家路
17. 真実
締め切った暗い部屋の中で太公望はぼーっと一人座り込んでいた。目の前には姿見。鏡の向こうには楊ぜん。それから、もう一人。二人はこともあろうに同じ布団で寝たのだ。ただ単純に寝たという意味ではなく。
立ち上がる気力も無かった。頭の中が空っぽになってしまった。
楊ぜんはどういうつもりなのだろうか。
鏡の向こうの男のことを太公望と勘違いしているのか。あるいは、鏡の向こうにいるのが本物の楊ぜんではないのか。そんなことを何度も考えて、でもどちらもありえない。楊ぜんは男のことを涼と呼んでいたし――大体唇の動きを見てみればそれが太公望とも師叔とも発音していないことくらい素人でもわかることだ――それに、鏡の向こうの楊ぜんはしゃべるときの癖とか、はにかんだ様子とか、すべてが太公望の記憶する楊ぜんの物だった。
空っぽになった頭で太公望は誰かが部屋の前に歩いてくる足音を聞いた。その足音が部屋の前で立ち止まっても、太公望は身動き一つしなかった。一ミリ動くのですら面倒だった。否、面倒という概念そのものも今の彼の頭には浮かばなかったのだ。悲しんだり怒ったりするよりも前に、感情とか思考とか言う物が麻痺してしまったらしい。
「太公望、ここにいるのかい?」
誰だろう。
麻痺した頭で彼はのろのろと考える。ああ、太乙真人だ。弾んだ声。今、聴きたい声ではない。
彼は返事をしなかった。自分には喉や口というものがあって、それを使えばしゃべることができるのだということをすっかり忘れてしまったように。
壁を通して、太乙真人の声が聞こえる。
「太公望?……なんだ、いないのかなぁ。でもまあいいか。ここは君の部屋だしね。一端ここに寝ていなさい」
何を言っているのだろう。ぼんやりと思考が動き出す。
ここは――ここは楊ぜんの部屋だ。
楊ぜん?
太公望は初めてドアのほうを見た。
「今ドアを開け……うーん、開かないか。手がふさがってるからな。楊ぜん、一端床に置くけど、ったくこんなことならナタクをここまでつれてくりゃ良かったよ」
楊ぜんを連れてきているのか?でも、楊ぜんは、鏡の中に――。ああ、違うのか。その頃になって太公望は漸く気がついた。楊ぜんが眠ったきり起きなくなったのがことの発端であったこと。それを自分は楊ぜんの自我がどういう理由でか鏡の中に吸い込まれてしまったのだと考えたこと。楊ぜんが眠っているうちに皆が楊ぜんを忘れたこと。皆が思い出したら鏡の向こうがはっきりと見えるようになったこと。そして――。
楊ぜんが男と寝たこと。
ぐいっと奥歯をかみ締める。
では、ドアの向こうにいる楊ぜんは誰なのか?
カチャリ。
ドアが開いた。
☆
「おかえり」
にっこり笑って楊ぜんはいった。
「楊ぜん、おまえ、具合悪くないか?」
涼は帰ってきて真っ先にそういった。真剣な表情。睨みつけてるみたいだ。
楊ぜんはかすかに笑う。
「なんだ、涼わかってたんだ」
涼はまじまじと楊ぜんを見つめた。
「おまえ、本当に具合、悪かったのか」
鏡の向こうで見た楊ぜんの青白い顔がフラッシュバックした。
「うん、ちょっと。たまに眩暈がするんだ。おかしいなぁ。前はこんなこと無かったんだよ。顔色が悪いって言われたことはあるけど、全然病弱とかそういうんじゃなかったんだ」
つまり、こちらの世界にきてから楊ぜんは体調を崩しているということか。あるいは、鏡のあちらとこちらに分かれてから。
一人の人間が同時に違う場所に存在できるわけが無いのだ。だから、どちらかが――あるいは両方が?――消えようとしている。
「いつから?」
確信を得ようと涼は楊ぜんに尋ねる。
「最近。涼と公園に行った日くらいから」
楊ぜんの答えに涼は少しばかり考えた。
「じゃあ、こっちに着てからってわけじゃないんだな」
「こっち?」
楊ぜんは怪訝そうな顔をする。
涼はきょとんとしてそれから安心させるようににっこりと微笑んだ。そういえば、楊ぜんのあちらの世界での記憶は消えかかっているのだった。
「楊ぜんが俺んとこに着てからって意味」
楊ぜんはきょとんとした。それから言った。
「何言ってるの涼。僕ずっと前から涼と一緒にいるじゃないか」
「ずっと前……?」
涼は怪訝そうに楊ぜんの顔を覗き込む。楊ぜんが涼の所にきたのは二週間くらい前で、それだけの時間を普通「ずっと」などと表現するだろうか?
