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4th……君のドアの鍵を開けて
そのとき、太公望は漸く家に着いたところだった。ボロボロの安アパート。あってもなくても変わらないような鍵を探す。泥棒だってこんなアパートには入りたくないだろう。
「うぬ?」
鍵はなかなか見つからない。キーホルダーも何も着けていないからこういうとき不便だ。鈴でもつけておこうかと太公望は考える。外はうだるような暑さ。クーラーのような文明の利器はないものの部屋には愛しの扇風機がある。
「見つからぬ……」
太公望は鞄をがさごそやり始めた。中の小物を取り出していく。
「おお、あったあった」
見つけたのは鞄の一番そこ。どうやら小さなポケットに穴が開いていたようだ。もう、この鞄も終わりかのぉと太公望は考える。物価の高いこの町で鞄を買うのもなんだか悔しかった。
鍵を開けて中に入り、鞄を放り出して、温室状態の部屋の窓を開ける。それから愛しの扇風機のスイッチを。小さな音とともに翼が回転し始め、太公望はしばらく扇風機とお見合いしていた。
漸く人心地ついた太公望は、初めて自分が手に持っているものに気がついた。鍵を探すためになんとなく邪魔で鞄から出したもの。
見慣れないこげ茶色のパスケース。
太公望のものではない。開いてみると教育実習で今日行った学校の学生証。名前は
「楊ぜん?」
荷物が紛れ込んでしまったのだろうか。電車には乗れたのだから、紛れ込んだとすれば駅を下りてから。はてそんなチャンスあっただろうか。
それはともかくとして、これがなかったら明日楊ぜんは困るだろう。電話でもしておいてやろうかと太公望はパスケースを少しだけ探させてもらうことにした。人の持ち物を勝手に覗くことに対するほんの少しの罪悪感。
父親の物らしき名刺。歯医者の診察券。使いかけのテレホンカード。折りたたんだ千円札。それから……。
不意に太公望は手を止める。
太乙真人と一緒に映っている写真。後ろは海岸線。タイマーででも映したのか写真は少しだけ曲がっている。楊ぜんは長い髪を下ろしていて、笑って太乙真人の手を握っている。季節はずれなのか他に人影はない。楊ぜんも長袖のワイシャツに袖を通している。
どういう局面で撮った写真なのだろう。それを楊ぜんがわざわざパスケースに入れているわけは?
そんなこと、考えなくたって判るではないか。
教師と生徒。ほんの少し太公望は嫌な気分になった。そして、そう感じる常識的な自分を少しだけ意外に思った。
では、自分はどうなのだろう。先生と呼ばれながら楊ぜんに惹かれている――そう、惹かれているのだ――自分。
否。太公望は言い訳するように考える。自分はまだ教師ではない。太公望はただの大学生だ。
それから、はじめの目的を思い出して太公望は再びパスケースを覗く。美容院のメンバーズカードに漸く電話番号を見つけた。局番から察するに家の番号のようだ。
携帯を手にとって太公望はほんの少し迷った。頭の中に太乙真人のことがよぎった。
そう、きっと嫉妬しているのだ。
☆
「ね、美味しい、かな?」
王天君と向かい合わせに腰掛けながら楊ぜんははにかんだようにそう言った。
「来てくれると思わなかった」
「はぁ?呼んだのは貴様だろう」
「うん」
くるくると楊ぜんはスープをかき回す。シチューにスープ。あれ、なんか変。メニュー間違えたかも。
「淋しかったんだ」
「一人じゃ、何もできねぇのかよ。おじょーさんはよ」
楊ぜんは口篭もる。お嬢さんという言葉に反発し、けれどそれで王天君が帰ってしまうのが怖くて何もいえなかった。今はたまらなく、一人が嫌だった。
「だって、王天君だって……」
「ああ、そうか。貴様は淋しかったんだな、淋しくて自分より淋しそうな奴見て安心したかったんだ。僕よりまだ下の奴はいる。だから僕も頑張らなくちゃってな。でもよぉ、御生憎様だな楊ぜん、俺は少しも淋しくなんかねーんだよ」
王天君は立ち上がった。
「違う。そんなんじゃない」
楊ぜんもつられて立ち上がる。
テーブルの上には冷めかけたシチュー。
「帰るの……?」
王天君はくるりと玄関に向かう。
「待って、帰らないで」
ひとりはいやだ。きっとあの映画のせいだ。いつもの楊ぜんならばこんなにも弱くはないはずなのに。
王天君は足を止めて、戻ってきた。楊ぜんはほっとする。王天君は楊ぜんに近づく。もう、30センチも距離はない。黙っている。楊ぜんはどうしていいのかわからない。こんな相手の反応、予測してない。
「王天……」
「黙れ」
王天君は低く囁いた。
「な……に……?」
何をされたのか判らなかった。ただ、目の前が急に暗くなって。唇に奇妙な感覚。気持ち悪い。
嫌だ、何これ。
楊ぜんは相手を押しのけようとする。と、唇に鋭い痛み。楊ぜんはかまわず相手を押しのけた。反動で自分もしりもちをつく。手で唇を拭う。手の甲に赤い血。噛み切られたのだと気がつくまでに数秒。
「何するんだ!」
起き上がった王天君はこちらに歩み寄る。本能的な恐怖で楊ぜんは床に座り込んだままあとずさった。
「貴様が誘ったんだろう。そのつもりで俺を呼んだんだろうが、ああ?」
「違う!」
壁まで追い詰められた楊ぜんは壁伝いに立ち上がろうとする。そこを王天君に抑えられた。
「違わねぇよ。淋しかったんだろう」
頬に冷たい感覚。楊ぜんは眼球だけ動かしてそれを見ようとする。銀のナイフの柄が視界の端に映った。
「やめて」
「これから俺が何するのかわかるか?」
「なに、するの?」
楊ぜんは目だけ動かして王天君を見た。
「全部忘れさせてやる。嫌なこと全部」
「嫌……」
楊ぜんは首を振る。
「嫌だ。離せ」
ぐいっとワイシャツの襟をつかまれて、ボタンが弾けとんだ。王天君は楊ぜんの上にのしかかっている。逃げられない。それにきっと、少しでも動いたら、ナイフが頬を切り裂くだろう。
淋しかった。誰かに側にいて欲しかった。
でもこんなことは望んでない!
