蜥蜴



第九章 連鎖



 柱時計は午後11時半を指している。
「やはり聞いておったか。妲己」
 太公望はゆっくりと言葉を紡いだ。
『あはん。どうしてわかったのん?』
 どこからか聞こえている声はスピーカーでも使っているのだろうか。
「頭のいい蜥蜴なら、楊ぜんの動向を常につかんでおく必要があるからのぉ。ホテルに部屋を借りるか、団員を仲間にするかどちらかしておるはずだ。勿論この部屋の盗聴くらいやっておるだろう。のぉ、趙公明」
 太公望はにやりと趙公明を見る。
「はーっはっはっ!ばれていたのか」
 この場に不釣合いな声で趙公明は笑った。
「おぬしがわしの事務所が燃えることを知っているのはおかしいからのぉ。おぬしはむしろ団長にはにらまれている口であろう。そのような奴に普通奇襲の話などせぬよ」
『しかたなかったのよん。わらわが盗む前に楊ぜんちゃんを殺すわけにはいかないでしょぉん』
 くすくすと笑い声が響く。妲己は笑っている。
「その点では感謝しておるよ」
『そぉ、ありがとぉん』
「だが、おぬしのしてきたことはおぬしの過去を考えても許されることではない。おぬしは人の死を玩具にしておる」
 楊ぜんがはっと息を呑んだ。
 浅草のおぞましい見世物を思い出したのだろう。
『ああ。浅草のショーを台無しにしてくれたのは太公望ちゃんだったわねん。だけどぉん。わらわの過去ってなにかしらん?』
 茶化すように妲己は言う。
「金鰲の秘密の具体化が楊ぜんならば、金鰲の憎しみの連鎖の結果がおぬしだ。妲己」
 しばらくの沈黙。妲己は黙っているのか。
「……お母様なのですか。僕の」
 楊ぜんが静かに言った。どこに居るのかわからない妲己に、じっと空を見据えて。
『わらわに子供なんかいないわん』
 楊ぜんはぎゅっと黙る。
『楊ぜんちゃんのママはきっとその髭のオジサンに陵辱されて自殺でもしたんでしょぉん。わらわは名前がおなじなだけよん』
 軽やかな笑い声。
「妲己。何を言っている?さぁ、生きているのなら早くこちらに来て顔を見せておくれ」
 黙っていた通天教主が口を開く。楊ぜんは形のいい眉をひそめ、ぞっとしたように自分の父親を見ていた。それは明らかに正気のようには見えなかった。
「愛しているよ」
 その言葉は、なにかじめじめした非常に気色の悪い粘液質の響きを持って一同の耳に届いた。誰もがこわばった顔をお互いに見合わせた。じっとりと冷たい水が背筋を伝わっていくかのような気味悪さだった。
「これが蜥蜴の正体だ」
 太公望ははき捨てるように言う。
「蜥蜴は金鰲に巣くった狂気そのものであろう。間違った愛情を振りかざし、自分の肉親を食らった結果がこれだ。金鰲は近親相姦を繰り返してきた。それがたとえ無理やりであろうとも、一族の保身のために誰もかれもそれを隠してきた。そのゆがみが蜥蜴だ。どうだ、違うか?」
「間違った愛情?これのどこが間違っている?こんなにも愛しているのに!」
 楊ぜんと普賢真人は通天教主から顔をそむける。
「そんなのは愛ではないっ。自分勝手な押し付けに過ぎぬ。おぬしはそんなもので楊ぜんをも……」
 太公望はそこまでで言葉が続けられなくなりじっと通天教主をにらんだ。
「そう。楊ぜんはいい娘だ。妲己に似て可愛い」
 楊ぜんはえずくように口元を抑えうずくまる。普賢真人がこれ以上聞こえないようにそっと楊ぜんの耳を抑えた。自分自身も真っ白な顔をしながら。
 時計の秒針の立てる小さな音が耳に響く。
 あと三分で今日が終わる。
「妲己、楊ぜん。三人で一緒に暮らそう。もうこれ以上私を困らせるのはやめておくれ。さぁ、妲己。おまえの綺麗な顔を、その美しい肌を。楊ぜんでは駄目だ。あれはまだ子供だから。あのころのお前は楊ぜんよりもさらに美しかった」
 誰もが黙っている。太公望は楊ぜんのところまで歩いていって、普賢真人に代わってそっとその肩を抱いた。
 部屋の中央で通天教主は一人でしゃべりつづける。
 そのとき。
 ボーンと柱時計の音がして通天教主を除く一同はびくりと身体を振るわせた。それから柱時計を確かめる。12時になっていた。今日が終わったのだ。一同はほっとしたように顔を見合わせる。
 柱時計はさらになりつづける。
 その音に混じって。どすっとおかしな音がした。
 部屋の中央で、通天教主が倒れていた。
 広がる血。赤い色。絨毯に染み込んでいく、まるで花のような。
「お父様……」
 楊ぜんはよろよろと立ち上がる。
「楊ぜん」
 とめようとする太公望と普賢真人にも気づかずに楊ぜんは父親の元へと歩いていく。
「その人。生きてると不愉快だから殺しちゃったわん」
 振り返れば、妲己が立っていた。黒尽くめの露出の多い服装に、白い手には小さなピストルを持って。笑みを含んだ顔はひどく美しい。
「あはん。絨毯がよごれちゃったわん。死んでからも迷惑な人ねん」
 くすくすと笑っている妲己は、実際の年齢をうかがわせない。楊ぜんと同年輩にすら見える。
「お母様……」
 楊ぜんは妲己を見つめてつぶやいた。
 妲己は楊ぜんを面白そうに見つめると優雅に楊ぜんの元へ歩いていく。
 一瞬。誰も動けなかった。
 まるで活動写真の一場面を見ているようで。
 妲己はそっと楊ぜんの頬に手をかけ、優雅に首をかしげるとそっと楊ぜんの唇にその唇を合わせた。
 血を流し、倒れている男を背景に美女と美少女の接吻はひどく現実離れしており、ひどくなまめかしい。

