蜥蜴



第五章 黒薔薇館



 小屋の中はひどく暗く、おまけに蒸し暑かった。奥のほうから明かりが漏れている。どうやらそこが見世物の舞台となっているらしい。意外にもたくさんの人が入って黒薔薇館は込み合っていた。
「楊ぜん、あの婦人はおるか」
 太公望は楊ぜんに声をかける。
「いえ、暗くてよくわかりません。でも」
 奇妙なのだ。
 黒薔薇館の入り口には、窓口も切符売りも何にもなかった。まさかただで見世物をやるとも思えない。ついで客層がひどく奇妙だ。暗くてよくは見えないが、どう考えても浅草の裏道をうろつく一般庶民には見えない。服装はひどく豪奢だ。
 黒薔薇館そのものさえ間違っても、表から見たみすぼらしい見世物小屋のイメージとはかけ離れている。床にはしっかりと毛足の長い絨毯が敷き詰めてあり、建物の内装もしっかりしている。むしろ表側がカモフラージュだとわかる。
 これは一体どういうことだ?
 太公望は自然、楊ぜんの手をきつく握り締めた。
「楊ぜん。妙だ」
 そのとき。遠くのほうでスポットライトが燈った。
 舞台には仮面をつけた男が立っている。何かが始まるのだ。遅く入ってきた二人は舞台から一番遠いところにいるらしい。
 男は一つ礼をするとマイクに向かって話し始める。ひどくくぐもった声だ。まるでわざとつぶしたかのような。
「さあ、これからご覧に入れますのは、聞くも恐ろしき美女解体。かくも美しきうら若き美女を手を切り離し、足を切り落とす地獄の狂宴……」
 どこかで聞いたことのあるような前口上。
「奇術ですね」
 楊ぜんはそっと太公望に話し掛ける。
「後ろが黒いカーテンになっているでしょう。きっと切り離したように見せかけて黒い布で隠し、血糊に絵の具を使うのでしょう。始まったらスポットライトが落ちますよ」
 太公望はこくりと頷く。これはひどく悪趣味な見世物に楊ぜんを連れてくることになってしまったらしい。蜥蜴に狙われている楊ぜんには刺激が強すぎるのではないだろうか。
 もっとも、楊ぜんのほうはタネがわかっているせいかけろりとしている。サーカスでもこういう趣向のものはやるのかもしれない。
 それはそれとして、妲己はどこへいったのだろう?
 長い前口上が終わると楊ぜんの言ったとおりスポットライトが落ちた。薄ぼんやりした明かりの中に、奇術のアシスタントであるこれから切り刻まれる美女が登場する。だが。
 やはりおかしい。
 それが女であることはすぐにわかった。ほとんど全裸に近い格好だったのである。そして、何より奇妙なのは目隠しをされている点だ。普通奇術にそのようなことはしない。
「太公望先生。何か、変」
 楊ぜんも何か感じるらしい。ほんの少し後ずさりした。
 女は引きずられるように舞台に上り椅子に手足を縛られる。それをするのはみな仮面をかぶった黒子であり、最後にやはり仮面をかぶった男がチェーンソーのようなものを持って登場する。三日月のように割れた仮面の口が不気味なアルカイックスマイルを作っている。
 静かな流れるような動作。奇術独特の大げさな動き。全く音のしない張り詰めた静寂。客の期待を込めた熱気。
 彼らは何を期待しているのだろう。これはそんなに、期待するほどの奇術ではないはず。
 それからほんの少し奇妙な感覚。普通この手の奇術には見栄えの良い優雅な剣を使うのだ。何故、チェーンソーなど使うのだろう。この場所にこそずっと剣のほうが似合っているのに。
 それとも。これは、本当に奇術か?
