蜥蜴



第三章 なみだ



 部屋の窓寄りにあるベッドの上で楊ぜんは本を読んでいた。太公望が近くにいることなんか全く無視してだらしなく寝そべりながら。
 かえって太公望のほうが目のやり場に困ってしまう。そんな太公望は、普賢真人が先ほど運んでくれた小さな荷物を片付け、ホテルから布団一式を借りたところだった。
 楊ぜんは挑発するようににっこりと微笑む。
「なんだ。一緒に寝てくれないの」
 太公望はその台詞を軽く無視する。
 それに楊ぜんはほんの少し腹を立てて、わざと明るい声で騒いだ。
「ねぇ探偵さん。ピストル持ってます?」
「だったらどうするのだ?」
「それ、あたったら死にます?」
「これは護身用」
 楊ぜんはつまらなそうに太公望を眺めた。それから視線を本に戻す。本には綺麗な布でカバーがかけてあって結局太公望には楊ぜんが何の本を読んでいるのかさっぱりわからなかった。
 しかし楊ぜんはあまり本には集中できないようで、急にばたんと立ち上がっる。
「先生。悪いんだけど」
「ん?」
「僕今思い出したんですけどね。人がいると休養できないんです。ノイローゼになってしまうんです。だからやっぱり出て行ってください」
 太公望はしばしぽかんとした。なんと言う気まぐれな……。いや、それ以前に本当に自分に及んでいる危険を察しているのだろうか。
「さらわれるよりは三日間ノイローゼになったほうがマシだと思うが。それにもう依頼は受けてしまったからのぉ」
 今ごろ普賢真人はホテルのスイートルームで悠悠自適に楽しんでいるはずだ。いまさら依頼を取り下げられると太公望としては非常に困る。
 楊ぜんは太公望をにらみつけようとし、そして叩かれたドアの音にぴくりと動きを止めた。
「誰?」
 突き刺すような声をドアの向こうに投げる。
「私だ」
 低い声がドアの向こうから聞こえた。
「誰だ?」
 太公望は声を潜めて楊ぜんにたずねる。
「お父様」
 楊ぜんは小さく答えた。
「今あけますから、まっててください」
 無表情でドアを開ける。サーカスの舞台とはイメージの違ういかめしい顔をした楊ぜんの父親は太公望を一瞥すると楊ぜんに尋ねた。
 ひそひそと囁きあう会話が始まる。太公望に聞かれないようにとの配慮だろうが、あいにく太公望は地獄耳である。
「おまえが雇ったのか」
「はい」
「私が探すから部外者を中に入れるなと言っただろう」
「非常時ですから。僕も死にたくありませんしね」
「私が信用できないのか」
「お父様は信用しています。ですが、お父様の連れてくる探偵まで信用はしません」
 いまいましげな舌打ち。
「だからって新聞で取りざたされるような名探偵など雇わなくとも」
「だから安心なのでしょう」
「秘密がばれたらどうする」
 太公望はいかにも聞いていないふうを装いながら全神経を耳に集中させた。
「かまいませんよ」
「困るのはおまえだ」
 きっと楊ぜんは父親をにらむ。
「困るのはお父様でしょう?」
「とにかく解約しろ」
「もう頼んでしまいました」
「だから解約しろと言っている」
「お父様ともあろうかたが、怖いのですか?」
「莫迦なことを」
「いいかげん認めたらいかがです?蜥蜴ににらまれた時点で金鰲はもう終わってるんです」
 楊ぜんはステージ張りの笑顔で鮮やかに笑う。
「それに公明様がロビーで大騒ぎしましたからね。金鰲が太公望先生に依頼をしたのはばれているはずです。いまさら解約したらそれこそ皆何かあると思うでしょうね」
「私を脅迫するのか」
「事実を申し上げただけです」
 楊ぜんと通天教主はそれからなにやら話し込んでいたようだがあいにくそこまではさすがの太公望にも聞き取れなかった。
 ばたんと扉が閉まる。太公望が楊ぜんの方を向くとまるでそれを待ち構えていたかのような楊ぜんの微笑みにぶつかった。
「聞こえていたのでしょう」
「耳はよいからのぉ」
「秘密。知りたいですか?」
「それが蜥蜴と関係があるのなら」
 楊ぜんは軽く首を傾げ、口の端を吊り上げて笑う仏像のようなアルカイックスマイルを見せただけだった。
 まぁよい。いずれわかることだ。
 太公望は子供みたいににっこり笑った。
「それは良かった。これで解約されずにすむのであろう?」
「そのようですね」
 ゆっくりと棒読みのように楊ぜんは言った。



