家路



18.夢



「うわっ。なんだ太公望いたのかい」
 ドアを開けて入ってきた太乙真人は真っ暗な部屋の中にお化けのように潜んでいた太公望にびっくりして声をあげた。
「こんなに暗くしてどうしたのさ?」
 太公望は力なく太乙真人を見上げた。憔悴してるなと太乙真人は思う。
「今日は楊ぜんを連れてきたんだ」
 びくりと太公望が反応するのがわかった。
「楊ぜん……?」
「そう。大変なんだよ太公望。いや、大変っていってもいいほうの大変なんだけれどね」
「のぉ太乙よ。楊ぜんはあそこにおる」
 太公望はそういってどうやずっと見ていたらしい姿見を指差した。
「どうしたものかのぉ」
「はぁ?」
 太乙真人は困ったように太公望を見つめた。それからちらりと太公望の指差す姿見を見る。姿見は部屋の中と、ひざを抱えて座り込んでいる太公望を映していた。あたりまえだ、鏡なのだから。
「ただの鏡じゃないか」
「おぬしには見えぬのか?」
 太乙真人は怪訝そうな顔をする。
「みえないね。それに第一楊ぜんはここにいる」
「楊ぜんはあそこにおる。わしが要らなくなってしまったのかのぉ」
「何言ってるんだい。太公望」
 太公望は一端口を噤んでそれからまた話し出した。
「あやつは、わし以外の男と寝たのだ」
 太乙真人はきょとんとした。それから姿見を指差す。
「鏡の中でかい?」
 太公望は頷いた。
 太乙真人はサッパリわからないというように首を振った。
「手放したくはないが、もう届かぬところにおる。あやつもわしといないほうが幸せなのかものぉ……」
「ああ、そうか。君は楊ぜんの眠りが普通じゃないって、そのことを気にしていたんだね。大丈夫、楊ぜんはもうすぐ起きるよ」
 あっけらかんと太乙真人は言う。
 ぽかんとして太公望は太乙真人のほうを見た。
 太乙真人は抱きかかえていた楊ぜんをよいしょと寝台の上に降ろす。
 太公望はのろのろと楊ぜんのほうによっていった。そして、不思議そうに楊ぜんの寝顔を見つめる。
「泣いておる……」
 楊ぜんはいまだ涙を流しつづけていた。
「何故だ。太乙。何故楊ぜんがないておる」
 太公望ははっとして姿見を見た。それからまた太乙真人に向き直る。
「何故だ。楊ぜんはまだ鏡の中におる。それなのに何故この楊ぜんが泣くのだ?」
 太乙真人はにっこりと笑った。
「それは。楊ぜんがここにいるからだよ。ここにいて、今生きているから。ねぇ、太公望。人が泣くのはどうしてだと思う?涙なんか人が生きていくためには必要の無い物だ。勿論目の乾きを防止するためには必要だけれど、今はそんなこと言ってるんじゃない」
 太公望は怪訝そうに太乙真人を見る。
「一つには悲しみの浄化作用があるね。思いっきり泣くことはカタルシスを引き起こす。でも一番の役割は、わかってもらうためだよ。今、自分が悲しいって」
 太公望は楊ぜんの寝顔を見つめた。
「哀しいのか。しかし、鏡の中では笑っておるのに……」
「哀しいときにも人は笑えるんだよ。君だって良くやるじゃないか」
「わしはそのように身体に悪そうなことはせぬよ」
 太公望は言った。そしてもう一度、眠っている楊ぜんを見つめた。
 ここにも楊ぜんがいる。泣いている。泣いているというのは心があるということだ。太乙真人の言うように哀しいと判ってもらうため。
 戸惑うように太公望は楊ぜんの頬に手を伸ばし、恐れるようにその涙をそっと拭った。
 泣いている。
「君と離れて哀しいからだよ」
 では、なぜ他の男などと寝たのだ。あてつけのつもりか。
 否、否――。
 もうよくわからぬ。
 ここに楊ぜんがいるとしたら、鏡の中の楊ぜんは誰なのだ?



