蜥蜴



第二章 名探偵の花



 楊ぜんを部屋まで送って、それから太公望はいったんロビーに戻ると事務所に電話をかけた。なんだかとんでもないことになってしまったようだと考えながら。
 どうも楊ぜんは見た目と中身が違うタイプの人間らしい。おとなしそうな顔をしておきながら、やることといったら強引この上ない。しかし、それが少しも太公望は嫌ではなかった。かえってそのギャップが可愛らしい。痘痕もえくぼと言う奴だろうか。
「それで、僕に着替えをもってこいって。そういうんだ」
 受話器の向こうの普賢真人の声は不満そうだ。
「仕方なかろう」
「しかも、もうタダ働きしないとか僕と武吉君に散々わめき散らしたくせに、タダで依頼受けちゃったんだ」
「だって、相手は命を狙われているようなものだぞ。蜥蜴にさらわれて帰ってきたものはおらぬ。いつかの女優だってそれっきりではないか」
 つい二週間前にも若い女優が蜥蜴にさらわれているのである。
「だって望ちゃん……。楊ぜんと同じ部屋に泊まるんでしょ」
 普賢真人の声が心なしか震えているような気がして、太公望はぎくりとする。ずっと今まで、あまりにも近くにいたせいで気がつかなかったが。しかし普賢真人とはずっと一緒に育ってきたわけで……。
 これは、もしや。もしや。

 禁断の恋という奴か。

「ふ、普賢……済まぬ。おぬしのことは好きだ。だが。おぬしの気持ちにわしはどうしても答えてはやれぬ……」
 太公望は慌てだす。
「そんな……望ちゃん。せめて一回だけでも」
「駄目だ普賢。それではおぬしが余計に哀しい思いをする」
 済まぬわしはノーマルなのだ。太公望はぐっと手を握り締めた。
「何それ。そんなの僕全然わけわかんないよ」
「普賢わかってくれ」
 わしはどうせなら楊ぜんと楽しい一夜を……。
「わかんないっ!望ちゃん一人ホテルに泊まるなんてずるいよ!僕だって高級ホテル泊まってみたいのにっ!」
「は?」
 なんなのだそれは?
「一回くらい事務所の経費で落としてくれたっていいじゃない。ケチっ!」
「なんだ。おぬしわしに惚れておったのではなかったのか」
「は?気持ち悪いこといわないでよ」
 気持ち悪いって。太公望はこの期に及んでちょっとだけ傷ついた。
 どうやら普賢真人は太公望一人が高級ホテルに泊まるのにすねただけだったらしい。ほっと胸をなでおろしつつ、あんな勘違いをするなんてどーかしておるのではないか、わし。と太公望はちょっと不安になった。
「もぉよい。とにかくおぬしは荷物を届けてくれ。泊まりたいんならどこに泊まってもかまわぬ」
 そういったとたん。嬉しそうな普賢真人の声が受話器から響いてくる。
「ほんと?じゃ、スイートルーム泊まってもいい?今からすぐ行くから待ってて!」
 そして太公望が真っ青になる前に無情にもガチャンと電話は切れた。
 おそらく、普賢真人はやるといったら本当にやるだろう。今まで何度その巻き添えでひどい目に合わされてきたことか……。ああ。

