流しつづける楊ぜんの様子はどこか痛々しかった。
「止めてやれんのか」
 楊ぜんの頬に手を触れようとして、しかしそれができずにナタクはぴたりと手を止めて呟いた。
「え?」
「楊ぜんは何故泣いている」
 それはきっと、ここに太公望がいないからだよ。
 太乙真人は黙っていた。それを今言ってしまうのは――それがいずれわかることであっても――あまりに残酷な気がして。
「淋しいんだよ、きっと」
 代わりに太乙真人はそういった。
 太公望。何やってるんだい?楊ぜんはちゃんと、ここにいるのに。
 私でも、ナタクでも、他の誰かでも駄目なんだ。楊ぜんが側にいてほしいのは、太公望、君だけなのに。

 しずかにしずかに楊ぜんはただあたたかな涙を流しつづけている。

next.

novel.