     ☆



 宝物のようにそっと涼は楊ぜんを抱きしめた。楊ぜんはまた影がすぅっと薄くなる。楊ぜんの消える感覚を考えれば、もう時間が無いことはすぐにわかった。
「どうしたの涼」
 何も判ってない楊ぜんはうっとりと目を閉じた。なんだか酷く、不安だった。涼に抱きしめてもらえれば、安心できる。
「なんでもない」
 涼は楊ぜんを導いてベッドに腰をおろす。楊ぜんもつられて一緒に座った。
「なんでもなくないよ。変だよ、涼」
 そう、そうかな。最後は二人で一緒にいようと思ったんだ。
 なかなか悪くない最後だと思うけど。
 涼はそっと楊ぜんを抱きしめた。
「最後まで一緒にいようと思ったんだ」
「え……?」
 涼は楊ぜんの額に軽く口付けた。
「なんでもないよ。楊ぜん」
 知らない間に消えてしまえるのならば、それが一番幸せなのかもしれない。
 そうだ、それが一番――
 楊ぜんにとっても。
 楊ぜんにとっても?



     ☆



「のぉ、太乙。わしは楊ぜんの心が鏡の中に吸い込まれてしまったのだと思っておった。だが、楊ぜんの心はここにもおるのだな」
 眠っている楊ぜんの髪を撫ぜながら太公望は呟いた。
「そうだね」
「楊ぜんは目覚めるか?」
「目覚めてもいいはずだ。泣いているのだからね」
 太公望は再び楊ぜんを見つめる。
 例えば、鏡の中にいる楊ぜんがおもての感情、ここで寝ている楊ぜんが深層心理。そう考えてもいいのだろうか。
「太公望」
 太乙真人はそっと太公望の背中を押した。
「楊ぜんを目覚めさせることができるのは君だけだよ。私は、外で待ってるから」
「太乙?」
 振り返った太公望に太乙真人は気障っぽくウインクをよこした。
「私は恋人同士の語らいを邪魔するほど野暮じゃないよ」
 太乙真人はひらひらと手を振って部屋を出て行った。
 後に残されたのは太公望と楊ぜんのみ。
「楊ぜん、目を開けてはくれぬか」
 太公望は眠っている楊ぜんにそっと話し掛けた。
「おぬしはずっと、ここにおったのだのぉ。わしは随分、遠回りしてしまったようだ……。楊ぜん」



     ☆



「涼、なんか今」
 楊ぜんは涼の腕の中で身じろぎした。
「何か、聞こえなかった?」
「いや」
 涼は首を振る。
「なんて聞こえたんだ?」
「名前、呼ばれた気がした」
 太公望?涼は考える。
 そして、一つ忘れていたことに気がついた。
 楊ぜんだけなら、消えずに済むのだ。
「楊ぜん、おまえ……」
 いやだ。楊ぜんを手放したくない。
「涼、どうしたの?」
 いいじゃないか一緒に消えてしまえば。二人で一緒に消えればいいんだ。
 だけれど。
 楊ぜんが消えても、楊ぜんが元の世界に戻っても、涼は消えるのだ。
 涼にはもう、楊ぜんの側にてやることができないのだ。
 楊ぜん一人なら、助かる。
 涼が手を離せば、楊ぜんは助かる。
「りょお……?」
 不安そうに楊ぜんは涼を見上げた。
 頼り切ったような瞳。これを手に入れたくて涼はずっと鏡の中を睨みつけていた物だ。
 そうだ。こいつは、誰かが側にいてやらなきゃ駄目なんだ。
 ここで、消えて――そうだ、消えてしまったら。いくら一緒に消えたって消えてしまったらひとりぼっちじゃないか。一人――否。そんな概念すら消え去った孤独。
 涼は顔を伏せて、そっと楊ぜんの肩に手を置いた。
 逡巡。それから彼は口を開く。
「楊ぜん。戻れ」
 短く言った。
「え……?」
「思い出すんだ。楊ぜん」
 もう、俺はきえちまうんだ……。
 幻は消える。もう夢は終わりなんだよ。楊ぜん。
 夢は覚めなきゃならないんだ。
「涼。痛い……なに……?」
 肩を痣になるほどつかまれて楊ぜんは小さく呻いた。



      ☆



 楊ぜん。
 声が聞こえる。
 ようぜん。
 だれ――?



