並木道
〜3〜
「お嬢様。それはたぶん。恋ですわ」
鈴は手をぱちんと叩いてそういい、それから今の自分がはしたなかったときがついて、ちらりと舌を出した。もっとも、そちらのほうがずっとはしたない気がしたけれど、楊ぜんは鈴のそういうところも気に入っていたので特に何も言わなかった。それよりも、鈴の今の発言のほうがずっときにかかっていたせいもある。
「恋?嘘。それは違うよ、鈴。そんなんじゃない」
楊ぜんは軽く首を振る。
「まぁ。どうしてですの?その方のことを考えると、きゅうっと胸が痛くなるのでございましょう?顔が熱くなるのでございましょう?そういうのを普通、人は恋というのですわ」
楊ぜんはちょっとうつむいて、自分の心を検分してみる。太公望のことを考えると確かに自分がおかしくなるのは本当。顔が火照ってくるのも本当。でも。だけど。恋なんかじゃない。そんなんじゃないはず。
「紅の薔薇の君でございましょう?」
「な、何?紅のなんとかって」
「あら、お嬢様の意中の殿方はこの間薔薇をくだすった方ではございませんの?」
楊ぜんは太公望の子供みたいな顔を思い浮かべる。間違っても薔薇の君とか言う感じじゃない気がする。くすっと楊ぜんは笑った。
「まるで鈴が恋してるみたいだね」
鈴は怒ったように腰に手を当てる。
「お嬢様の将来の旦那様ですもの。鈴にとっても大切な方だからですわ」
「鈴。僕は結婚なんかしないよ」
「どうしてですの?好きなのでございましょう?」
「好きなんかじゃない」
「興味があるってことは好きだと言うことですわ」
楊ぜんは困ったように笑う。
「鈴は短絡的過ぎるよ」
「では、どうして後生大事に薔薇の君の外套をもってらっしゃるのです?」
「鈴。その薔薇の君って言うのやめてくれない?」
なんだか吹き出してしまいそうだ。
「太公望様はね。鈴が思ってるほど格好よくもなければ背も高くないんだよ」
「お嬢様は鈴の質問にちゃんとお答えになっておりません」
ぴしゃりと鈴は言った。お父様に身分の意識が少ないから、この屋敷ではどうも女中が一番えらいような気がすると、楊ぜんは考える。勿論、その状態は楊ぜんにとっても肩がこらなくて楽ではあるのだけれど、この場合はそうもいっていられない気がする。
「だって仕方ないじゃないか。返しそびれてしまったんだから」
仕方なく楊ぜんはつぶやくようにそれだけ言った。
「お嬢様」
くすくすと鈴は笑う。
「太公望様をお尋ねするのに素晴らしい口実ですわね」
そういって鈴は、楊ぜんが怒り出す前に部屋から出て行ってしまった。
「好きじゃないし、結婚なんかしない」
仕方なく誰もいなくなった部屋で楊ぜんは壁に向かってつぶやいた。
だって、考えるだけですら動機がして、眩暈がして、こんなに身体に悪い人なのにずっと一緒にいられるわけないじゃないか。
楊ぜんの思考回路は少し頓珍漢なほうにむかっているようである。
楊ぜんは鏡をもう一回覗き込むと、髪が乱れていないか、服がしわになっていないかチェックした。いでたちはペールブルーの落ち着いた洋装に白のショール。
そろそろ太公望の来るころなのである。鈴を部屋に呼んだのも、服装がおかしくはないか聞くためだったのだ。
普段化粧をしないから、たまに紅など引くと気になってしょうがない。自分の顔がひどく滑稽に思えてきてしまう。やっぱりふき取ってしまおうかと、散々悩んで、でもそのままでいる。別に太公望に会うからめかしこんでいるんじゃない。崑崙のお屋敷を見に行くから少しばかりなれない化粧をしてみただけだ。自分でもいいわけじみて聞こえる理屈を楊ぜんはさっきっから頭の中で反芻している。
実際のところ、色の白い楊ぜんには紅さを抑えた上品な色合いの紅はなかなか映えていたのだけれど、楊ぜんにはそれがどうしても、道化師の圧塗りのように見えてしょうがないのだった。
「お嬢様、お待ちかねの方がいらっしゃいましたわ」
軽いノックとともに軽やかな鈴の声が聞こえた。
「別に待ってなんか……」
楊ぜんはすねたようにつぶやいて、それからもう一回鏡を見つめる。
大丈夫。変じゃない、よね……?