また記憶が錯乱しているのか。幾分ぞっとして涼は考えた。
「楊ぜん、最初に楊ぜんがここにきたのはいつだっけ?」
「え……?」
楊ぜんはきょとんとする。
「わからない……。なんでだろう。何で判らないんだろう。でも、気がついたら涼と一緒にいた気がする……」
その台詞の割に楊ぜんは深刻そうな様子も見せなかった。
そういえば。涼は考える。楊ぜんの記憶は確かに涼のところにきたときから少しずつ消えていったけれど、それが涼に都合よく消えだしたのは涼が楊ぜんを連れ出した頃からだ。
一つの符合。
記憶が消えれば
楊ぜんがきえる――?
ぞくりとした。
そうか、記憶もまた、楊ぜんをあちらの世界と結びつける役目を果たしているわけだ。楊ぜんがあちらから一つ切り離されるたびに――つまり、楊ぜんの記憶が一つ消えるたびに楊ぜんもまた少しずつ消えていくというわけか。
「楊ぜん、おも」
思い出すんだ。そう言おうとして、涼は結局口を閉じてしまった。
楊ぜんが記憶を取り戻すということは、楊ぜんが太公望のことを思い出すということなのだ。そして楊ぜんが太公望のことを思い出せば、きっと楊ぜんは涼のもとを離れてしまうだろう。
せっかく手に入れた楊ぜんを手放すのが、涼は怖かった。
ずっと、それこそずっと楊ぜんのことだけ考えて涼は生きてきたのだ。
いまさら、太公望に渡すなんてそんなことは考えられなかった。
「どうしたのかい、涼?」
楊ぜんは無邪気に微笑む。
涼はじっと、楊ぜんを見つめた。何か言おうとして口を開いた。
思い出すんだ、楊ぜん。思い出さなきゃ、おまえは消えちまうんだ。
「楊……ぜん……」
ふわりと、楊ぜんの姿が薄くなった。
思い出さなきゃ、消え――。
「あ、涼。そういえば鏡は?」
楊ぜんの声。
鏡?
「あ、忘れた」
「もぉ」
楊ぜんはすねたように涼を睨む。
「だって、ほら楊ぜんが心配だったからさ」
「あのねぇ。涼。僕はちょっと眩暈がしただけなんだよ。全然たいしたことじゃないんだから。あーあ。涼が鏡買ってきてくれると思ってたのに」
涼はほっとしたように軽く笑った。日常というものがひどく遠い物に思えて。それを引きずった楊ぜんの言葉がなんとも微笑ましく哀しかった。
「悪い。明日買ってくる」
「ふうん」
疑わしそうに楊ぜんは涼を眺める。
「まぁいいや。おなか減った。涼なんか作ってよ」
「おまえね……」
「だって、涼が鏡買ってくるの忘れたんだろ。だから、今日は涼が作るの。でも、なまぐさは駄目だよ」
楊ぜんはぴっと人差し指を立てる。
「いい性格してるよな」
あきれて涼は呟いた。
ふふんと楊ぜんは楽しそうに笑った。
自分が消えるってこと、わかってんのかな。判って……ないよな、やっぱり。
「楊ぜん、おまえさ」
「何?涼」
「俺のこと、好き?」
楊ぜんはたちまち真っ赤になった。
「な、何言い出すのさ急に」
涼は真剣だった。目をそらさなかった。
「死ぬまで、俺と一緒にいてくれるか?」
「りょお……」
楊ぜんは大きく目を見開いて涼を見つめた。
「死ぬって……やだ。そんなこと言わないでよ。それじゃまるで……」
楊ぜんは口篭もる。一端口篭もってそれから思い切ったように口を開いた。
「それじゃ、まるで涼が死んじゃうみたいじゃないか!」
涼はぽかんとする。
俺が死ぬ?
