idol
06.過去と麦茶と告白と
「うわー。狭い」
太公望の部屋にて開口一番楊ぜんはそう言った。
「おぬしそれは無かろう」
「あれ、聞こえてました?」
楊ぜんは太公望を見る。
「まる聞こえだ。言うならもう少し配慮を見せよ。って、いや。そうじゃなくてそもそも人の家に来てまずそれは無かろう」
太公望の台詞に、慌てたように楊ぜんは言った。
「あ、でも。狭いほうが、夜とか怖くなくていいですよ」
太公望は先ほどの仕返しにか、にまぁっと笑って楊ぜんを見る。
「ほぉ。おぬし夜が怖いのか?」
「ち、違いますよ!」
さっと、朱を刷いたように楊ぜんは赤くなった。
「そう聞こえたのぉ」
太公望はにょほほと笑う。
楊ぜんはむっとして黙り込んだ。
ちらりと太公望は楊ぜんを見る。怒ってしまったのだろうか。ちと、からかいすぎたか。
「でも、一人で広い部屋にいるのは、怖いですよ」
ぽつんと、低い声で楊ぜんは言った。思いつめたような目だった。
「あ……」
何かあるのだろうかと思ったが、いろいろなことがあったとはいえ、出逢って一日もたっていない関係でそれを聞くのは憚られた。
太公望は戸惑って、それから慌てて笑顔を作る。
「とにかく、今日はもう寝てしまおう。ちっこいが、風呂だってあるのだぞ。あ、おぬしその傷では風呂は無理か」
破れたワイシャツは病院のくずかごに捨ててもらって、今は白いティシャツを着ている楊ぜんはほんの少し眉をしかめた。
「傷、痛むのか?」
「たいしたこと無いです」
強がりなのかもしれなかったが太公望はそれで納得するしかなかった。素人には楊ぜんの傷の深さも、それがどれくらい痛むのかもわからない。
「なんか、飲むかのぉ。麦茶でよいか?」
楊ぜんはこくんと頷く。借りてきた猫みたいだと太公望は思った。もっとも太公望は猫を借りた経験なんてないから本当のところはわからない。
作り置きしてある麦茶を冷蔵庫から出して、太公望はコップに注ぐ。くすくすと楊ぜんは笑った。
「意外と綺麗好きなんですね」
「ん?」
麦茶を運んできた太公望はきょとんとする。
「それとも、料理しないんですか?流しが綺麗だから」
太公望は小さな台所を振り返って笑った。
「ああ、夏場に洗い物をするのは好きなのだ」
「じゃ、冬は?」
「冷たい水は嫌だのぉ」
楊ぜんはもう一回、台所を見る。
「考えないほうが、良いこともあるよ」
「……そうですか」
こくんと楊ぜんは冷たい麦茶を飲んだ。美味しかった。
窓は開けっ放しで、窓辺につるしてある風鈴がちりちりと音を立てた。
「先生は一人暮らしですよね」
「まあのぉ」
「淋しくないですか?」
太公望は楊ぜんを見る。
「はじめは。まぁ、でも。一人になりたいときもあるしのぉ」
楊ぜんは硝子のコップを両手で包み込むように握り締めた。
「僕は淋しかった」
「ん?」
「あの広い家で、僕以外何の音もしない家で、一人で帰ってこないお父様を待っているのは、気が狂いそうなくらい淋しかった」
「楊ぜん?」
にっこりと楊ぜんは笑った。
「すみません。変なこといって」
「いや。聞こうか」
「でも、こんな話、つまらないから」
すっと楊ぜんは視線を下にやる。
取って置きの低い声を出して太公望は言った。
「おぬしの話なら聞きたいよ」
くすくすと楊ぜんは笑った。
「やだなぁ。くどいてるみたいですよ、それ」
いや、口説いていたのだが。太公望は少しばかり落ち込んだ
ごしごしと目をこすり始めた楊ぜんに太公望は布団を敷いてやる。ぺたんこな布団は一組しかないから、楊ぜんに敷布団をやって、太公望は毛布を折りたたんでその上に横になった。暑い季節だから、風邪は引かないだろう。
真っ暗なのは嫌だという楊ぜんのために、豆電球一つ。オレンジ色の光を太公望はぼんやりと眺める。
「傷、痛むか?」
「平気。明日、学校の前に家に制服と教科書取りに行かないと」
「一緒に行ってやろう」
しばらくの沈黙のあと楊ぜんの声。
「王天君。怒られるかな」
