ジューンブライド04
師の部屋のドアの前で楊ぜんは立ちすくんでいる。なんといって入ったらいいのか、とっさにわからなかった。なんだか妙に気恥ずかしい感じがした。
ちょっと違うのだけれど、小さい頃師匠にしかられて、謝りたくて、でも、なんだか素直に謝れなくて、結局師匠の部屋の前にずぅっと突っ立ってたことがある。だいぶ状況が違うけれど、今の状況はそれにちょっと似ている。あの時は師匠がどういうわけかちゃんとそこに楊ぜんがいることに気が付いていて、そして、ドアを開けて部屋の中に入れてくれたのだった。
その頃には心細くてしょうがなくなっている楊ぜんは、師匠に抱きついて。それで楊ぜんは素直に謝ることができる。師匠、ごめんなさい。師匠はぎゅぅっと楊ぜんを抱きしめてくれた。
「楊ぜん。そこにいるのか」
あの頃と同じ、変わらない師の声。楊ぜんはそれではっと我に帰った。
「師匠」
声が震える。あの頃みたいに。だけれど楊ぜんは、あの頃みたいに謝りにきたのではなくて。
「入りなさい、楊ぜん」
楊ぜんはドアノブに手をかけて、それからくるっとそれをひねった。
見慣れた家具が見慣れた位置で並んでいる。
テーブルの上にはグラス。琥珀色の液体。飲んでたのだろうか、師匠。普段あんまり、お酒飲む人じゃないのに。
空いてる椅子に楊ぜんは腰掛ける。心持、かしこまって。
「お前も飲むか、楊ぜん」
「僕は飲みませんよ。飲むなっていったの師匠じゃないですか」
「そうだったかな」
「そうですよ」
「こういうときは付き合うものだろう。一杯だけ、持ってればいいから」
手渡されたグラスを楊ぜんはもてあそぶ。ゆれる、琥珀の水。
「師匠」
なんていっていいのかわからずに楊ぜんは口を開く。
「ごめん、ね」
出てきたのはあの頃と同じ言葉で。
「お前が謝ること、ないだろう」
そうなんだけれど、でも。
「好きなのか……その。太公望が」
こくん。楊ぜんは頷く。なんだかその様子は、ひどく、彼らしくなく見える。自信過剰で、自意識過剰な彼らしくなく。
「でも。師匠が」
楊ぜんは言いよどむ。
「私に反対されて、それであきらめるくらいの想いならば、やめなさい」
楊ぜんはうつむく。
それから、顔を上げた。
「師叔が好きです。でも師匠も好きなんです」
玉鼎真人は少し戸惑う。
「楊ぜん?」
「違うんです。いえ、あの。どっちも好きなんですけど、その『好き』は違うんです。でも二人とも大切なんです。僕には選べないんです」
自分が何を言ってるのか楊ぜんはよくわからない。よくわからないから、頭の中で思いついたことをそのまま口に出す。だからしどろもどろで、でも一生懸命で。なぜかたまらなく泣きたくなった。一体いつからこんなに話すのが下手になってしまったのだろう。
「師匠に反対されて、それで師叔をあきらめるんじゃないんです。あきらめるのは嫌なんです。あきらめないんです。でも、師匠に反対されるのは嫌なんです。絶対、それだけは嫌なんです」
玉鼎真人はくすっと笑って、昔していたように弟子の頭を撫でた。昔、楊ぜんがぐずっているときにしてやったように。もっとも、今はあの頃よりずいぶんと高い位置に頭が着てしまったのだけれど。
「我侭だな」
「でも嫌なんです」
ぎゅうっ。楊ぜんは玉鼎真人に抱きつく。昔みたいに。
子供の頃はよくこうしていたのだ。楊ぜんは人見知りするぶん、師匠にべったりな子だったから。でもさすがに大きくなってからはそんなこともなくなって。そう、はじめはずいぶんとそれが不満だったのだけれど、いつのまにかそれはあたりまえのことになってしまった。師匠は遠くなってしまった。
だあいすきな師匠のにおいに包まれて、楊ぜんはほんの少し泣いた。泣き虫だった頃の小さい小さい楊ぜんに戻って。師と弟子のわずかばかりの蜜月。
「そんなのでは太公望もあきれるだろうに」
くすっ。玉鼎真人は笑う。
それとも太公望の前でもこうなのだろうか。ふと浮かんだ考えを慌てて振り落とす。なんだか胃が痛くなってきたからだ。
「師叔はあきれたりしませんよ」
ぐいっ。目をぬぐって楊ぜんはいう。ちょっとすねたような口調で。
「太公望は人間だよ。それでもいいのか」
