並木道
〜4〜
ことことと車は、石を敷き詰めた道を走る。
ことことと心臓は、胸の奥ではねる。
車の中で楊ぜんはずっと黙ってうつむいていた。太公望は未だ楊ぜんの右手を握り締めており。そこから伝わってくる、暖かい体温で余計に楊ぜんは真っ赤になった。
「そこの……」
不意に太公望は声をかける。え、と楊ぜんは小さく聞き返した。
「そこの小道を右に曲がるとわしの家だ」
楊ぜんはきょとんとして太公望を見つめ、それからようやく自分が庭を見せてもらいに太公望の家に行くところだったのだと思い出した。隣に太公望がいるということで不覚にも楊ぜんは完全にあがってしまっていたのだ。
目的地に着いたはいいが、この太公望と二人っきりの空間が終わってしまうことを残念がっている自分がいる。きっと家に着いたら太公望はこの手を離してしまうだろう。
「どうした?楊ぜん。車に酔ってしまったか?」
元気のない楊ぜんの様子に気がつき、太公望はそっと控えめに楊ぜんの肩に手をかける。それだけで、どきんっ。と心臓が音を立てた。
「いいえ」
楊ぜんはやんわりと微笑む。そうか、といって太公望は楊ぜんの肩から手を離す。その、手が離れていく瞬間がひどく淋しかった。
触れてもらいたがってる。
はしたない。何を考えているの。
やがて車は小道を曲がり、古めかしい日本家屋の前に止まった。太公望は御者に礼をいい、お金を払う。そのせいで、太公望の手は楊ぜんの右手から離れてしまい、太公望の触れていた部分がかえって冷たく感じた。
「ほれ、家全体がほこりをかぶっておる」
太公望はそういって笑ったので、楊ぜんは改めて屋敷を見つめた。もっとも、道からは壁が邪魔をして重たそうな瓦屋根しか見えなかったのではあるが。太公望は門のすぐ横にある通用門をあけ、楊ぜんを中に導いた。
「池に鯉はおるが、この寒さでは凍っておるかもしれんのぉ」
太公望は軽口を叩く。楊ぜんはくすっと笑った。
庭には無造作に木が植えられている。楊ぜんの想像していた、寺のようにきちっと空間が配置された日本庭園の様子とはやや趣が異なっている。楊ぜんは何の木が植えられているのか確かめようとしたが、ほとんど葉の落ちてしまう冬のこと、椿と木犀くらいしか検討がつかなかった。玉鼎真人ならばわかるかもしれない。緑は多いが、うっそうとした藪のような様子はない。手入れが行き届いているのだろう。
「お庭のお手入れは誰がするんですか?」
「ん?ああ、植木屋が来るよ」
「これ何の木でしょう?」
「さぁ。子供のころに上って怒られた木だ」
太公望は庭木には興味がなかったらしい。
少し歩けば、太公望の言ったとおり池があったその向こうに母屋が見える。楊ぜんは池のふちまでいって中をのぞきこんでみた。大きな錦鯉が五六匹わらわらと寄ってきては大きな口を水面にぽっかりあけて餌をねだっている。
楊ぜんは何かやる物がないかとバックを探り結局何も見つからなくて、池に人差し指を突っ込んでみる。池の水はしんと冷たい。
「おぬし何をやっておるのだ?」
あきれた太公望の見ている前で鯉がぱくりと楊ぜんの指に食いついた。
楊ぜんはくすくす笑い出す。
「見て、大きい」
楊ぜんの指に食いついた鯉はそれが餌ではないことをしって、当てが外れたように楊ぜんの指を離す。
「ぬぅっ。飼主を差し置いて」
悔しそうな太公望の声に楊ぜんはまたくすくす笑った。
「ねぇ、太公望様。この子。名前は?」
「名前?鯉に名前などつけるのか?」
「駄目ですよ。生き物には名前をつけてあげなくちゃ」
「しかし、どれがどの鯉やらわからぬではないか」
「名前を付けないから、わからないんですよ」
楊ぜんはくすっと笑う。
「では、おぬしがつけると良い」
楊ぜんはきょとんとして太公望を振り返る。
「いいんですか。太公望様の鯉でしょう?」
「わしの物はいずれおぬしの物になるであろう」
楊ぜんは困ったような恥じらいと悲しみを同時に表情に乗せた。
「僕は……」
好きなのに素直になれない。
不意に怖いと感じる。
その話は聞きたくない。
「楊ぜん。ここは寒いよ。いいかげん中に入ろう」
太公望がそういって楊ぜんの肩にやんわりと手を置いた。その暖かさが洋服を通して楊ぜんの肌にじんわりと染み込んでいくかのように感じた。
「もう少しだけ」
「風邪を引かぬか?」
「大丈夫です」
太公望は困った顔をする。さわさわと冷たい風が楊ぜんの髪をいたずらにさらっていく。
「のぉ楊ぜん。どうしたらわしの嫁になってくれる?」
楊ぜんはじっと池の水面を見つめつづける。赤い錦鯉がねだるように水面に大きく口を開く。
「駄目。この池に飛び込んだって、駄目です」
「寒いのぉ。飛び込むのは」
太公望は水面をじっと見つめる。
「駄目だったら。本気で考え込まないでくださいよ」
「上野の不忍池ならどうだ?」
「莫迦」
楊ぜんはくすっと笑う。まったくこの人は……なんって、莫迦で、でも。
「そんなの冗談に決まってるでしょう。わかりました。太公望様」
楊ぜんは右手の小指を太公望のほうにつきだした。
