ジューンブライド01



 周のお城の一室で、太公望はなにやら筆を動かしている。といっても、別に恋文なんぞ書いているわけでもなくて、それは実に実に味気ない予算の見積書だったりする。もっとも、いくら有能な軍師様とはいえ、一人で予算を決めて良いわけがないから、これは予算の見積書の下書きなのだ。詳しく言えば。
 今は夜中で、ここは太公望の私室である。太公望は徹夜でお仕事をしている。軍師様は普段はひまそうに見えても、実はとっても忙しいのだ。否、普段サボっているからこんなに忙しくする羽目になってしまうのだ。最悪の場合楊ぜんに応援を頼むという方法もあるが、太公望はあんまりそれはしたくない。やはり男にはプライドというものがあるではないか。
 そんなわけで、軍師様は眠い目をごしごしこすり、ついでに筆でほっぺたまでごしごしこすってしまって、真っ黒になりながらもまじめにお仕事などしてるわけである。
 そこに忍び寄る影が一つ。
 それは太公望に気づかれないように慎重に慎重に足音を忍ばせて、太公望の後ろに回る。机の上の蝋燭の明かりしかないから、これは慎重にやれば簡単である。もっとも、太公望だって道士であるわけで、いくらお仕事に躍起になっていたからって、さすがにただの人間や修行の足りない道士にこんなことができるわけない。つまりそれは、かなり上位の仙人で、その上太公望が自分の傍にいてもあんまり気にすることのない、普段から太公望の傍にずっといるような人物で、早い話楊ぜんなのである。
 楊ぜんは太公望の後ろにそぉっと回りこむと、イキナリ後っからぎゅぅっと太公望に抱きついた。
「ぬおぅ!」
 太公望は変な悲鳴をあげる。そして驚いて筆が動いたせいでせっかく徹夜して書いていた、見積書は台無しになってしまった。
「師叔」
 楊ぜんは太公望の肩越しからその真っ黒になって、今はもう何が書いてあったのかさえわからない見積書の残骸を覗き込む。
「何、書いてらしたんですか?」
 太公望は今までの何時間もの苦労があっさりと水の泡になってしまった感慨にふけりながら、はぁ、と一つだけため息をついた。
「やだ。ひょっとして」
 楊ぜんはちょっと太公望に抱きつく……というか、傍目には抱きしめてるように見える腕にほんの少し力をこめる。
「仕事の邪魔しちゃいましたか?」
 そして心配そうに尋ねてくる。まさしくそのとおりだったりするのだけれど、楊ぜんにひたすらあまい太公望は自分の胸のちょっと上あたりに回された楊ぜんの腕に軽くてをかけて、できるだけなんでもなさそうなふりなど装ってみる。
「いや。単なる落書きだよ」
「ホントに?」
 楊ぜんはそこで太公望の眼を覗き込もうと身を乗り出す。だけれどそこで支点になってるのがまた太公望だったりするから、結果、太公望は少しつぶれた。
「楊ぜん、やめよ。おも……」
 重い。といいそうになって太公望は慌てて口を閉じる。そんなこといった日には、楊ぜんはタダでさえやせてるくせに、その上ダイエットまではじめようとするだろう。どうも、楊ぜんに対して自分の発言はかなりの影響力があるらしい。それはそれで嬉しいのだけれど。楊ぜんがこれ以上やせてしまうのは太公望としてはあんまり嬉しくない事態だったりする。
「師叔?」
 きょとんとした楊ぜんが身を乗り出すのをやめたので、とりあえず太公望はそれ以上つぶれずにすんだ。
 太公望は楊ぜんを振り返る。
「こっちにおいで、楊ぜん」
 手を伸ばして。
「そんなところにおっては、わしにおぬしの可愛い顔が見えぬではないか」
 自分で言っておきながら、太公望はこのあんまりといえばあんまりな台詞に赤くなったのだが、幸い蝋燭の灯しかなかったため、それくらいの変化は楊ぜんには見えなかっただろう。ここで照れてはならない。どうも、少々鈍感なところのある楊ぜんにはこれくらいの台詞じゃないと利かないのだ。さりげない台詞なんて言ったところでたいていは気づかれずに終わってしまう。
「やだぁ。師叔ったら」
 そして楊ぜんは、こちらは完全に赤くなって太公望の首に抱きついた。