おかしな質問だと思う。たいていは人間が妖怪を厭うのだ。それなのに。でもやはり玉鼎真人は妖怪が人間に劣るとも思いたくはない。
「師叔は妖怪の僕でも人間だって言いました。なら、それは愚問ですよ師匠」
楊ぜんはナマイキにもそういって笑った。
「男同士というのは、いろいろと偏見があるだろう」
「師匠に初孫をお見せできないのは残念ですね」
ぎりっ。ここで玉鼎真人の持っているグラスに一本ヒビが入ったりしたのだが、あいにく楊ぜんは気づかなかった。
「ああ。でも僕が女性に変化すればできるのかなぁ」
「楊ぜん。師匠はまだ孫は当分いいよ」
仕方なく玉鼎真人は腕をわなわな震わせながらそういった。
「でも、師叔は子供好きなんですよ」
楊ぜんが無邪気ににっこり微笑んだとき、とうとう耐えられなくなったグラスは音を立てて粉々になった。
「うわっ。師匠、血が出てます。大丈夫ですか!」
楊ぜんは慌てて傷口を確かめる。
「ああ、大丈夫だ。酒だから消毒になる」
玉鼎真人は半分封神されたような顔でそういった。
「駄目ですよ。師匠。ガラスは危ないんです。ほら。傷口洗うんだから立ってくださいよ」
ふらふらしてる玉鼎真人を楊ぜんは無理やり洗面所まで引っ張っていく。
子供は……と、うわごとのように玉鼎真人は呟いていたのだが、楊ぜんにはどうやら届かなかったようだ。
十分後綺麗に右手に包帯をした玉鼎真人が楊ぜんに付き添われて帰ってくる。子供の頃みたいいに二人手をつないで。
「師匠。もうお酒は駄目ですよ。今日は寝てください」
どうも楊ぜんはさっきのあれは急性アルコール中毒のためだと思ったらしい。玉鼎真人も精神的に封神されてしまったらしく逆らうだけの気力はないようだ。
「楊ぜん。駄目だ。まだお前たちには早い」
楊ぜんに寝かしつけられながらも玉鼎真人はまだこだわっている。齢200歳の妖怪さんと70を越したお爺さんに、早いも何もないだろうが。
「ごめんね、師匠。でも、師叔が好きなんです」
「楊ぜん?」
「師匠がいいと思える人を、好きにならなくって、ごめんなさい」
ああ、そんなのは全然楊ぜんのせいではないのに……
薄れ行く意識の中で玉鼎真人はそんなことをぼんやりと思った。
☆
翌日。朝。楊ぜんが目覚めたときに玉鼎真人はもう部屋にはいなかった。
昨日の夜。結局楊ぜんは、玉鼎真人が手を離してくれないものだから一緒にあの部屋で寝てしまったのだった。いくら師弟とはいえ太公望がきいたらちょっと気にするかもしれない。
テーブルの上には書置きが一つ。
――太公望をつれて修行場まで来るように。
☆
さて、所変わって太公望である。彼は小さな書き物机に座って、せっせとなにやら書きものをしていたりする。寝不足なのか、はたまた徹夜でもしたのか目が血走っちゃってるのが結構怖い。
彼は久々に、普段くだらないことにばかり使ってる高性能な頭脳をフルに活用することにしたらしい。
筆を置いて、一つため息をつく。完璧である。
「これで玉鼎も納得せざるを得まい」
紙には相関図みたいなものが山のように書いてあったりする。いろいろシミュレーションなどしてみたのだ。
「しかしこれを捨ててしまうのももったいないのぉ。本にするかのぉ。ベストセラーだのぉ」
にやけている。
と、
とんとん。
ノックが聞こえた。
「楊ぜんか?どうしたのだ?」
そういえば、おはようのキスがまだだったのぉ、と太公望はのんきなことを考える。ドアが開いたとたんに入ってきた楊ぜんを捕まえて口付けた。
「あ……んッ。師叔。違いますよ」
「なぁんだ。キスではないのか」
「そうじゃなくて、師叔これ」
楊ぜんは玉鼎真人の書置きを太公望に見せる。
「修行場って、まさか。決闘でもするきか」
太公望はちょっと青くなる。
「いえ、師匠はたいてい考え事があるときはそこにいますから」
「そうか……」
「師叔。大丈夫でしょうか」
太公望は伸び上がって何とか楊ぜんのひたいに口付けた。
「わしに任せておけば大丈夫だ。行こう。楊ぜん」
next.
novel.
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