並木道
〜2〜
朝。目が覚めると、そこは一面に薔薇の花が咲き乱れていた。
楊ぜんは驚いてぱちぱちと瞬きをする。朝は苦手なのだけれど、この日ばかりは眠気も一変に吹き飛んでしまった。呼吸をすると肺の中にまで薔薇の香りが染み込んでくるような気がした。
一面の深紅の薔薇畑。
「どうなってるの」
そっとベッドから身を起こす。素足に板張りの床はひどく冷たい。
足元には、鉢植えの薔薇。枕もとには、薔薇のブーケ。綺麗に刺がとってある。
「こんなことする人って……」
自然と頭の中に、子供みたいな笑顔が浮かび上がる。それと同時に、言いようのない熱さが体の中に燈った。自然と唇をなぞりそうになる指を意志の力で無理やり抑えて。ぎゅうっと自分自身を抱きしめた。
心臓の音がやけに耳元で聞こえた。
部屋一面の薔薇の植木鉢を慎重によけながら窓辺に向かう。薄いレースのカーテンを開けて。ついでに窓を勢いよく開け放つ。
そこに太公望がいたらどうしようとかそういうことを考えていたのではなくて、体が自然に窓のところへ向かってしまったのだ。
だけれど。
その日にかぎって、太公望は銀杏並木のところにはいなかった。いつもたいていそのあたりにいるのだけれど。
楊ぜんはきょとんとして、それから冷やりとした寒気に身を振るわせる。いまさらながら自分が薄い寝巻き一枚しか着ていないことに気が付いた。慌てて楊ぜんは窓を閉め、カーテンを引く。もしもそこに太公望がいたら、とんだ醜態を晒してしまうところだった。間違っても淑女のやることではない。
何をやっているのだろう。一つため息をつく。こんなこと間違ったって今までの自分はしなかったはずなのに。
だけれど。いなくて良かったと思う反面、ひどく淋しかった。いなくなって欲しいと思っていたはずなのに、そこに太公望がいないと言うだけで体の中に小さな穴があいてしまった気がした。それは小さいけれど、北風が吹き込んでくるのだ。
何故自分が太公望のためにこんなに落ち込んでいるのか、よくわからない。それが妙に腹立たしい。こんなのすごく理不尽だ。
のろのろと楊ぜんは着替えを済ませ、小さく一つくしゃみをした。薔薇の花が部屋を占領しているせいで、女中が暖炉に火を灯すことができなかったのだろう。部屋の中はとても寒かった。
階段を下りて一階へむかう。食堂にはすでに朝食が用意されている。父はもうテーブルについていた。おはようございますと楊ぜんが頭を下げると遅かったねと返事が返ってきた。
「申し訳ありません、お父様。あの、僕の部屋の薔薇は誰が?」
「さあ、知らないな。花屋が来て代金は払ってあると言われたから受け取っておいただけだ。おまえの部屋にあれを運んだのは鈴だよ。あとで礼を言っておきなさい。なかなか大変そうだった」
鈴というのがこの家の女中なのである。年は楊ぜんより三つくらい下だが、なかなかしっかりした娘で楊ぜんも気に入っている。
「あれを鈴一人が運んだのですか?」
「鈴が運ぶと言ったから。それとも花屋に運ばせたほうが良かったかな」
冗談じゃない。楊ぜんはその部屋で眠っていたのだから。
「迷惑なことをする人もいるものですね」
可愛げのない台詞が口をついて出た。
「そうかな。私はなかなか洒落ていると思ったが。それにおまえは誰がやったのかわかっているのだろう」
自然と頬が上気する。それを意識してしまったせいで楊ぜんは余計に真っ赤になった。自分の思い通りに制御できない体が恨めしい。
しろどもどろになった楊ぜんは結局、半分も朝食を残してしまった。これではまた鈴が心配するだろう。最近部屋に篭りっきりのお嬢様を忠実な女中はひどく心配している。これではどちらが年上かわかったものじゃなかった。
「楊ぜん。いいかげん外に出なさい。庭の薔薇も綺麗だよ」
部屋に戻ろうとした楊ぜんに玉鼎真人が声を掛けた。
「そんなに人を待たせたきりにするのは失礼だ」
とくん。心臓が大きくはねる。楊ぜんはぎゅうっと胸の上で手を握り締めた。父は何でもお見通しなのかもしれなかった。
久々に外に出ると、青空が広がっていた。
ずっと家の中にいたきりの楊ぜんには青空はひどく特別なものに見えた。冬の空は、ひどく乾燥してみずみずしい夏の空とは全然別のものに見える。それは水分がないだけによりいっそう、日の光を直接に受け取るのだ。だから冬の光は透き通っていて暖かい。冬の陽だまりが楊ぜんは好きだった。
それから枯草を背景に咲き誇る臙脂の薔薇の色が楊ぜんの身に付けているベルベットのドレスと同じ色合いなのを発見してほんの少し気分が良くなった。その薔薇は楊ぜんが生まれた年に植えられたもので、楊ぜんはこの薔薇と一緒に育ったようなものだ。
空を仰いで一つ深呼吸してみる。
冷たい、だけれど新鮮な空気が肺の中に広がった。
コートも着ないで出てきた楊ぜんには、冬の空気はいささか寒かったのだけれど、それでも久しぶりの外は気持ちがいい。
ふさいでいた心が少し楽になった気がする。
「おお。楊ぜん。やっと出てきてくれたか」
いきなり掛けられた声に楊ぜんはびくりとする。
「た、太公望様……」
振り返ればいつかの憎らしい顔が近くに合った。自然と顔が赤くなっていくのが恨めしい。まるで体全体が心臓になってしまった気がする。そんなこと絶対に悟られたくないのに。
「嫌われてしまったかと思ったわ。ごめん。楊ぜん」
太公望はそういって悪びれもせずにっこり笑った。いまさら何のことで謝っているのだろう、この人は。
「花は気に入ってくれたかのぉ」
文句の一つもいってやろうと思ったのに出てきた言葉は全く別の言葉だった。
「薔薇は、僕の花なんです」
何でそんなことを言ってしまったのかわからないが、いったん出てきてしまった台詞はもう取り消しようがない。
「そうか、では楊ぜんは薔薇の妖精か」
そんなことを言われて、さらに楊ぜんは赤くなった。変なことを言った自分の口が恨めしかった。
「のぉ、楊ぜん。少し歩かぬか。おぬしと話がしたかった」
とくん。理由もなく心臓が一回はねた。
そこで断るのは簡単だったはずだ。はっきりと断ってしまえば、今度からは太公望はもう現れないかもしれない。
だけれど。楊ぜんはこくりと頷いた。もう少しだけ、この太公望という男の子とを知ってみたい気がした。それは言い訳なのかもしれない。言い訳。でも。何に対する?