 実際の剣で人の身体を切り刻むのにはまず無理だから。だから。だから。だから――
 莫迦な。何を考えている?奇術でなければなんだと言うのだ。
 キーンと音を立ててチェーンソーが回りだす。仮面の男はチェーンソーを振りかざす。それが女の方に触れたとたん。
「うわああああぁ……」
 すさまじい悲鳴とともに、吹き出す血潮。いっそそれは滑稽なくらいに舞台を染め、仮面の男を、その不気味なアルカイックスマイルをも真っ赤に染め上げる。胃のむかつくような独特のなまぬるい匂いが立ち込める。
 あっけなく切り離された肩からいまだどくどくと血は流れる。ピンク色のぬるぬると光る肉が覗き、その中央にどぎついまでのいやらしい白。びくびくと痙攣する白い身体。未だ声なく悲鳴をあげつづける赤い唇。
 これは。
 これは。
「やめろおおおぉ」
 これは奇術なんかじゃない!
 太公望は大声をあげる。
 人ごみを掻き分け、舞台へ。やめさせなければ。早く。早く。早く!
 仮面の男は太公望の大声にいったん動きを止め、じっと客席を眺める。右半分が見事に血に染まった不気味な仮面は太公望をあざ笑うかのようにニヤニヤと笑う。
 観客はいっせいに振り返り、とがめるように太公望を見る。邪魔をする。
「何を考えているんだ」
「気が違っているのではなくて?」
「出て行きたまえ!」
「せっかくの趣向が台無しだ!」
 人ごみを掻き分けることしか頭になかった太公望はどんどん楊ぜんからはぐれていくことには気がつかない。
 楊ぜんは目の前で起こった出来事のあまりの気味の悪さに蒼白になっていた。太公望を追いかけようにも、とても舞台には近づきたくない。
「お嬢さん、気分が悪いのですか」
 差し出された手をぼんやりと取る。実際ひどく気分が悪かったし、遠くから響く男の声は耳に心地よかった。
「大変だ。このお嬢さんが気分が悪いらしい」
「刺激が強すぎたのでしょう」
「綺麗な人ね。今宵の趣向にはこの人のほうがぴったりだったのではなくて?」
 差し出される腕、優しい声。
「君、失礼なことを言うのではないよ」
「あら、あたくし本当のことを申し上げただけよ」
「あちらで休まれたらいかが?ほら、休憩室があったでしょう」
 楊ぜんは支えられながらも何とか声を出す。
「連れがいるのです」
「大丈夫。ちゃんと伝えておいてあげるよ」
「そうよ。今にも倒れそうだもの。そのほうがいいわ」
「一緒に行ってあげるから。ほら、その荷物を持ってあげる」
「少し襟を抜いたほうが気分が良くなるわ」
「あの」
 太公望の特徴を伝えようと楊ぜんは声を出す。
「大丈夫よ。今大声をあげた元気な人でしょう」
「全く、ただの見世物を本当の殺人と勘違いするなんて」
「せっかちな人ね」
 くすくすとあざ笑うかのような笑い。
「あれはただの手品よ」
「そう。ただの手品ですよ。ここのはちょっと凝ってるだけ」
 嘘だ。あの匂いは間違いなく血の匂いなのに。どうしてこの人たちにはそれがわからないのだろう。目の前で人が殺されて、本当にわからないなんてことあるのだろうか。今だって濃厚な血の匂いに包まれているのに。
 不意に警戒心が頭をもたげた。
 遠くの方でまたチェーンソーが回りだすキーンという音がする。きっとまた。女の肢体が切り落とされるのだ。
 吐き気がする。今にも倒れそうだ。
「さあ、早く休憩室に行きましょう」
 早く。早く。早く。
 優しく優雅に微笑む顔、顔、顔。
 何故この人たちはこんなに親切なのだろう。
 それは一人二人そういう人がいてもおかしくはないけれど、でもその場合だって休憩室で休めるとわかったならば誰か一人を付き添いにして、後は任せると言うのが普通ではないのだろうか。そんなにたくさんの人々で休憩室にいってもすることがない。
 それが。ほとんど十数人連れ立って楊ぜんを休憩室まで送るという。
 おかしい。
 何かが狂っている。
 楊ぜんは無意識のうちに太公望を目で探し舞台のほうを見る。舞台ではたった今、女の頭が切り落とされたところだった。では、太公望は結局間に合わなかったのか。血は思ったほどは出なかった、それまでで出尽くしてしまったのか。
 この匂いさえなかったら、まるでペンキを塗りたくったマネキン人形だと思っただろう。それくらい現実感という物が欠落していた。いっそ滑稽にすら見える。
 そこから、ごろりと転がった人の頭。落ちた拍子に目隠しがはずれた。
 ぽっかりと開いた両目は恐怖に見開いている。どうして自分がこんな目にあわなければいけなかったのか、いまだ不思議がっているようにも見える。人相が変わり、自分の血をかぶり、とても生前の姿は伺えないように見える。
 それでも楊ぜんにはその首に見覚えがあった。
 そうだ。
 蜥蜴にさらわれた女優の顔だ。
 ポスターで、ついで新聞で見たあの顔だ。
「あ……ああ……」
 自然と口からうめき声がでる。
 次の瞬間。耳元ですさまじい音量の悲鳴を聞いた。
 喉がかれてくるころにやっとそれが、ほかならぬ自分の口から出ていることに気がついた。
「いやああああぁ!ああああ!いやっ。いやあああああああ!」
 誰かが楊ぜんを抑えようとして伸ばした手を楊ぜんは振り払った。狂ったように近くにいる人々を押しのけた。
「いやあっ!先生っ。太公望先生!」
「何をするんだ!」
「早く休憩室へ」
 早く早く早く早く!
