蜥蜴



第四章 予告再び



 その日の夜。サーカスの花と名探偵は熱烈な恋に落ち、夢のような夜を――と言うようなことには、あいにくとならなかった。
 下手をしたら自分を誘惑しに来るのではないかと、半ば恐れ半ば期待していた太公望の莫迦な考えは結局あっさりと裏切られたわけだ。

 楊ぜんは部屋の奥にあるシャワールームで白い浴衣に着替え、太公望を警戒するようにじろじろと眺めながら、寝台までたどり着く。それから、英国からでも輸入されたような大きなソファにカウンターで借りてきた毛布をかけている太公望にバシッと枕を投げつける。
「何をするのだ、おぬし」
 楊ぜんはくすくす笑った。
「あげる」
「使わぬのか」
「首の形が悪くなるでしょう」
 そういうものか。と太公望はありがたく枕をもらっておくことにした。
「寝ちゃってもいいんですか。蜥蜴はあなたごとさらっていくかもしれませんよ」
「ならば手間が省けるのぉ。さらわれたものも取り返して万万歳だ」
 太公望はニヤニヤと笑う。
「安心せい。わしはどんな音でも目を覚ます。風の音にだって気がつくよ」
 楊ぜんはくすっと笑う。
「おぬし信用しておらぬな」
「明日になればわかりますよ」
 そういいながら楊ぜんは小さなポーチからなにやら取り出し、白い首をのけぞらせてそれを飲んだ。
「おぬしそれは?」
「ただの精神安定剤です。すごい味」
「やめたほうが良い」
「そうですね」
 楊ぜんはポーチをしまうと、何を思ったのかベッドから立ち上がって太公望のほうにやってきた。ぐっと顔を太公望に近づける。
「どうし……うっ」
 どうした、と言う太公望の言葉は最後まで紡がれなかった。口を開いたとたん、何を思ったのか楊ぜんが唇を押し付けてきたのだ。驚いて跳ね返そうにも楊ぜんの身体はくんにゃりしていてどうにも戸惑ってしまう。そうこうしているうちに楊ぜんの舌が口の中に進入してきて太公望はじたばたした。
 本来愛しいものとの甘美な接吻であるハズのそれを太公望がそこまで抵抗したのにはわけがある。
 ようやく楊ぜんの唇が離れたあと太公望は涙で目をうるうる潤ませてつぶやいた。
「ううっ。苦い……」
 楊ぜんは口移しでかの精神安定剤を太公望に味合わせてくれたわけである。それはもう、すさまじい味だったのだ。
「ね。すごい味でしょう」
 楊ぜんは楽しそうにくすくす笑った。それから太公望の顔を覗き込んでびっくりする。
「泣かないでくださいよぉ」
 太公望はケホケホとむせた。
「わしは苦い薬が死ぬほど嫌いなのだっ。ああっ、蕁麻疹が出る。死んでしまうやもっ」
 太公望はばたばたとわめく。
「やだ。太公望先生」
 さすがの楊ぜんも困ったようでおろおろと水を持ってきた。
「飲んでください。うがいしたほうがいいかも」
 というわけで太公望はばたばたと洗面所に走る。楊ぜんはその後を追って太公望の背中をするすると撫でてくれた。するすると冷たい手の感触は心地よいが、生憎太公望はその感触を味わうどころではなかった。
「死んでしまうなんて嘘でしょう?」
「な……なにか……」
 太公望は真っ青である。
「え。え?何?遺言ですか?」
「甘いもの……」
「甘いもの?おかしな遺言ですね。え?違うの、ああ。口直し」
 結局楊ぜんに飴玉を一つもらって太公望はおとなしくなった。
「楊ぜん。これなかなか美味いのぉ」
 今までのどたばた騒ぎが嘘のようにけろりとしている。
「欲しいんなら全部あげますよ」
 楊ぜんは脱力気味でポーチから小さな小ビンを取り出す。昔どこかの町で色が綺麗だったから土産に買ってみた舶来ものの飴である。
「そぉか。楊ぜんありがとう」
 太公望は喜んだ。
 楊ぜんは疲れたようにベッドに戻ると太公望におやすみなさいと言った。
「もう、蜥蜴もあきらめるかもしれませんね」
「だといいがのぉ。おやすみ、楊ぜん」
 そして、いささかあわただしい一日は終わった。