俺が死ぬって?
涼は笑い飛ばした。笑い飛ばしながらなんだか泣きたくなった。
「莫迦だな。そんなことあるはず無いじゃないか。ただ言ってみただけだよ」
消えてしまうのは涼ではなく楊ぜんなのだ。
楊ぜんのはずなのだ。
はず――
胸の中で小さなしこりのような物がうずいた。
楊ぜんが消えたら涼はどうなるのだろう。
ずっと楊ぜんだけを見てきて、楊ぜんだけのために生きてきた涼は。
そう。涼は楊ぜんのためだけに生きてきた。そもそも涼の異端は楊ぜんの姿が見えたことから始まったのだから。だから、涼の人生は楊ぜんのためだけにあったといってもいい。楊ぜんを見つめつづけるためだけに涼は存在したのだ。
あたりまえだと思っていたこの感覚。疑問すら思い浮かばなかった自分の人生に涼ははじめて小さなささくれのような突っかかりを感じた。
他人一人だけのためにある人生。そんなもの本当にあるのだろうか。
否。涼にとってははじめから楊ぜんは他人などではなかった。
涼にとっての楊ぜんは涼の一部だったし、楊ぜんにとっての涼も楊ぜんの一部であるはずだ。
楊ぜんの一部――?
ぞくりと何かが背筋を伝った。
涼は楊ぜんの一部。
いつかの言葉が頭の中に甦った。
――涼ってさぁ。僕だけのために神様がくれたプレゼントみたいだね。
――僕はきっと、僕だけのための人が欲しかったんだ。
太公望のようにではなく。
あの時はそう思った。
でも、そうではなくて。楊ぜんは自分だけのために存在する太公望が欲しかったのだとしたら――?
涼 の 顔 は 太 公 望 の 顔 と 瓜 二 つ な の だ 。
ただ似ているいうレベルじゃない。それは涼が一番良く知っている。自分の顔なのだから。
――違う。俺が楊ぜんを鏡の中に見つけたのは楊ぜんが太公望と合うずっと前のは――
例えば、これがすべて楊ぜんの夢。否、そうでなくても楊ぜんが作り出してしまった仮初の世界なのだとしたら――?
ばかげている。莫迦げている。だけど。
楊 ぜ ん は 仙 人 な の だ 。
何かしらの力がある。
これが全部楊ぜんの夢で、楊ぜんが淋しいと、自分だけの太公望が欲しいとそう感じた瞬間――あるいは思いつめた結果――涼がこの世界に発生した。
否、ひょっとしたら。楊ぜんがこの世界に現れた瞬間涼が生まれたのかもしれない。そのほうが合点がいく。鏡の中の楊ぜんは明らかに衰弱した様子だったし、今までの仮説がすべて間違っていたとも思わない。涼の存在。ただ一つを除いては。
この世界は楊ぜんが現実の世界から逃げ出すために見つけた既存の世界。ここには妖怪仙人は存在しない。だから楊ぜんは変化できない。楊ぜんがそう望んだから。妖怪でなく、人間でいることを。そしてこの世界ならば確かに楊ぜんは人間なのだ。
涼は、楊ぜんが作り出した楊ぜんに都合のいい、そうあってほしかった太公望の幻。涼の記憶は涼が生まれたときに――否、涼が楊ぜんに作り出された瞬間に一緒に与えられていた物。
楊ぜんが無意識に作り出してしまった幻の夢。
無意識に血が出るほど手のひらを握り締め、涼は薄く笑った。
仮説に過ぎないはずなのに、もう彼はそれを受け入れてしまっている。そのこと自体が仮説の正しさを照明しているようでもあった。
いいじゃないか。
いいじゃないか、それで。
どうせ楊ぜんに出会わなければ意味の無い人生だ。人生――もうそう呼べるのかさえあやふやなものだけれど。
――まるで涼が死んじゃうみたいじゃないか。
そう。その通り。楊ぜんの言ったことは正しかった。楊ぜんが消えれば。楊ぜんに涼が必要でなくなれば、その瞬間に涼もまた消えるのだ。
いいじゃないか、それならば。
一緒に消えてしまおう。
幻にしては贅沢すぎる最後だ。
一緒に消えよう。楊ぜん。
next.
novel.
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