      ☆



 太公望は楊ぜんを見下ろす。起きない楊ぜん。どうしたら起こすことができるのだろう。流れた涙。楊ぜんはここにいる。はっきりとそう感じることができた。もう、あの存在感の無さはない。近くまできている。そんな気がする。もう起きてもいいはずなのに。いいはずなのに。
「楊ぜん」
 ありったけの思いを込めて太公望はその名を呼んだ。



      ☆



「目を覚ますんだ、楊ぜん」
 最後だとばかりぎゅうっと楊ぜんを抱きしめて涼は言った。
「思い出すんだ。おまえは崑崙の天才同士。金鰲の通天教主を父に持つ、玉泉山金霞洞玉鼎真人門下――楊ぜん」
「嫌」
 小さく楊ぜんは言った。そしてぎゅっと涼にしがみついた。
「思い出すのは嫌。涼と一緒に――」
 なんて残酷で甘い響き。涼は一つ楊ぜんに口付ける。
「楊ぜん。現実を見るんだ。おまえは死にかけてるんだよ」
「りょお?」
「おまえはずっと周にいるんだ。目を覚ませば、いつだって帰れたんだよ。だけどそれをしなかったのは、楊ぜんが目を覚ましたくなかったからだ」
 涼はそっと楊ぜんの髪を撫ぜる。
「楊ぜんは、淋しかった。おまえの我侭を聞いて甘やかしてくれる玉鼎真人はいなくなってしまった。戦争の準備で太公望は忙しい。皆大切な人を失ったから楊ぜん一人最愛の師を亡くしてさえ悲しんでいるわけにも行かなかった。でも、楊ぜんは淋しかった。無条件に甘やかしてくれる誰かが欲しかった」
「涼。嫌。聞きたくないよ」
 楊ぜんはだだをこねるように首を振る。涼は続けた。
「だから楊ぜんは無意識に俺を作り上げた。自分のことすら考えずただ楊ぜんのことだけを考える……太公望にそっくりの――本来ならおまえが一番その役目を果たして欲しかった太公望にそっくりの俺を作り上げたんだ」
「嫌っ。涼は涼だよ。どうしてそんな莫迦なこというのさ!」
 楊ぜんは強情に首を振った。
「楊ぜん。もう夢は覚めるんだ。目覚めて現実をみなくちゃならないんだ。俺は楊ぜんの一部だ。俺がこういうってことは……楊ぜんがそう思っているってことだ。いくら俺といたって楊ぜんは一人ぼっちなんだよ。自分相手にしゃべってるのと同じだ」
「涼はここにいるじゃないか。今抱きしめる事だってできるじゃないか」
「それでも。本当は楊ぜんだってわかってるんだろう。これが茶番でしかないってことが。もう無条件に甘やかしてもらえる子供の時間は終わったってことが」
 楊ぜんは黙り込んだ。黙ってじっと涼を見つめた。
 微笑が、懐かしい声が――。
 涼と同じ顔の全く別の人。それが打ち寄せる波が砂を運んでくるように少しずつ、でも確かに楊ぜんの中に戻りつつあった。
 楊ぜんはそっと涼の頬に手を伸ばす。
「涼……涼はいいの……?僕がいなくなっても、本当にいいの?」
「一緒だよ」
 涼は無理矢理微笑んだ。
「俺は楊ぜんの一部だから、死ぬまで楊ぜんと一緒だ」



      ☆



 太公望師叔。
 かえる。
 かえらなきゃ。
 あのひとのもとへ――。

 よせてはかえす波のように、想いは身体を満たしていく。



      ☆



「楊ぜん」
 太公望ははっとする。
 わずかな身じろぎ。今、確かに。
「楊ぜん、起きよ。もう一度目を開いて……」
 絶対に離しはせぬから。
 太公望は眠っている楊ぜんを抱き起こす。



      ☆



「楊ぜん、最後に一つだけ頼みがあるんだ」
 涼は言った。穏やかな顔で。
「なに?」
「俺が消える前に、キスして欲しいんだ」
 楊ぜんは小さく微笑んだ。右の瞳から涙があふれた。



      ☆



 きっと、幻にしてはもったいなさ過ぎる最後――



      ☆



 楊ぜんはそっと涼に口付けた。



      ☆



 太公望は眠っている楊ぜんを抱き上げ、そっと唇を合わせた。



      ☆



 わずかな吐息が交じり合って。
 そして。
 そして――

 楊ぜんは、ぱちりと目を開いた。
 薄ぼんやりした瞳で太公望を見つめ、
「師叔……」
 思い出したように、小さく呟いた。

 ――帰ってきた。この場所に。

next.

novel.