 そしてそうなっちゃうともう、仕事なんかどうでもよくなっちゃうのが恋人同士というもので。太公望は見積書の残骸のことなんかすっかり忘れて、チュッと楊ぜんの頬にキスした。
「おぬしは可愛いよ」
 くすくすくす。楊ぜんは恥ずかしがって太公望の胸に顔を押し付けるようにして笑う。
 それからふと顔を上げた。
「師叔。僕お願いがあってきたんです」
 甘えるように太公望にもたれかかる。
「どうしたのだ。楊ぜん。言ってごらん」
 太公望は半分上の空で楊ぜんの前髪をもてあそびながら答えた。
「師匠にあって欲しいんです」
 ぴたっ。太公望は止まる。なんだか楊ぜんが真剣だったから。
「今度の日曜はね。父の日なんだそうです。師匠は厳密に言えば僕の父じゃないんですけど、でも僕のことを育ててくれた人であるわけで。やっぱり父親みたいな人で。僕は実際の父には事情があってあえないんですけれど。だから代わりに師匠に喜んでもらえることをしたいなって思って」
「それでどうしてわしなのかのぉ」
 太公望にはよくわからない。もしも楊ぜんが師匠であるところの玉鼎真人に喜んでもらいたいのならば、楊ぜんが玉鼎真人に会えばいいのだ。そのほうがずっと玉鼎真人だって嬉しいだろう。
 だいたい太公望には人に喜んでもらえるような特技などないのだ。いや、あるのかもしれないが、まさか楊ぜんが、原始天尊様直伝の泥酔拳の披露とか桃の大食い競争なんかを望んでいるわけでもないだろう。
「師叔じゃなきゃ駄目なんです」
 楊ぜんはやけにはっきりと言い切った。
 太公望は首をかしげる。
「昔、師匠に聞いたことがあるんですよ。師匠は僕がどうしたら一番嬉しいですかって。そうしたら師匠が、じゃあ、楊ぜんに私と同じくらいか私より大事な人ができたら一番に私にあわせてくれって。それが一番師匠は嬉しいよって。だから僕……」
 そういうと楊ぜんは暗い蝋燭の光の中でもわかるくらいに真っ赤になる。
「師叔がそうじゃないかって思うんです。だから一番最初に師匠に会って欲しいんです」
 楊ぜんはそういうと、ね、いいでしょう?と言うように太公望の眼を覗き込んだ。
 太公望は楊ぜんの眼がぐっと近づいたので、当然のことながら一緒に近くに来た楊ぜんの唇に惰性で軽く口付けながら考える。
 なんだか、とんでもないことを聞いちゃった気がする。
 もちろん嬉しい。楊ぜん本人は全然わかってないようだが、これはかなり熱烈な愛の告白とか言うやつではなかろうか。
 だけれど、太公望は喜んでばかりもいられないのである。
「師叔。僕のお願い、聞いていただけますか」
 上目遣いにこんなこと言われちゃったら、思わず頷いてしまいたくなるのが人情と言うものだ。
 でも、楊ぜんは誤解している。
 そういう意図で太公望が目の前に現れたとしたら、玉鼎真人はまず喜ばないだろう。だいたい、大事な娘に彼氏ができたと聞いて喜ぶ父親なんかいないのである。その上楊ぜんは男なのだ一応。手塩にかけた一人息子の前に男が出てきて恋人だなんて名乗ったら……。どう考えても太公望はみじん切りである。どうしてそんなこともわからないのだろう。
 この一種想像を絶する無邪気さは犯罪だと思う。
「のぉ、楊ぜん。しかし玉鼎はわしなんかが言っても喜ばぬと思うぞ。日曜日は玉鼎と二人で温泉かなんかにでも行って、のんびりしてきたほうが良いのではないかのぉ」
 仕方なく、太公望はできるだけ穏便に楊ぜんのお願いを断ろうとする。が、楊ぜんはこともなげに、こんなことを言っちゃったりするのである。
「でも師匠、喜んでましたよ」
「は?」
 太公望はちょっと固まる。
「僕が、大切な人ができたから一番に師匠のところに連れて行きますって言ったら、師匠、そうか、そうかって喜んでました」
 つまり楊ぜんは一番問題となる部分をまったく無視して玉鼎真人に伝えたらしい。
「だから師叔。大丈夫ですよ」
 太公望の苦悩をよそに楊ぜんは天使みたいににっこりと無邪気に微笑んだ。

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