 一同は、まるで動きを封じられてかのように

 動けない。

 空気の粒子一つ一つですら、止まってしまったかのように。

 時計の音はいつのまにか止んでいた。

 やがて妲己は楊ぜんから唇を離すと、倒れている男の胸にカードのようなものを投げ捨てた。1というローマ数字が見えた。
 それから、少しばかり眉をひそめると面白そうに微笑む。まるで獲物を見つけた猫のような表情。
「この男が死ねば金鰲は終わりねん。金鰲の楊ぜんも消えてなくなる」
 そういって動かない男の胸にピストルを構える。
 もう一度、殺す気なのか。完全に。
「だ……っき……」
 男はまだ、いきている。
「やめ……」
 止めさせようと、駆け出した太公望の腕を楊ぜんはぎゅっと抑える。
「楊ぜん?」
「いいんです。これで。憎しみは一度連鎖を断ち切らねば」
「駄目だ。楊ぜん。それでも!」

 それでも?それでも何だというのだろう?

 そのとき。
 バンッ。と破裂音がした。
 楊ぜんは、はっと目を開く。
「お父様……」

 金鰲サーカス団の団長は、金鰲の歴史を背負った男は、完全に頭を打ち抜かれていた。

「あーあ。公明ちゃん、手が汚れちゃったわん」
「仕方ないさ、妲己。帰ったらよく手を洗ってあげるから」
「妲己」
 太公望は楊ぜんを普賢真人に任せ、妲己にピストルをむける。
「いやーん。公明ちゃん。妲己こわーいっ」
 けらけら笑いながら妲己は趙公明の後ろに隠れる。
「ああ、太公望君。言い忘れたけれど、僕には一つ特技がある」
 趙公明はポケットから手を出し、握っていた手を開く、ぱらぱらと弾丸が落ちた。
「それは空砲だ」
 嘲笑にも似た笑い。
 しかし太公望は平然と口を開いた。
「甘いのぉ。ここに来る前に武吉に電話した。下には警察が控えておるはずだ。出入り口はふさいである。おぬしらに逃げるすべはないっ」
 太公望はにやりと笑う。
「それはどうかしらん?」
 くすりと笑みをもらすと妲己と趙公明はそろって部屋を出て行った。
「普賢。フロントに電話を」
 普賢真人はいわれるまでもなく受話器を持ち上げたところだった。
「望ちゃん。電話線切られてる」
「そうか。まぁ良い。使用人の出入り口まできっちり固めさせておる。蟻のはいでる隙間すらないはずだ。どうあがいてもわしの罠からは逃れられぬ」
 太公望は大見得を切った。
 が。
 が――。
 その台詞はわずか5分後には裏切られることになる。
 息せき切って警官が一人部屋に駆けつけてきた。
「たっ、太公望先生っ。蜥蜴に逃げられましたっ!」
「莫迦な、そんなはずなかろう!」
「いえ。その。蜥蜴は空から」
「な……なにぃっ!」
 太公望、普賢真人、楊ぜんは慌てて窓に駆け寄った。
 窓からはよくデパートの屋上に浮かんでいるアドバルーンが浮かんでいる。ご丁寧にも広告を塗りつぶして、メッセージが数行。

 ――Bye-Bye お莫迦な太公望ちゃん。だけどぉん。わらわを追い詰めた記念に楊ぜんちゃんは太公望ちゃんに上げるわん。

「だああぁっ!やられたぁ〜っ」
 太公望は大声をあげ、窓から身を乗り上げた。
「駄目だよ。望ちゃん。落ちるってば!」
「こらっ。普賢、楊ぜん。離さんかっ!わしは蜥蜴を追いかけるっ」
「駄目です先生。危ないから、落ち着いてっ!」
 大騒ぎしている三人の背中に、入ってきた警官は困ったように声をかけた。
「あのぉ、この死体は一体……?」
 勿論。誰からも答えは返ってこなかった。

 そこには、誰ともわからない男の死体が転がっていた。



    ☆



 翌日の新聞には、またもや太公望先生大手柄の話題が一面に掲載された。サーカスの美少女を蜥蜴の魔の手から救ったというのが、その大まかな内容で、小さく不機嫌そうな太公望の写真を掲載した新聞社もあった。
 詳しく記事を読めば、太公望の事務所が火事で焼かれたこと、それがどうも放火らしく蜥蜴がかかわっているのではないかとの話も見つかるだろう。だが新聞は蜥蜴のこれまでの犯罪の性格から考えて、その可能性は低いと見ている。さらに楊ぜんの父親であり金鰲サーカス団の団長が殺された事件もまた載ってはいるが、警察の流れ弾にあたったのではないかとの説が有力だ。
 しかし、どんなに新聞をすみからすみまで読んでもそれ以上のことは何も知ることができない。

 関係者はすべて黙秘を貫いている。

 真相は依然、闇の中――

next.

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