太公望はわからずにきょとんとした顔をする。
「指きり。僕は結婚するとしたら太公望様以外の人とは結婚しません。これならいいでしょう?」
太公望はおもむろに楊ぜんの細く華奢な小指に自分の小さな指を絡ませる。
「絶対だぞ」
そして二人でくすくす笑った。
ゆびきりげんまん
うそついたら
はりせんぼん のーます
子供のおまじないを唱えて。
「太公望様。寒いです」
「なか、入ろうか」
そして、二人は連れ立って屋敷の中へと入っていった。
楊ぜんはきょろきょろと屋敷内を見回しながら歩く。鼈甲色の和箪笥に、透かし彫りの彫刻、何が描いてあるのかよくわからない掛け軸。着物でくればよかったかなとほんの少し後悔してみる。着物はお稽古のときに着るくらいなのだけれど。
屋敷は実際に相当広いようで、部屋ごとに趣向を凝らしてあるのが面白い。襖絵にはそれぞれ季節の花が描かれており、それが各部屋12集まって季節をあらわしているらしい。一つだけ襖絵がかかれておらず真っ白な部屋があり、楊ぜんは首を傾げたが、太公望に尋ねるとどうやら1月の雪景色をあらわしていたようだ。
「本当はのぉ」
太公望はにやりと笑った。
「わしが子供のころ悪戯書きをして台無しにして張り替えたのだ」
楊ぜんはきょとんとして、ため息をつく。
「もったいないことを」
「子供のしたことではないか。しかしあのときの母上の剣幕は恐ろしかったのぉ」
楊ぜんはくすくす笑う。
「本当は何が描いてあったのですか?」
「やはり雪景色だったが、京都御所だのぉ、たぶん。金箔が散らしてあって、ちょぉどこの辺が落書きがしやすいように真っ白で」
そういって太公望は真っ白な襖を指差す。
「だから落書きしたんですか?」
「うぬぅ……つまらぬから正月らしい絵を描いてやろうと思ったのだが、母上のお気に入りだったらしい。父上に一発殴られた。しかし母上の剣幕のほうが怖かったのぉ」
「見たかったなぁ」
「わしが書いてやろう」
太公望はにまにま笑う。
「また怒られますよ」
「母上も父上ももうおらぬ」
「では僕が怒って差し上げましょう。怖いですよ」
襖絵を眺めて延々しゃべっていると、女中が気を利かせて茶を運んできた。どうやら動き回る太公望と楊ぜんにお茶を出すタイミングをつかみ損ねていたらしい。
そこで二人はお茶をもらって飲むことにした。女中はきちっとお辞儀をして部屋を出て行く。
「そういえばお家の方はどこにいるのです?」
少々猫舌気味の楊ぜんは、熱いお茶を飲むことができず、仕方なく湯飲みをそっと両手で包んで手を温めた。
「見世物見物だそうだ。のんきなものよ」
「よろしかったのですか?お留守に僕がお訪ねしても」
「いや、うちのジジイは俗物だから気を利かせてくれたのだろう」
楊ぜんはぽっと真っ赤になる。
「のぉ、楊ぜん。これからもこうしてわしと会ってくれるか?」
「それは、その。あなたがよろしければ」
太公望は子供みたいににっこりと笑った。
「嬉しいのぉ」
楊ぜんはそんな太公望の様子が嬉しくて、ほわりと微笑んだ。
それから二人は他愛のない話に花を咲かせ、共通の話題を探り出そうとし、そしてどちらからともなく微笑んだ。太公望がつい楊ぜんの手を机越しにぎゅうっと握って、慌てて、済まぬと口の中でもごもご弁解し手を離したが、楊ぜんはそれがそんなに嫌ではなかった。むしろ、名残惜しい気がした。
「そうだ、そういえばおぬしに着物を仕立ててやろうと思って」
太公望はにこにこしながら言う。
「二三見繕っておいたのだが、やはりおぬしが選ぶのが一番良いと思ってのぉ」
「そんな、太公望様」
「気に入らなかったら店まで行っても良いぞ」
太公望は待っておれ、と言い残して部屋を出て行き、自ら反物を抱えて戻ってきた。どうやって断ろうかとあれこれ苦心していた楊ぜんだったが反物を一つ手にとり、思わず、わぁとため息をついた。
萌黄の布地に菊の刺繍。細かく所々に金糸が使われており、綺麗だった。
「おぬしは色が白いから薄い色でもよく映えるであろう」
もう一つは、大きな紫の矢絣。
「こういうのも奇抜でよい」
鏡を引っ張り出して、あれやこれやと騒いでいるうちに結局楊ぜんは、薄紅の桜模様の着物を仕立ててもらうことになった。少々、娘っぽすぎる嫌いはあるが、帯を渋い灰色でそろえると、それなりに落ち着いた物になりそうだ。
「うちの針子は腕が良いから、きっといいものになろう。出来上がったらわしが届けるよ」
「仕事に貴賎はないからですか?」
くすっと楊ぜんは笑う。
「いや、この着物を着たおぬしをわしが一番に見るためだ」
今度は二人そろってくすくす笑いあう。
そういえばもう夕暮れに近い。
御爺様に挨拶していくという楊ぜんを、あの不良老人は暮れ六つにでもならねば帰ってこぬと言い含め、太公望は楊ぜんを家まで送って行った。
それから二人、たびたび逢っては逢瀬を重ねることになる。雪の舞い散る一月の終わりのこと。
next.
novel.
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