並木道



 屋敷の出窓からは、表へ続く銀杏並木が見える。銀杏の葉はだいぶ落ちてしまっていたけれど、使用人がいつも掃除をしているため並木道は綺麗なものだった。
 楊ぜんは窓のそばによるとぐいっと力をこめて、窓を開け放つ。とたん、冷たい刃物のような風が楊ぜんの頬を撫でる。
「あの人。また来てる」
 せっかく暖まってきた部屋がまた冷たくなってしまうのもかまわずに楊ぜんは羽織っていた白いショールをぎゅっと握り締めてつぶやいた。
 もう随分、寒くなってきたと言うのに。

 

 婚約者。いいなずけ。
 そんなものがいるとは知っていたけれど、楊ぜんはその男にまったく会う気がなかったのだ。どんなにそれが気に入らない相手でも結婚させられてしまうならば、そんなものぎりぎりまで知りたくなかったから。だから楊ぜんは誰にもそんなことしゃべらなかったし、もっとハッキリ言ってしまえば本人だってすっかり忘れていたのである。
 それなのに。つい先日、背の低い子供みたいな婚約者様は楊ぜんの通うお稽古事の教室までのこのことやってきたのだ。おかげで楊ぜんは随分と恥をかかされた。菫色の着物姿の楊ぜんに「ほぉおぬしは三味線をやるのか」と莫迦なことを言った。三味線じゃなくて琴なのである。
「ちと大きすぎるが可愛いから良い」
 そんなことをしゃあしゃあと言ってのけた婚約者に楊ぜんは殺意すら抱いたものだ。だから楊ぜんもきっぱりと言い返したのだ。
「たとえ父が決めた人であろうと、あなたみたいな失礼な人と結婚などいたしません」
 そしてほんの少し大好きな父を恨みたくなった。何故、人が生まれる前から勝手に婚約者など決めてしまうのだ、と。
 もともと目の前にいる婚約者の父親と楊ぜんの父親は幼馴染であり私塾でも一緒だった親友なのだそうだ。しかし楊ぜんの父親はその後英国へ留学している。そのときに、帰ってきてもまた親交が続くように子供が男の子と女の子だったら結婚させてしまおうと、とんでもない約束をしたというのである。
 楊ぜんの言葉に婚約者はひどく困ったような情けなさそうな顔をした。
「やはり小さい男は駄目かのぉ。楊ぜんも英国で暮らしたことがあるのだろう。あちらの男は体格もいいと言うし。それに楊ぜんも背が高いしのぉ」
 確かに楊ぜんは英国で生まれたが暮らしたのは5歳の春までである。背の高い大人がいたことは覚えているが、子供から見たら15,6の少年でさえ背が高く見えるものだろう。
 それに言っては悪いが婚約者は日本人の中でもかなり背が低い。
 楊ぜんはそこで思わず笑い出しそうになり、それを何とかごまかすためにあえて高慢に言い放った。
「まず、名を名乗ってはどうですか?名乗りもしないでぺらぺらとまくし立てるなんて随分と失礼です」
「わしは太公望というのだが。聞いておらぬか?」
「興味ありませんから」
 太公望はこれ以上ないくらいしゅんとした。楊ぜんが思わず可哀想になってしまうくらいに。
「わしは楊ぜんのことを知っておるよ。女学校一の秀才だったのだろう。しかし師範学校には通わずに家庭教師をつけておるのだろう。三味線のほかに踊りとお茶とお花と、書もやっておるときく。すばらしい才能でその上美人だと皆誉めておる」
 だから、三味線じゃなくてお琴なのだ。
「調べたのですか」
「おぬしはわしの存在は知っておったのだろう。調べなかったのか?」
「ですから、興味がありませんでしたから」
「女子とは不思議なものだのぉ。結婚する相手に興味がなかったのか」
「あなたみたいな人だと嫌だから調べなかったんです」
 またもや、太公望はしゅんとした。
「しかし、おぬしはわしのこと何も知らぬのであろう。ならば気の変わる余地はあるの。わしはおぬしが好きだよ」
 いきなりなんてことを言うのだと、楊ぜんはまじまじと太公望を見る。初対面の異性に好きだなんてよく言えたものだ。
「おお。やっとこちらを向いてくれた。不思議な色の目をしておる。笑ってくれるとなお嬉しいのだが」
 目の前の男は子供みたいに喜んだ。いや、実際子供みたいな顔をしているのだ。父の話では楊ぜんより一つ上だというが、その話を知らなければ随分とませた子供だと思ったことだろう。
「あなたは僕のこと何も知らないじゃないですか。知っているのは世間のうわさだけでしょう。僕がものすごく性格悪かったりしたらどうするのです」
「それは、これから知っておけばよい。明日も明後日もその次もおぬしに会えば、それがわかってくるし。おぬしだってわしのことがわかるであろう?」
「僕に明日も明後日もその次もあなたに会えとおっしゃるのですか?」
 あきれて楊ぜんはそういった。ずうずうしいことこの上ない。
「おぬし日に一度は何か稽古事をしているのであろう。わしが送り迎えをしてやろう」
 これには楊ぜんも驚いた。
「崑崙の御曹司が、使用人みたいなことをやるとおっしゃるのですか?」
 思わず声がひっくり返って、楊ぜんは慌てて口を抑えた。ちなみに崑崙は呉服商であり、最近では洋服も扱っていると聞く。
「うぬ。それも良いのぉ。一日中おぬしのお世話をできるとあれば幸せだ」
「冗談じゃありません。御免被ります。あなたには男としてのプライドがないのですか」
 ほんの少し、楊ぜんは声を荒げた。それから今のは随分とはしたなかったと気がついて口元を抑える。
「楊ぜん。それは違うよ。使用人だって同じ人間だし、仕事に尊卑はない。着物を売るのもおぬしの靴を磨くのも同じ仕事だ」
 太公望は静かにそういった。
 楊ぜんはきょとんとして太公望を見る。
「なあんてのぉ。これはただの受け売りだ。おぬしの父の言葉だそうだ。しかしそうであろう。本来仕事とはそういうものなのだ」
「……。そう、ですね」
 ほんの少し楊ぜんは微笑んだ。
「おお、やっと笑ってくれたのぉ。やはり女子は笑っているのが一番良い」
 太公望はそういって、楊ぜんの首に手を回し、びくりとした楊ぜんの花びらのような唇にそっと口付けた。
 とたん。楊ぜんは固まる。ついで、そっと口元に手をやり、信じられないと言った目で太公望を見つめた。それから、一歩後ろに下がる。
「あ、あなた。不良なの……」
 驚いた目が真ん丸く見開かれる。そうなると楊ぜんは、あどけない子供のように可愛らしく見える。
「かものぉ。送っていこうか、楊ぜん」
「結構です!」
 楊ぜんはそう叫ぶと、らしくなくうろたえて逃げるように走りだした。着物のすそがはだけるのもかまわなかった。道行く人が驚いたような顔で楊ぜんを見つめる。
 冬の風は冷たく、切るようだけれど、顔の熱はなかなかおさまらない。唇にはまだやわらかい感覚が残っており、それでいっそう楊ぜんはパニックになっていた。