 楊ぜんを捕まえようと伸びてくる腕、腕、腕、腕!

 その叫び声を聞いて太公望はようやく楊ぜんとはぐれていることに気がついた。人を押しのける。楊ぜんは十数名の人間に取り囲まれていた。
 背筋がぞくりとした。楊ぜんを取り囲んでいる人々の目は異様だった。執着心にぎらぎらと輝いていた。抵抗する楊ぜんをまるで面白がるように取り押さえようとしていた。
「楊ぜん!」
 己の存在を知らせるように楊ぜんに声をかける。とたん楊ぜんを取り囲んでいた人々がいっせいに振り返った。男も女も何かに憑かれたような目だった。
 うかつだった。何よりも手放してはいけなかったのは楊ぜんだったのに。
「先生っ!太公望先生!」
 楊ぜんが白い手を伸ばしてくる。
 邪魔立てしようと、何本もの手が伸びる。
 太公望は人の中に飛び込んで何とか楊ぜんの手をつかむと
「走るぞ!」
 そういって楊ぜんを引っ張って走り出した。暗い廊下を通って扉に向かう。立て付けの悪い扉を、半ば破るようにして表へ飛び出す。
 外に出たとたん、冷たい空気に冷やりとした。それすらも平常の空間に戻ってきたようでありがたい。裏道に出てからも太公望は楊ぜんの手を引っ張って走りつづけた。気遣う余裕もなかったが、そこはサーカスの舞台で鍛えてあるのか楊ぜんも懸命についてきた。
 浅草寺の雷門のところでようやく太公望は走るのをやめた。完全に息が上がっていた。寒いさなかだと言うのに汗びっしょりになって、頭から湯気でも出そうな気分だった。
 通りすがりの親子連れが不思議そうな顔で太公望と楊ぜんを眺めていった。
「楊ぜん。大丈夫か」
「何とか」
 楊ぜんは青ざめていながらもこくりと頷いた。
「先生。あれ、やっぱり本物の……?」
「おそらくそうであろう。あれが蜥蜴の城だ。人をなぶり殺しにしおって」
 太公望は怒りに任せて小石を蹴った。
「では昨日の婦人は」
「さぁ。蜥蜴自身か、奴の手下か。偵察にきたのだろう。全く人を莫迦にしておる」
「太公望先生……」
 楊ぜんはぎゅっと太公望にしがみついた。さすがの太公望も人前だからと言って楊ぜんを引き離すことはしなかった。
「忘れろと言っても。無理だろうがのぉ」
 そっと小刻みに震える楊ぜんの背を撫ぜる。
「離さないでください。絶対に僕を離さないで……」
「のぉ楊ぜん。もしもホテルに戻るのが嫌ならば。わしの事務所に来るか?普賢はホテルのスイートだし、武吉は今日は来ないはずだ」
 この誘いが何を意味するのか。太公望は自分で自分に問い掛ける。
 答えは出なかった。
 楊ぜんは小さくこくりと頷いた。

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