    ☆



 翌日。
 楊ぜんは目を覚ますと真っ先にベッドの周りを見回す。ついで窓を確かめる。
 窓は――鍵がかかっていた。
 楊ぜんはにっこりと微笑む。やけにサッパリとした笑顔で。
「太公望先生。蜥蜴はあきらめたみたいです。やっぱりあなたには叶わないと観念したのでしょうね」
 ちょうどドアのところにいた太公望は楊ぜんのほうを振り向くと一瞬どうしようか迷い、それから首を横に振った。白い紙を差し出す。申し訳なさそうに口を開く。
「ドアのところに挟まっておった。気がついてドアを開けてみたがもうどこにも見当たらぬ。すばやい奴だのぉ……。おはよう。楊ぜん」
 楊ぜんはとっさに太公望の言葉の意味がわからずにぽかんと太公望を見上げ、それから改めて視線を太公望の持っている紙の上にずらした。それは良く見ると二枚あって、一枚はいつものカード上の紙に2と言う数字。もう一枚は手紙のようなものだった。

 ――太公望ちゃん。あなたもわらわの遊びにつきあってくれるのねん。わらわとっても嬉しいわん。だけどぉん。楊ぜんちゃんはわらわのものよん。わらわが予告したからにはわらわがいただくわん。無駄だと思うけどせいぜいたのしませてねん。

 ふざけたことに最後にキスマークがくっついている。
「わしが出てきてかえって喜んでいるようだ。おかしなものに見込まれてしまったのぉ」
 つぶやいてふと太公望は楊ぜんを見る、楊ぜんは目を大きく見開き青白い顔をいっそう白くさせて、蜥蜴のふざけた予告状をじっと見つめていた。
 一度逃れられた魔の手がまた間近に迫っていると知らされたことが、恐ろしかったのだろうか。
「でも。それもいいかもしれませんね」
 小さく楊ぜんはつぶやく。まるで自分に言い聞かせるように。昨日も聞かされた台詞だが、今日の楊ぜんは笑ってはいなかった。空元気も尽きたのだろうか。
 青白い美しい顔の硬い表情を眺めながら、ふと奇妙な感情にとらわれた。
 まるで。今すぐにでも消えてしまうようだ。
 太公望はどうしたものだろうかと少しばかり逡巡した挙句、ベッドの上に未だ座ったままの楊ぜんをそっと抱き寄せた。楊ぜんはおとなしく太公望の胸に頭を寄せる。振り払われることを半ば覚悟していた太公望はちょっと驚いて、やけに素直になった楊ぜんをさらに強く抱きしめた。
「大丈夫。おぬしを誘拐させたりなどしないから」
 朝の空気は冷やりとして、お互いに密着した体温が気持ちいい。
 楊ぜんはあいまいに微笑んだ。



    ☆



「太公望先生。浅草に行きませんか?」
 シャワールームで藤色の和服に着替え、出てきた楊ぜんはそういった。
 今朝のことは、太公望が思ったほど気にはしていなかったようだ。なんだかひどく危なっかしく思えたものだが杞憂だったか。少しばかり太公望は安心する。が。
 それにしても。
「浅草など人がたくさんおるではないか。おぬし少しは自分の置かれた状況をちゃんと認識せい」
「だって、つまらないですよ。蜥蜴のせいでやるはずだった公演もなくなっちゃったし、いいかげん身体がなまってしまいます。それに……この部屋にいるのは、嫌なんです」
 楊ぜんは軽く顔をうつむける。
 太公望は仕方なく笑った。それはそうかもしれない。気分転換もひょっとしたら必要なのではないか。
「わしのそばを絶対に離れるでないよ」
 楊ぜんは顔を上げる。
「じゃあ」
 こくん。と太公望は頷く。手を差し出して。
「一緒に行こうか」
 楊ぜんはにっこり笑って、その手を取った。