「おじょうさまぁー」
鈴の呼び声が痺れを切らしたように大きく響いて、楊ぜんは慌てて部屋を出た。
部屋の前で鈴が不満そうな顔をしている。
「あれが本当にお嬢様の好い人ですの?」
楊ぜんはくすくす笑って答えずに、階段を下りていった。
なんだか、たまらなく上機嫌で。
「おはよう。楊ぜん」
「おはようございます。太公望様」
目が合って、お互いにほんの少し微笑む。
「綺麗だのぉ。今日も」
楊ぜんはほんの少し首を傾げ頬を染める。
「おかしくはないですか?」
「どうしておかしいのか?おぬしはいつだって綺麗ではないか」
どうやら太公望は楊ぜんの薄化粧に気がついたわけではなかったらしい。
「それはどうも」
そっけなくそういうと、太公望はあたふたと慌てだす。
「どうしたのだ?」
「どうもしませんよ」
「機嫌を直さぬか、美人が台無しだ」
「そんなの知りません」
「だって、おぬしいきなり機嫌が悪くなっておるではないか」
「僕は性格悪いですからね」
「何をすねておるのだ?」
「すねてません」
太公望はにっこりと微笑んだ。
「まぁ、良い。ただ、わしはおぬしが微笑んでいてくれるほうが嬉しいよ」
楊ぜんはふわっと赤くなる。そのせいで、今までのむしゃくしゃした思いが萎えていく。それが、どうもこの人の手に乗っているようで、ほんの少し悔しいのだけれど。でも。言われた言葉は素直に嬉しかった。
それから太公望はおどけてサーカスの道化師みたいに大げさにぺこりと頭を下げた。
「これからわしのお姫様をボロ屋に案内するとしよう」
くすくすと楊ぜんは笑い出す。
「そう、そうだ。その顔がよい。おぬしのその笑顔をいつも隣においておける男は幸せだのぉ」
「太公望様は本気でおっしゃってるんですか」
「勿論」
太公望は胸を張って答える。それからにんまりと笑って。
「無論。わしは世界一幸せな男になるつもりだがのぉ」
何故この男はこんなにも自信たっぷりに笑うのだろう。
「親の決めた許婚なんてばかばかしいと思いませんか?」
「思うよ」
あっけなく返された答えに楊ぜんはきょとんとする。それから勢い込んでたずねた。
「じゃ、どうして?どうして僕と結婚するのですか!」
太公望は驚いたように楊ぜんを見つめると、それから少しばかり笑って口を開いた。
「そんなの。好きだからに決まっておろう」
「まだ。たった三回しか会っていないのに……?」
「楊ぜん」
ほんの少し太公望がこちらに身を乗り出したので、楊ぜんは慌てて身を引く。つい、やわらかい唇の感触が頭の中によみがえってどぎまぎしてしまう。
「わしは、往生際が悪いし、臆病だからのぉ。これ、そんなに警戒するでない」
「だって」
「傷つくではないか。楊ぜんは、たった三回かも知れぬが、わしはもう随分前からおぬしを見ておったよ。気に入らぬ相手と結婚させられるのはごめんだからのぉ」
「そんな……そんなのずるいですよ。僕はあなたのこと何も知らないのに」
「これから知ればよかろう。これから好きになればよい」
太公望はそういうとにっこり笑った。
「ちと遠いが、辻馬車でも拾うか?」
「歩きます」
太公望と二人で閉鎖された空間にいたら、きっと首より上の血液がみんな沸騰してしまう。
「風邪を引くでないよ」
「平気ですよ」
ここで、はい。なんて可愛らしく頷けたら、いいのに。そんなことを考えながら、楊ぜんはそっと自分より少し前を歩く太公望の横顔を盗み見る。子供みたいな顔。だけど。
嫌いじゃない。
よぉくみれば綺麗な顔をしている。勿論、女っぽいと言う意味ではないのだけれど。
とくん。心臓が一つ大きく音を立てた。
「寒くなったら言うのだぞ、すぐに車を拾うから」
くるんと太公望が振り返ったせいで、見事に目が合ってしまった。
こくんと楊ぜんは頷く。
とくん。心臓が壊れてしまったみたいだ。
――お嬢様。それはたぶん。恋ですわ
そう?そうなの?
