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3rd. 映画館はひとりぼっち
美術部員は女子が多いものと相場が決まっているが、この学校はどうやら逆のようだ。ひょっとしたら楊ぜん効果かもしれないと太公望は考える。部員も結構多い。
教室の机を一端片付けて、楊ぜんを中心に扇形に広がってスケッチをする。太乙真人がゲストとして太公望を紹介したことで、太公望は結構いい位置に入れてもらった。楊ぜんは当然のことながらヌードではなく、足を組んで雑誌を見ているポーズ。そうやって何時間かの間じっとしてなければならないのだから確かに疲れるだろう。
さて、クロッキー帳は真っ白。困った。
太公望、とにかく絵は下手なのだ。というより、本人が下手だと思い込んでいるため描けないのである。
「……困ったのぉ」
思いつつ楊ぜんを眺める。
「……綺麗だのぉ」
ちょっとかしげた小首から、ワイシャツの影に見える鎖骨とか、じいっと、見つめたって絵を描くという大義名分があれば怒られることはないし、変態扱いされることもない。
男だということはわかっているのだ。抱きしめたって女みたいにやわらかくも気持ちよくもないだろう。
でも、だきしめてみたい。
伏せた瞳に睫の長い影が落ちる。薄い紫の瞳は光の加減で様々にきらめく。頬は透けるほど白く、唇はやわらかそうな桜色。
くちづけたら、あまいだろうか。
いつしか、太公望はただ、楊ぜんを眺めていた。
その、白いワイシャツの下には雪のように真っ白な肌が息づいているのだろう。滑らかな肌の幻想が頭の中を埋め尽くす。
このいきものは、いったいなんなのだろう。
青い長い髪。その一本一本までが、まるで太公望を誘っているかのように淫らに……。
違う。そうではない。
目の前にいるのは清楚な高校生。
しかし、まるで性別を感じさせない。男というにはあまりにも綺麗で、女というにはあまりにも丸みがない。
本人は男だと主張しつつも、たまに女のような甘えをちらつかせる。
この生き物は……
……
いつのまにか部活は終わっていたようだ。校内放送が聞こえる。あれは、バッハベルのカノン。太公望は我に返った。
「今日はここまで。皆、机戻しといてね」
太乙真人は呼びかける。部長らしき女子生徒の指揮で机は綺麗に並べられていく。楊ぜんは座っていた椅子を片付けた後、太公望のほうに来てにっこり笑った。
「先生。見せてください」
「ん?いや。駄目だ」
先ほどまでのあんまりな妄想の相手に、太公望は少しだけ赤くなる。クロッキー帳を隠そうとした。
「えー。モデルやったんだから見せてくださいよ」
無邪気に笑って楊ぜんはぐるりと太公望の肩越しに無理矢理クロッキー帳を覗き込んだ。ふわりと石鹸の香りがした。どきりと心臓がはねる。頬が触れ合いそうなほど近くに楊ぜんの綺麗な顔がある。
「あれ。何にも書いてないじゃないですか。何やってたんですか?」
そう言って楊ぜんは顔を離してしまった。
「絵は、苦手なのだ」
「上手く書かなくったって、見たまんまを書けばいいんですよ」
腰に手を当てて、軽く太公望を睨む。
「それが難しいのではないか」
「ふーん」
楊ぜんは、判ったような判らないような返事をした。
「楊ぜん帰る?帰るんなら駅まで一緒に行こう」
部員の一人が楊ぜんに声をかける。
「駄目。先生とダブルデート」
楊ぜんはにっこり笑ってふざけたように太公望の手を握る。物怖じしない性格なのだろうか。
「え?他に誰」
握った手をちらちらと気にしながら美術部員は尋ねた。
「僕が二人とデートするの」
「あ、そう。そりゃ良かったね」
あきれたように言って美術部員は去っていった。
楊ぜんはぱっと太公望の手を離した。言い訳するようににっこり微笑む。
「映画、何がいいですか?」
映画館はそんなに混んではいなかった。平日だからかもしれない。楊ぜんを真中にして太公望と太乙真人は腰を下ろす。楊ぜんはクラスメートと話しているときよりも楽しそうに話をする。と、言うよりもはしゃいでいる。
年上のほうが気が合うのだろうかと思って太公望は少し嬉しかった。誰かに甘えたいのかもしれない。そういえば教室でも楊ぜんが誰かと親しげに話をするというのは見なかった気がする。皆楊ぜんを遠巻きに囲んでいた。