 そのとき。

 ふわりとやわらかい腕が回された。甘い匂いがして酩酊を誘う。太公望は一つ頭を振ってそれに耐えた。

「どうしたのですか?」
 振り向けば微笑んでいる楊ぜん。細い白樺の小枝のような腕が首に絡んで、太公望は楊ぜんの腕から抜け出すと、ほんの少し彼女をにらんだ。
「部屋から出るなと言ったであろう」
 まったく。どいつもこいつも。
「蜥蜴は部屋の鍵をはずすのなんてたやすいのでしょう?ならばあなたのそばにいるのが一番安全なのではありませんか?」
 悪びれもせず楊ぜんは言う。
「ホテルに頼んで鍵は二重にしてもらう」
「あと三日ですね」
 楽しそうに楊ぜんは笑う。
「僕がさらわれるまであと三日です」
「そのようなこというでない。そのようなことわしがさせぬ」
 太公望は小声でそういった。
 傍から見るとそれは、場所もわきまえずに恋人同士がじゃれているようにでも見えたのかもしれない。
 こほん。と軽い咳払いが聞こえた。自分の存在を主張するようなわざとらしい。
 ぱっと離れようとした太公望の服の袖を楊ぜんが軽くつかむ。
「あら。ごめんなさい。おじゃまだったかしらん?」
 髪の長い人形のような美女が立っていた。ひどく奇抜で派手な身なりをしている。勝気そうな美人だ。だいたいにおいて美人はそうだが、年齢は良くわからない。まだ十代のようにも、もっとずっと年上のようにも見える。
「あなた、金鰲の楊ぜんちゃんよねん。わらわ、ファンなのん。握手してくださるん?」
 楊ぜんは驚いたような顔をしてこくんと頷いた。美女は軽く楊ぜんの手を握る。つめの長い綺麗な手だった。
「ありがとぉん。わらわ妲己というの。おみしりおきをん」
 そして、ひらひらと手を振って去っていった。
「楊ぜん、今のは知り合いか?」
「いいえ」
「わざとらしい。気になるのぉ」
 楊ぜんはほんの少し剣呑な目で太公望を見つめる。
「探偵さんは、ああいう胸のおっきなちゃらちゃらした女の方がお好きなのですね」
「おぬし何を言っておるのだ?」
「別に」
 楊ぜんは膨れて太公望の腕をつかむ。
「お部屋に戻ります」
 くるんと楊ぜんは身を翻す。
「待て。部屋まで送ろう」
「結構です!」
 楊ぜんはぱたぱたと走り出そうとする。仕方なく太公望は楊ぜんの腕をつかんだ。
「離して、何するんですか!」
「だぁほ!依頼されたからにはおぬしを守る」
「だって僕依頼料払ってないです!」
「そのことなのだがのぉ」
 太公望は決まり悪そうに一つ咳払いをした。
「このホテルのスイートルーム一室でどうだ?」
 楊ぜんはぱちぱちと瞬きをした。
「実は、わしはおぬしの父親に頼まれたのではなくて」
「じゃあ、どうして……?」
「サーカスで。おぬし、綱渡りをやったであろう」
「見てたんですか」
「うぬ。高い綱の上で。たった一人で、危なっかしくて」
 楊ぜんはくすっと笑う。わざとバランスを崩したふりをしただけだ。綱渡りなんて三歳のころから仕込まれている。目隠しをしてだってできるはずだ。
「一人ぼっちで」
 とくん。
 楊ぜんは太公望の腕を振り払おうとしたが、太公望の力は見かけよりもずっと強かった。
「守ってやりたいと思ったのだ」
 楊ぜんはいったんうつむく。それから虚勢を張るように勢い良く顔を上げた。
「サーカスってどきどきするでしょう?」
「ん?」
「そのどきどきを人間の頭って恋と勘違いするんですよ。莫迦なことは言わないで」
 太公望はぐっと言葉に詰まった。
 目の前にいる生き物のことが、よくわからなくなっていた。
 妙に人懐っこかったり、太公望のつまらない言葉尻を捕らえて嫉妬して見せたり。そうかと思うと絶対に入り込めないような一瞬がある。矛盾している。なんなのだろうこれは。
「勘違いだろうが、なんだろうが好きになってしまったものはしょうがなかろう。問題なのは経過じゃなくて、結果ではないのか」
 だから、気がついたら。とんでもない大告白をロビーの真中でやらかしてしまっていたわけだ。
 楊ぜんは真っ赤になったが、太公望のほうはもっと赤くなった。
 そしてその上。
 ぱちぱちぱち。と大仰な拍手の音が聞こえた。
「素晴らしいよ太公望君!まさに僕もそう思う。凍った姫君の心をとろけさせる一言だ。貴公子にふさわしい!」
 恥を上乗せさせるようなロビーに響き渡る大演説。
「公明様!」
 楊ぜんがいまいましそうにいきなり現れた男をにらみつけた。
 そういえばサーカスの最初のほうで薔薇の貴公子とか叫びながらなぜかゆりの花持って現れた変な輩がいたが、それが趙公明だったか。さっきはばれなくて良かったと太公望はしみじみため息をつく。
「これは姫君。まさか貴女がかの有名な太公望君と知り合いだったとは僕も知らなかったよ。どうして、親友たる僕におしえてくれなかったのかい?」
「公明様と親友になった覚えなんかないよ。先生は僕が依頼したの」
「団長に内緒で?」
「あの人に教える義理なんかない」
「そのうちばれるね」
「あの人に教える筋合いもない」
 趙公明は面白そうに笑って太公望に言った。
「どうだい、太公望君。複雑そうだろう、うちの内情」
「いずれゆっくりと聞かせてもらう」
 楊ぜんは一回けん制するように趙公明をにらむと太公望に向き直る。
「それは、僕が誘拐予告されていることとは何も関係ないじゃないですか!」
「楊ぜん。とにかくもういったん部屋に戻ろう」
 ステージなれしていない太公望は、こんなところで大演説に巻き込まれたらそれだけでもう神経が焼き切れてしまいそうだ。いや。ステージとは関係ないのかもしれないが。
 楊ぜんはこれ見よがしにぎゅうっと太公望の腕にすがりつく。太公望はそれだけで案山子にでもなってしまいそうだった。何しろ今現在ロビーで騒いでいる三人――正確には一人だけなのだが――はその場にいる全員の注目を集めている。まして楊ぜんはうわさの蜥蜴に狙われていると言う、美少女だし、太公望だって知名度がゼロと言うわけでもないのだ。注意深く新聞を読むものや、探偵小説が好きなものには知られていてもおかしくない。
 ついに蜥蜴と名探偵が対決するという構図に、誘拐を予告されているという少女と探偵のただならぬ関係が加わったら――実際にはそこまではいっていないが、いかんせんそう見えるではないか――これはもう、注目するなと言うほうが無理な話だろう。
 太公望は早々に逃げ出すことにした。スキャンダルなんて御免である。
「太公望君。うちの姫君に手を出すと後が怖いから覚悟しておいたほうがいいかもね」
 趙公明が妙に鋭い含みのある視線を投げかけてそういった。
 楊ぜんは硬い表情でそれを無視した。早く部屋に戻ろうと言うかのように太公望の腕を自分の胸に押し付けるようにして引っ張る。太公望はかわいそうに真っ赤になった。
 螺旋階段を駆け上がる。
「あやつ、おぬしに惚れておるのか?」
 しばらくしたところで太公望は楊ぜんにたずねる。
「知りませんよ。色恋沙汰なんて僕、大嫌いですから」
 楊ぜんはそっけなくそう答えた。
 依然太公望の腕を離さないままで。

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