蜥蜴



第七章 論理的な帰結



 寒い。と思った。そういえば暖房すらつけていなかった。
 事務所のソファーで太公望は楊ぜんの頭を自分の胸の上に乗せ、そのいまだ剥き出しのままの白い背中を何の気なしに撫ぜていた。白い肌は手のひらに吸い付くようで太公望はさっきからその暖かい生き物をずっと抱きしめている。
 眠っているのだろうか、楊ぜんは。
 ひどくけだるい。動けない。
 ただ時間だけが過ぎていく。捨てられるところを拾ってやった毎日五分ほど時間の遅れる柱時計がカチカチと単調な音を刻む。
 今、何時なのだろう。
 夕暮れ時だ。西の空が薄紫に染まっている。破けてしまった楊ぜんの着物のような。小さな窓とはいえカーテンが軽く開いている。無茶なことをしたものだ。ここは一階である。
 あれは本当だったのだろうか?
 少なくとも一つは確かめることができる。太公望はそっと楊ぜんの足へ手を伸ばす。
 楊ぜんは軽く身じろぎした。う……んっ。と声がもれる。
「あ」
 あ。
「駄目。もぉ駄目ですよぉ」
 楊ぜんはぎゅっと太公望の手を抑える。
 そういう意味でもなかったのだが……。
「楊ぜん。おぬし寒くはないか?」
「え?」
 楊ぜんはちょっと考えるような顔をし、それからくしゅんとくしゃみをした。
「今、ストーブをつけてきてやるから」
「や」
 ぎゅうっと楊ぜんは太公望に抱きつく。絡みつく足と手。やわらかく惚けそうになる。
「もう駄目なのであろう?」
 楊ぜんは仕方なさそうに太公望を眺め、それからゆっくりと身を起こした。体の中を流れる、どろりとしたものに軽く眉をひそめる。
 太公望は部屋の奥を指差した。
「奥に小さな風呂場がある。ここはもともとアパートを改装したものだから」
「一緒に……」
 ぐいっと楊ぜんが太公望を引っ張る。気持ちはわからなくもないが太公望は自分の理性がいささか頼りない。
「駄目だよ。行っておいで」
「ドアを開けておいてもいいですか?一人になるのは気持ち悪いんです」
 仕方なく太公望はこくりと頷いた。とりあえず風呂場のほうを見ないようにと考えながら。
 ストーブに火を入れ、湯を沸かす。
 それから太公望はホテルの普賢真人に電話をかける。
「望ちゃん。今どこにいるの?」
 開口一番普賢真人はそういった。
「事務所におるが」
「そう。こっち、金鰲の人たちが楊ぜんがいなくなったって大騒ぎしてるよ」
「え?ああ。楊ぜんならここにおる」
「なんだ。そういうことは一言いってから行ってよね」
「そのことなのだがのぉ、普賢。楊ぜんの服を一着もらってきてはくれぬか?女物の服なら何でもいいが」
「どうして?」
「服が破れてしまって」
 普賢真人の息を飲む気配。
「望ちゃん!なんてことするのっ。同じ男として見損なったよ!」
「な、何を言っておるのだ?」
「楊ぜんが言うこと聞かないからって無理やりやったんでしょう」
「は?」
「僕にまでとぼけるの?女の子を強姦するなんて最低だよ!」
 何故そうなるのだ?
「落ち着け普賢。おぬしは想像力が強すぎる!」
「え。違うの?」
「わしがそんなことするわけなかろう」
「そっか。そうだよね。望ちゃんにそんなことする度胸あるわけないもんね」
 こやつ……。
「じゃあ、僕は楊ぜんの服を届けに事務所に戻ればいいんだね」
「それから、金鰲の団員の構成と団長の過去。ついでに家族構成も」
「調べるの?時間かかっちゃうよ」
「まぁよい。頼んだ」
「じゃ、それとなく聞いてみる」
「あ、それから、普賢。ここに医学辞典はあったかのぉ?」
 太公望はちらりと風呂場のほうを見た。楊ぜんの奇妙な、だけれど美しい肢体が湯煙の中でぼんやりと動いている。
「うん。あるよ。一番右の列の上から三番目。ドイツ語だけどね」
「わかった」
 太公望は電話を切ってから一つため息をついた。
 ドイツ語か……。