映画は海外物のホームコメディで子供たちが引き起こす問題を家族みんなで解決するというありがちなもの。ただ趣向は凝っているし、ひねりもきいていてそれなりに面白い。途中、映画館の中でも笑い声が起こったりする。
途中まで映画を楽しんでいた太公望は、不意に楊ぜんをちらりと見、そして息を詰めた。
楊ぜんは笑ってはいなかった。
みんなが大爆笑している映画館で、一人ハンカチを握り締めて透明な涙をこぼしていた。泣く要素なんか一つもないはずなのに白い頬に涙が伝って流れ落ちた。瞳にたまった涙がガラス細工のようにきらめいた。
声を出すこともできずに太公望はそっと自分の手を楊ぜんの手の上に重ねた。楊ぜんははっとして太公望の方を見る。それからすぐに視線をそらした。映画が終わるまで太公望はずっと楊ぜんの手を握っていた。
☆
映画館を出てから楊ぜんはなんとなく無言だった。涙を太公望に見られたせいなのかもしれない。
たまたま太公望の家が楊ぜんの家に近いということが判明したので、太公望は楊ぜんを家まで送っていった。楊ぜんは何かいいたそうに太公望を見、でも結局黙って顔を伏せてしまう。
「さよなら」
顔を伏せたままで楊ぜんは言った。
「また明日」
と太公望は返した。楊ぜんのさよならという響きは酷く淋しく聞こえた。あれに、同じさよならという言葉を返したくはなかった。楊ぜんは顔を上げて太公望を見た。それからこくんと頷いた。
「また、明日」
薄く微笑む。どこか作り物めいた笑みだった。
カチャ。ドアを開ける。子供の頃から鍵っ子だった。家に帰っても、出迎えてくれる家族はいない。楊ぜんは暗い部屋の電気をつけ、それから家中を明るくして回った。無駄遣いだと判っていたけれど、暗い部屋があるのは耐えられなかった。
一つだけある和室の明りを一番最後につける。
「ただいま。お母様」
仏壇に向かって、楊ぜんは声をかけた。
「今日はね、映画見たんだ。おごってもらった。先生に。あ、そう。教育実習の先生も来たんだ。太公望先生。……やだな。泣いてるとこ見られた。……お母様」
母の写真は笑っている。驚くほど若い遺影の彼女は楊ぜんを生んですぐ亡くなった。誰も何も言わないけれど、楊ぜんは判っている。楊ぜんが母親を殺したのだ。父だってそう思っているのだ、だから楊ぜんを見るのが嫌で、日増しに母親そっくりになっていく楊ぜんの側にいたくなくて、楊ぜんが寝ている深夜にならなければ帰ってこないのだろう。
時々母親を恨みたくなる。何故死んでしまったのかと。
「映画、間違えちゃったかな。ホームドラマって、駄目なんだ」
自分がひとりぼっちのような気がするから。画面の中の家族が幸せであればあるほど、ひとりぼっちな自分が浮き上がって見えるから。
そう、学校での会話だって辛い物だった。幸せそうな家族の話や愚痴にさえ、何で僕だけがという嫉妬にも似た思いが沸き起こる。そんなことを考えてしまう醜い自分を認識する瞬間がたまらなく嫌だった。
「お父様、今日も遅いのかな」
楊ぜんの前でだけは、やさしい父。でも楊ぜんは父のやさしさを信じることができない。
「夕飯、作らなきゃ」
楊ぜんは電気をつけっぱなしにしたまま部屋を後にする。一人っきりの食事なんて食べたくもない。独り言はそのまま明りの中に吸い取られる。それでも、何の音もしない空間に耐え切れなくて楊ぜんは言葉を続ける。
「今日はシチューにしよう。ホワイトシチュー。えーっとジャガイモと人参と、あれ。たまねぎは……あ、あった」
やがて彼は何かを振り切ろうとするかのように、一人分にしてはやや多すぎる食材を楊ぜんは取り出し始めた。トントントンと包丁を使うおとがキッチンに響く。
それで楊ぜんはほんの少しだけ救われたような気分になった。
「あとはデザートと、サラダと……たくさん作って。たくさん……」
トゥルルル、トゥルルル……
「あ、もしもし。王天君?」
「は。なんだ、貴様かよ」
「あのさ、シチュー作りすぎちゃったんだ」
「ああ?」
「食べに来ない?」
「何で俺が」
「来てよ……」
「はぁ?」
「淋しいんだ」
ガチャ。
next.
novel.
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