 久々に訪れた浅草はひどくごちゃごちゃして乱雑に見えた。着飾ったお参りの人々に混じって、どことなくいかがわしさを漂わせるような人間もまたうろついている。連れてくるのは何も浅草でなくとも良かったのぉと太公望はいささか後悔していたが、当の楊ぜんは楽しそうだった。
「僕ね。こういう、人がたくさんいるところって、あんまり来たことがないんです」
 はぐれないように二人は軽く手を握って仲見世を歩く。それからお参りをして、人の多い浅草寺への道を避けて裏道に入ったのだけれど、それでも人通りは多かった。こまごまとした店に混じって少々怪しげな見世物小屋も並んでいる。
「人ごみなど歩いても詰まらぬだろう」
 太公望は少々閉口気味だ。
「お祭りとか来てみたかったなぁ」
「普賢に一度連れてこられたことがあるがのぉ。押しつぶされて死ぬかと思ったわ」
 くすくすと楊ぜんは笑ったが、あんまり冗談でもなかったりする。第一背の足りない太公望は人ごみに埋もれてしまって、神輿など全然見えなかったのだ。それ以来どうも祭りは苦手である。
「そういえば、僕サーカスって見たことないです」
「おぬしは演じるほうだからのぉ」
 楊ぜんはこくんと頷く。
「見てみたいな一度。僕が綱渡りするところ」
 太公望は笑った。
「それはさすがに無理だろう」
「小さいころは鏡で見たんですよ。綱をね、一尺くらいのところに張って、歩くんだけど、なかなかできなくって父に叱られてわあわあ泣いたんです」
「そんなに小さいころからやっておったのか」
「初めて舞台に立って、ちゃんとした団員としてね。拍手もらったときは本当に嬉しかった」
「おぬしはサーカスが好きなのだな」
 楊ぜんは何か考えるように黙り込んだ。不意に顔を上げる。
 話題を変えたかったのかもしれない。楊ぜんはぎゅっと太公望の手を引っ張って、奥まった粗末な小屋のあたりを指差した。
「ねぇ、あの人」
 髪の長い女がその中に消えていくところだった。
 女はなかなか瀟洒な格好をしており、そんな粗末な見世物小屋で俗悪な見世物を鑑賞するような人種にはとても見えない。まして、その見世物小屋は今にもつぶれかけそうなたたずまいなのである。そして何より。
「あれは……昨日おぬしに声をかけてきた婦人だのぉ」
 確か、妲己といったか。
「僕のファンだと言ってましたね。見世物が好きなのでしょうか」
 それにしたってもうちょっと小屋を選びそうなものである。何しろ今にも倒れそうなほどに傾いている。
「妙だのぉ」
 二人は見世物小屋に近づいた。
 一面黒い扉がひどくいかがわしい。まるで隠すように小さく、血のような赤を使って『黒薔薇館』と銘打ってあった。
 扉は閉ざされている。まるで入ってくる人間を拒否するかのように。
 太公望はしばらく迷って楊ぜんに声をかけた。
「入ってみるか?」
 楊ぜんは戸惑い勝ちに頷く。
「お休みではないのですか?」
「しかし、あの婦人は入っていったであろう。まさか関係者でもあるまい」
 どこかの元公爵か社長婦人とでも言ったいでたちなのだ。一番このような廃れた場所から遠い人物であるように見えるのだ。
 とすれば、つまり客なのであろうし、それが入っていったと言うことは開いているのだろう。
「大丈夫。もし休みだったら謝って帰ってくればいいだけのことだ」
 それから太公望は念を押すように言った。
「おぬし絶対にわしのそばを離れるでないぞ」
 そして太公望は。
 黒薔薇館の扉を開いた。

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