「太公望様」
「ん?」
とくん。
「僕のこと、好きですか」
とくん。
「好きだよ」
とくん。
僕も、あなたのこと。好き。みたい、です。
ねぇ、どうしよう。どうしたらいい?
「太公望様。どうしてくれるんですか?」
楊ぜんは泣き出しそうになりながら口を開く。
「は?」
「僕はずっとお父様の所にいるって誓ってるんですよ」
「楊ぜん?」
太公望は戸惑っている。
「あなたとは結婚できないのに」
「玉鼎はおぬしを嫁に出したくないのか?」
「僕が心情的に誰とも結婚できないと言っているんです」
太公望はきょとんとする。ついで一つため息をついた。
「女心は難しいのぉ」
それとも単なるファザコンか……?
「太公望様、何かおっしゃいました?」
「いや。何も。しかしおぬし、それならばわしのことが嫌いで嫁に来たくないと言っておるわけではないのだな」
「それは……」
楊ぜんは口篭もるがぽっと赤くなる頬が何よりの証拠。ならば、勝算はある。
「では、やはりおぬしはわしがもらう」
「た、太公望様!」
楊ぜんは慌てて叫んだ。
「どうしてですか。何故僕なのです!」
「だぁほ。色恋沙汰に理屈がある分けなかろう」
太公望は軽く微笑む。楊ぜんは怒ったような顔をしている。怒った顔も可愛いなどといったら、こやつどういう顔をするだろう。
「おぬしだって理屈もなく今にわしを好きになるから今に見ておれ」
楊ぜんはぱちぱちと瞬きをする。
「太公望様……。あなたって」
ぐっと一回にらみつけてみる。
「やっぱり不良なんですね。一体何人の女性にそのようなことおっしゃったのです?」
「おぬし、何を言うか」
「だって」
「ほぉ。まさか妬いておるのか。嬉しいのぉ〜」
太公望は本当に嬉しそうに笑う。
「莫迦」
からかわれるのも癪で楊ぜんは彼女らしくなく、手を上げて軽く太公望を叩こうとし、ついで北風に吹かれてくしゅんとくしゃみをした。
太公望はひらりと身をかわす。
「貴族のお嬢様が、とんだじゃじゃ馬だのぉ」
「ええ、ですから嫌いになっていただいてもかまいませんよ」
「まさか。そのほうがならしがいがあると言うものだ」
そういって太公望は、楊ぜんの右手を軽く抑えた。手のひらでそっと包み込む。ふわっと楊ぜんは赤くなる。
「それよりおぬし寒いのではないか?ほら、こんなに冷たい。寒くなったら言えと言ったであろう?」
「寒くなんか……」
太公望は優しく微笑む。
「車を拾ってやるから待っておれ」
何か言いかけた楊ぜんは、思い直してこくりと頷いた。
太公望につかまれたままの右手がじんじんと熱くなった。まるで燃えているみたいだった。
next.
novel.
|