そのとき、電話が鳴った!
その一瞬。楊ぜんは思い切り王天君を押しのけた。頬に小さく痛みが走った。楊ぜんはそのまま逃げ出そうと立ち上がる。電話の音が家中に鳴り響く。走り出そうとして、足首をつかまれた。そのままよろけて楊ぜんは床に倒れれる。倒れた拍子に受話器が落ちてきた。意識が薄らぐ。駄目!
荒い息遣いが聞こえる。生ぬるい息が身体にかかる。
「ひぁ!」
ボタンを飛ばされて半分はだけてしまった胸に、軟体動物が這うような奇妙な感覚。たまらず楊ぜんは身をひねり、逃げようとし、その手に何か硬い物があたった。無意識でつかむ。電話の受話器だった。
「誰!誰か!」
夢中で楊ぜんは叫ぶ。
「誰か、助けて!助けてっ!」
夢中でつかんだ受話器は取り上げられ、窓の外に投げ捨てられた。
「嫌ぁっ!」
手を振り回そうとし、肩口に鋭い痛み。思わず逆の手で抑えればべっとりと血がついた。
「暴れるなよ。綺麗な顔に傷を作りたくねぇだろ。お嬢さん」
楊ぜんは黙って首を振った。胎児みたいに丸くなる。傷口がじんじんと痛んだ。
☆
「誰か、助けて!たす――」
そこで電話は何も言わなくなった。
「楊ぜん!楊ぜんであろう?どうしたのだ。楊ぜん!」
太公望は叫んでみたものの、何の音沙汰もない。からかっている声とも思えなかった。何かあったのだ。
いてもたってもいられず、太公望は部屋の鍵をかけるのも忘れて、楊ぜんの家に走り出した。途中、思い切ってタクシーを拾う。かなり痛い出費だが、そのときはそんなこと頭の中によぎりもしなかった。
楊ぜんのかなり大きな家には明りがついていた。仕方なく太公望は運転手に二千円渡し、おつりも受け取らずに玄関に走り寄る。
インターホンを押す。
「楊ぜん!楊ぜん?」
誰もでない。庭に回って太公望は窓に手をかける。鍵がかかっている。隣の窓にも。その隣にも。
「楊ぜん!おぬしいたら返事をせいっ!」
返事は返らない。鼓動が早くなる。太公望は庭石で窓ガラスを叩き割った。叩き割った場所から鍵を開ける。土足のまま部屋に乗り込んだ。
入った場所は和室だった。仏壇には若い女の遺影がある。どこか病弱そうな美しい女で楊ぜんにそっくりだった。
「楊ぜん!どこだ!」
太公望は大声をあげる。
返事は返らない。防音が行き届いているのか、あるいはすでに――
すでに?楊ぜんが死んでいるとでも?
「楊ぜん!」
太公望は声をあげて楊ぜんを探し回る。部屋は誰もいないところまで明りがついており、ますます楊ぜんを探しにくくする。
「楊ぜん!」
広いリビングに楊ぜんは倒れていた。肩から胸にかけて赤く染まっているそれは、最初赤いハンカチか何かのように見えた。ワイシャツが血で真っ赤に染まっているのだった。
「楊ぜん!」
太公望は楊ぜんの側に走り寄る。抱き起こすと楊ぜんはうっすらと目を開いた。
「あ……太公望先生」
「今、救急車を呼ぶから――」
「止めて」
太公望の台詞を以外にも強い口調で楊ぜんはさえぎる。見れば、手首や頬にも傷があった。
「楊ぜん?」
庇っているのか。こんなことをした相手を。
「救急車にも、警察にも学校にも言わないでください。全部、僕が悪いんです」
太公望に支えられて楊ぜんは顔をしかめながらもゆっくりと身を起こす。
「誰がやったのか?」
楊ぜんは黙って首を振った。
「……王天君か」
楊ぜんは、じっと太公望を見つめた。その瞳に透明な雫がたまり、やがて滑り落ちた。
「全部、王天君の言うとおりだった。僕は自分より可哀想な人が見たかっただけなんだ……」
「楊ぜん。おぬしが話してくれねば、わしは警察にも学校にも連絡することになる。第一、おぬし、肩の傷は医者に見せねば後が残るぞ」
楊ぜんはじっと、自分の肩を見つめた。
「別に、傷なんか残っても……」
「わしは、かまわなくないよ。楊ぜん」
楊ぜんは、はっとして太公望を見た。右の頬に涙が一滴、滑り落ちた。
next.
novel.
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