この、なんだかもやもやする変な気持ちは何だろう?こんな感覚、好きじゃない。全然好きじゃないのに。
話がしたいと言ったくせに太公望は黙っている。黙って歩くのも不自然な気がして、楊ぜんは仕方なく太公望に声をかけた。
「ずっと、毎朝いらしてくださいましたよね。僕は行かなかったのに。どうしてですか」
屋敷からつづく並木道を、二人並んで歩く。
「おぬしのそばにいたかったから、かのぉ。おぬし気づいておったのか?つれないのぉ」
「だって……。行ったらあなた調子に乗るでしょう」
「おぬし性格悪いと言われぬか」
「はじめに会ったときに言ったはずです。僕は性格悪いって」
そうだったかのぉ。と太公望は言った。
「あの。でも」
不意に嫌われたかもしれないと思って楊ぜんは慌てる。
「寒かったですか。外」
「寒かったのぉ」
「ごめんなさい」
しつけのよさを見せて楊ぜんは素直に謝る。
「おぬしおかしな奴よのぉ」
太公望は笑った。
「はじめてあった時は、あんなに元気だったのに、どうして今日はこんなにしおらしいのだ?」
それはあなたが変なことしたからじゃないか、と楊ぜんは思ったがさすがに口に出してはいえなかった。
「気分が優れないのです」
「それはいけないのぉ。おぬし外など歩いて大丈夫か?休むか?それとも、どこかに喫茶店でも……ってなにもないのぉ」
「ここはまだうちの敷地ですから」
あたふたと、どうやら本気で自分を心配しているらしい太公望がおかしくて楊ぜんはくすっと笑う。
「そ、それはすごいのぉ……」
太公望はため息をつく。
「うちのだだっ広いだけのボロ屋とは全然違う」
「太公望様のお屋敷は古いのですか?」
「慶安からあるからもぉボロボロだ」
「庭は?」
「鯉が泳いでおる。見にくるか?」
子供みたいに嬉しそうに太公望は言った。本当に子供みたいに笑う人だ。そういうところは、ひょっとしたら、そんなに嫌いじゃないかもしれない。
「よろしいのですか?」
「大して面白いものなど何もないが、古い皿だの壷だのごろごろしておる」
そうだ。と太公望は手をたたいた。
「おぬしに着物を作ってやろうと思っておったのだ。この間入った布がなかなか良いものでのぉ。服だって美人に着てもらえたほうが嬉しかろう?」
「そんな。太公望様」
「あれはきっとおぬしに似合うぞ。しかし、今日見たところでは、洋装も可愛いのぉ。どちらが良いかのぉ」
楊ぜんはほんわりと赤くなる。
「おぬしはどちらが良い?」
「駄目ですよ。いけません。そんなことおっしゃられては、お庭を見せてもらいにいけなくなってしまいます」
「しかし、わしの花嫁に何か作ってやりたい。ああ、勿論。花嫁衣裳はうちで作るゆえ」
楊ぜんは目をぱちぱちさせる。まだこの人は自分と結婚したいのだろうか。さっき性格が悪いと言ったくせに。自分がそのことに妙に喜んでいるような気がして、楊ぜんは自分で自分がわからなくなる。
それから、急に寒かったことに気がついてくしゅんとくしゃみをした。
「楊ぜん、大丈夫か。済まぬ。具合が悪いのにつき合わせてしまって。屋敷まで送ろう」
そういって太公望は自分が羽織っていた上着を脱ぐと背伸びして楊ぜんの肩にそれをかける。太公望に抱きかかえられるような体制になったほんの一瞬。呼吸のできないような息苦しさと、騒ぎ出す鼓動。きっと、胸の中で騒いでいる心臓の音が聞こえてしまったに違いない。恥ずかしさに眩暈を起こしそうだった。
それから太公望は本当に楊ぜんを屋敷までずっと送ってくれたのだけれど、のぼせ上がってしまった楊ぜんには、いまいち記憶がハッキリしない。
ただ気がついたら自分の部屋にいて、そしてすっかり返しそびれてしまった太公望の上着を何の気なしになぜていた。
ぎゅうっと抱きしめてみると暖かい匂いがした。
ほんの少し、冬の陽だまりの匂いに似ていると思った。
next.
novel.
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