   ☆



 それから楊ぜんは、完全に太公望を無視しきって残りの日を過ごした。太公望もまた、朝になると開け放たれていると言う窓の鍵を調べたり、楊ぜんのもとに届くと言う、予告状めいたカードをひっくり返したりして一日を過ごした。
 窓の鍵はアルミでできており引っ掛けるタイプのものだから一見すると紐で引っ張れば外から開けることができるように見える。しかし、一通り見たところ窓枠はぴたりと閉まっており、小さな穴も開いてはいなかった。つまり、外から紐を操って鍵を開けるのは不可能と言うことだ。
 もう一つ、別の見方として、窓を開けてあるのは実はただのカモフラージュで蜥蜴はドアから部屋に侵入し、楊ぜんの枕もとにカードをおき、それからまたドアを閉めるという手もある。しかし、ドアにはチェーンがついており、楊ぜんもそれはちゃんと締めて寝ているというのだ。
 チェーンを棒のようなもので外す方法もあるが、この場合チェーンはドアからかなり離れた位置にあり、それは難しいと思えた。
 もっとも、神出鬼没な蜥蜴のこと、従業員に変装して紛れ込むくらいのことはやってのけるだろう。要するに誰に対しても気が抜けないと言うところだろうか。
 そこまで考えて太公望は軽く笑った。
 そう。誰に対しても気が抜けない。
「一体蜥蜴は何故おぬしを標的に選んだのであろうな」
 太公望は楊ぜんに向かってつぶやく。無視するかと思った楊ぜんは返事を返してきた。
「僕が綺麗だから」
 くすっと微笑む。
「それだけか?」
「そんなの蜥蜴に聞いてくださいよ。でもそうでしょう。この間誘拐されたのってどっかの美人女優なんでしょう?宝石とか綺麗なものは盗んでいったけど、金庫にあったお金には目もくれなかったのでしょう?」
「やけに詳しいのぉ」
「それで暗黒街の女王で、たくさんの下僕が控えている……」
 うっとりするように楊ぜんは言う。
「彼女に殺されるのってどんな気分なんだろう。でも、水に沈められても僕は醜く暴れたりなんかしませんよ。人魚になって微笑んであげる」
「小説と混同しておる。そんな気違い地味た人間がこの世に存在するものか。恐怖美術館などもってのほかだ」
「なんだ。知ってるんじゃないですか」
「わしはああいうのは好かぬ」
 楊ぜんはつまらなそうに太公望を見上げる。
「健全思考なんて大嫌いですよ」
「そういえば、おぬし蜥蜴にさらわれてみるのもいいかも。そういったのぉ」
 こくん、と楊ぜんは頷く。
「自虐嗜好もいいかげんにせい。本当にさらわれてしまうぞ」
「あなたが守ってくださるのでしょう?」
「さらわれたがっている奴を守ることなどできぬ」
 楊ぜんは軽く微笑む。
「本当はね。僕は蜥蜴が興味を抱くには一番遠いところにいる人間なんです」
 太公望は楊ぜんを見つめた。
「おかしなことを言うのぉ。さっき自身たっぷりに答えたではないか」
 楊ぜんは黙っている。軽くうつむいたあごのラインが、伏せ目がちの瞳を彩る長すぎる睫が、ひどく美しい。
 太公望は急に緊張してどぎまぎした。
「わしから見ても、おぬしは美しいよ」
 楊ぜんは太公望をじっとにらんだ。美しい紫の透けるような瞳で。潤んで泣き出す寸前のような不安定な瞳で。
「何も知らないくせに」
「それが秘密か」
 楊ぜんはくすりと笑い。その瞬間に右の瞳から透明な涙が一筋伝った。それでも楊ぜんは笑うのをやめなかった。

 笑うのはこやつのたった一つの防禦壁なのやも知れぬ。

 今まで何度も楊ぜんの微笑を見てきたが、一体その中にいくつ本当の微笑があっただろう。不遜な言葉を言ってみるのも、相手を挑発するように笑うのも、すべて自分を守るためなのではなかろうか。
 突然、言いようのない衝動に駆られて太公望はベッドの上で笑いつづける楊ぜんを抱きしめた。びっくりしたように太公望を見上げる楊ぜんに一言。
「もう笑わずとも良い」
 さらりとした髪をなぜると楊ぜんは太公望の背におずおずと腕を回してきた。
「何も知らないくせに」
 ぽつんと楊ぜんはつぶやく。太公望は依然楊ぜんの髪を撫でつづける。幼い子供にそうするように。
「おぬしの秘密を無理に暴こうとは思わぬ」
 不意に背に回された楊ぜんの腕に力が篭り、楊ぜんの細い身体は細かく震えた。泣き出す寸前の子供のように。
「誰も見ておらぬよ」
 太公望が優しく囁くと、腕の力は一瞬消え、それから再び強くなる。
 小さな優しい嗚咽がしんとした部屋の中に響いては、消えていった。太公望の胸に顔を押し付けるようにして、楊ぜんは泣いている。
 美しい顔立ちに似合わずに、人前で涙を見せることができない性質なのか、泣くのはどうしようもなく下手で。
 太公望はただただ楊ぜんの髪を撫でつづけていた。不思議と優しい思いに駆られながら。

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