 楊ぜんが風呂から上った時、太公望は大きな本のようなものを持っていた。
「何を読んでいらっしゃるんですか」
 覗きこんでも楊ぜんにはわからない。横文字の羅列。英語とはまた違うようだ。
 太公望は顔を上げる。楊ぜんは仕方なくまた破けた着物に袖を通していた。痛々しい。やはり先に着物を届けてもらえばよかったか。
「何が書いてあるのです?」
「ちと調べ物だ」
 それから太公望は顔を上げる。
「楊ぜん、お湯が沸いた。茶を入れよう」
 そういったきり動かない。
 楊ぜんは困ったように太公望を見つめ、それから立ち上がると急須と茶飲みを探し出してお茶の支度をした。
「お茶。入りましたよ」
「ありがとう。楊ぜん。一つ聞いても良いか?」
「なんでしょう?」
「おぬしの母親も金鰲におるのか?」
 楊ぜんは首を振った。
「いいえ。母は僕を産んで死にました。僕は化け物の上に親殺しなのです」
「そのようなこと、言うでないよ」
「でも」
「写真くらいは見たであろう?」
「いいえ。金鰲では母の話はタブーなのです」
「おぬしの父も話さぬのか?」
「僕に似ているらしいです。違いますね。僕が彼女に似ているんです。だけれど僕は団長が嫌いです」
 父親という言葉を、楊ぜんは使わなかった。
「変な言い方ですけれどね。僕は自分が団長の愛した女性に似ているってだけで寒気がしますよ」
「おぬしは、きっと。金鰲が嫌いなのだな」
 こくりと楊ぜんは頷いた。
 しばらくの沈黙。
 重たい沈黙。
「楊ぜん。あれを書いたのは、おぬしであろう?」
 楊ぜんは顔を上げる。
「ある意味。おぬしが蜥蜴なのであろう。新聞におぬしを誘拐すると書いたのはおぬし自身であろう。あの数字も」
「……どうして……」
「おぬししかありえぬ。窓は閉まっている。ドアにもチェーンがかかっている。入れるような隙間も隠し戸もない。ならば中にいる人間がやったとしか考えられぬ」
「先生。短絡的です。そんな……。それじゃあ、今日のあの恐ろしい舞台も僕がやったとおっしゃるのですか?」
「否。あれは違う。あれは本物の蜥蜴だ。おぬしは蜥蜴を利用したのであろう」
 楊ぜんはじっと太公望を見ていた。顔は蒼白で美しい。
「しかし、それが蜥蜴を呼び込んだ。本物の蜥蜴が出てきて、おぬしは焦ったであろうな。おそらく昨日の予告は本物の蜥蜴からのものだ。あの妲己とか言う女だろう。おぬしはきっとわしが出てきた時点で計画を止めるつもりだった。最後までやるつもりはなかったのであろう。今日の朝はおぬしほっとしたような顔をしておった。それが蜥蜴の出現で崩れたわけだ」
「僕がどうするつもりだったとおっしゃるのです?」
「金鰲を、否少なくとも団長を殺すつもりだったのだろう。蜥蜴の仕業に見せかけて。そして、おぬしは……逃げるつもりかそれとも」
「確かに僕には団長を殺す動機はありますね。あの男はずっと僕を嬲者にしていたんだ。僕が母に似ているから」
 一瞬。太公望は黙り込んだ。
 では。では。楊ぜんの相手は。
 父親だったのか……?

 狂っている。

 どうしようもなく狂っている。

「どうして?何でわかっちゃったのかな。先生。僕の演技はそんなに下手でしたか」
 楊ぜんはくすっと微笑む。
 あっけにとられながらも太公望は言葉を続ける
「おぬしはちと凝りすぎたのだよ。探偵小説の読みすぎだ。なぜわざわざつかまる危険を冒して蜥蜴が予告状などださねばならぬ?それよりおかしいのはあのカードだ。どうしてもだしたければ郵送なり本物の蜥蜴のようにドアの下にでもはさんで置けばよい。枕もとではリスクが大きすぎる。一日中部屋の中で見張られていたらおしまいではないか。警察に自分の居場所を知らせるようなものだ」
 楊ぜんはそっと湯飲みを手で包む。
「そう。新聞にあんなものを載せたのは警察に知らせるためです。僕はもう団長の玩具でいるのは嫌だから。だけれど、団長は警察をすべて寄せ付けないようにした。金鰲は今はサーカスなどやっていますがこれでも旧家ですし、警察の官僚には顔がきくんです」
「しかし、金鰲の醜聞が世間に知れれば嫌な思いをするのはおぬしではないのか?」
「今よりはマシです」
 そういって楊ぜんは美味しそうに自分で入れたお茶を飲んだ。
「失敗したかと思ったらあなたが来てくれた。だけれど、僕はあなたを引き止めるために演技を続ける羽目になった。昨日はどうしようかと思いましたよ。僕が蜥蜴だとばれたらあなたはいなくなってしまうし、それでも僕は蜥蜴に狙われている被害者でなければいけないし」
「そうか、だからおぬしの行動は一貫していなかったのだな」
 こくりと楊ぜんは頷いた。
「太公望先生。僕のしたことは罪にはなりますか」
「うぬ。狂言誘拐……とは、ちと違うか。しかしそれよりもまず、本物のほうの蜥蜴を、妲己を捕まえてからだのぉ」
「あの婦人が本当に恐ろしい蜥蜴なのでしょうか?」
 楊ぜんは困惑気味だ。
 太公望はじっと楊ぜんの顔を見つめた。
 奇妙な感覚があった。
 そう、可能性の一つとしては。
 しかし、そんなことが本当にあるのだろうか。
「どうしたのです?太公望先生」
 楊ぜんはじっと太公望に見つめられ居心地悪そうに身じろぎする。
「のぉ楊ぜん。おぬしいくつになる?」
「年齢ですか?16です」
 ……。
 わし、児童福祉法にひっかかるやもしれぬ。
「先生、どうかなさったんですか?」
 楊ぜんはきょとんとして太公望を見つめた。
 太公望はそっと楊ぜんの額に接吻する。
「いや。なんでもないよ、楊ぜん」
 楊ぜんはくすぐったそうにくすくす笑った。

 そうだ。すべては、情報がそろってから。
 即断するのはまだ危険だ。

next.

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