 白い館が見えて楊ぜんは幾分足を緩める。父が庭で薔薇の木を手入れしていた。その姿を見たらなぜか涙がこぼれてきた。
「お父様!」
 走りよってぎゅっと父に抱きついた。
「楊ぜん。どうした?」
 楊ぜんは何も言えずにぎゅうっと父の袖を握り締めた。やわらかい布の感触にようやく落ち着いてきた楊ぜんは、そっと袖を離すと、照れたようにほんの少し笑った。
「何でもありません。申し訳ありませんでした、お父様」
「楊ぜん。なにかあったのか?」
「婚約者だと言う方に会いました」
「そうか。どうだった」
 楊ぜんの父、玉鼎真人は穏やかに微笑んだまま軽く肩を震わせている娘を見下ろした。楊ぜんはきっと父親を見上げる。
「楊ぜんはずっとお父様の下におります。絶対に結婚などいたしません」
 玉鼎真人は困ったように微笑んだ。
「おまえのことだから、楊ぜんの好きにするといい」
 楊ぜんは軽く唇をかみ締めると小さくはい、と言った。
 自分の部屋に行くのも駆け足だった。普段の楊ぜんには全くないはしたなさで、すれ違った女中はぽかんと口をあけ、お嬢様何かあったのかしらとつぶやいた。


 
 走り去っていく楊ぜんの後姿を玉鼎真人は面白そうなまなざしでじっと見つめている。
「困ったな。顔ばかりでなく性格まで母親そっくりになってきた」
 楊ぜんが小さいころになくなった母親は若いころは――といってもなくなった時分ですら随分と若かったのだが――町一番の器量良しと評判だった。それと同時に性格に難ありと言ううわさも広まってはいたのだが。それはそれとして、玉鼎真人は親友とその娘を争う羽目になったのだった。今、楊ぜんがいると言うことは当然玉鼎真人がその娘を射止めたのである。
 それっきり、親友とは音沙汰がなかったし、だから例の子供同士を結婚させようと言う約束も反故になったと思っていたが。
「今度はその息子と楊ぜんか」
 男親とは駄目なもので近頃めっきり楊ぜんを手放すのが惜しくなってきてしまった。第一楊ぜんはまだ若い。周りからは引く手あまただが、本人はからっきし色恋沙汰には興味がないようだ。もちろん、好きあっている二人を引き離すようなことをするつもりはないが、何より楊ぜんがあれでは……。
 無論、勝負とあらば負けるつもりはない。

 

 さて、そして話は冒頭に戻る。
 結局、楊ぜんは明日も明後日もその次もずっと稽古事を休んで部屋の中にうずくまっているのだった。認めたくはないけれど、太公望から逃げているのである。知らない男から言い寄られたことはあるし、その男が屋敷の前をうろついているようなこともあるにはあったけれど、楊ぜんはそれを全く無視してしまえていたハズだった。それが今度はどうにも上手くいかない。
 太公望の姿を見つけると、とたんにあの接吻の感触がよみがえりつい唇に手を触れて確かめてしまう。顔が勝手に熱くなってくる。脈が勝手に速くなり、呼吸困難のような、めまいにも似た感覚が襲ってくる。
 楊ぜんはこめかみを抑えてうずくまり、あなたなんか大っ嫌いとつぶやいた。
 絶対に外に出て行ったりしないんだから、さっさと帰って欲しい。もう二度と来ないで欲しい。そのくせ、毎朝窓を開けて太公望の姿を確認するのが楊ぜんの日課になっていた。

next.

novel.