「それは……そうだろうのぉ」
「退学とか、なる?」
「判らぬ。なるやも知れぬ」
今度の沈黙は少し長かった。楊ぜんが寝てしまったのかと思い、太公望が目を閉じたところに楊ぜんの声。
「王天君も、ひとりぼっちだから」
「え?」
「王天君の家、ね。王天君が小学生の頃、お母さんが家出して。それからお父さんがアル中になって。王天君のこと殴るようになって。あの頃、王天君。痣だらけだった」
太公望はなんと返事をしていいかわからず、黙って天井を見ていた。
「でも、王天君。お母さんが出て行ったことのほうがショックみたいで。子供の頃はね。僕王天君の家が羨ましかった。お父さんも、お母さんもちゃんといて、お父さんは王天君と一緒に野球したり釣やったりしてくれて。僕、あの頃からひとりぼっちだったから、いつも王天君の家に遊びに行ったんだ。お母さんがにっこり笑って出迎えてくれるのが嬉しかった。僕が行っても、王天君のお母さん、少しも嫌な顔しないんだ。にっこり笑って、いつもいらっしゃい楊ぜんって迎えてくれて。運動会のときとかね、僕の分のお弁当まで作ってきてくれて」
「そうか。楊ぜんは王天君の母親が好きだったのだな」
「うん。でも、王天君のお母さんが家出して、逆転しちゃって。これ、噂なんだけど、王天君のお母さん、浮気して駆け落ちしたんじゃないかって。そういうのってさ。言いふらす奴がいるんだよね。学校でも王天君浮いちゃって。お父さんは会社行かないでお酒ばっかり飲むようになって、そのうち王天君殴るようになった」
大人の事情で、傷つくのはいつも子供だ。
「王天君、学校来なくなって。僕、何とかしたくて、でも王天君にうるさく言うしかできなかった。王天君を更生させようって思ってた」
楊ぜんはここで一つ言葉を切る。
「僕すごくやな奴だったと思う」
「どうして?」
「だって、そういうのって優越感がにじみでてるでしょう。僕はかわいそうな王天君を守ってあげてる気分でいたんだ。それって、驕りですよね」
「そのように、考えなくとも」
楊ぜんの台詞は、なんだか痛い。
「僕は自分が淋しかったから、自分より酷い境遇の王天君に同情して優越感に浸りたかっただけなんだ。最低ですよ」
ぐるりと首を回して太公望は楊ぜんを見た。楊ぜんは心持、潤んだだ瞳で太公望をじっと見ていた。
「きっと、王天君は僕のこと憎んでる」
「そんなことはあるまい」
反対に王天君が楊ぜんのことを好きだからこそ、太公望を睨みつけたりもするのだろう。
「それに、おぬしはやっぱり王天君に立ち直って欲しかったのだろう?たとえ、おぬしが言うような気持ちがおぬしにあったとしても」
「だけど」
「人間の感情はそんなに綺麗な物ではあるまい。偽善者といえば、偽善者でない人間などおらぬ。おぬしは優しいよ、楊ぜん」
楊ぜんは薄く笑って太公望を見た。
「先生はやさしいですね」
楊ぜんはそう言って目を閉じた。
「さあ。どうかのぉ。おやすみ。楊ぜん」
太公望は一端、目を閉じる。
それから数刻。ふと視線を感じて横を見ると、楊ぜんがじっと太公望を見ていた。
太公望は戸惑って、楊ぜんを見る。黙ってじっと見つめられるのはどうも居心地が悪い。
太公望は口を開こうとし、でもその前に楊ぜんが言った。
「好きだって仰いましたよね。僕のこと」
太公望はぎくりとする。あれはつまり、その場の勢いという奴で。否、しかし、だが。
「言った。わしはおぬしが好きだ」
太公望ははっきりとそう言った。
「今日初めて会ったのに」
「長くあっておれば好きになるというわけでもなかろう」
「こんな僕でも?」
「おぬしはおぬしが考えているほど嫌な奴ではないよ。むしろ逆だ」
楊ぜんはじっと黙り込む。数秒。それから。
「僕、男ですよ」
「し、知っておる。だがわしは男が好きというわけではないぞ。おぬしだから好きなのだ」
「じゃあ、男の僕にでも好きって言われたら嬉しいですよね」
太公望はなんだかどきどきしてきた。
ここは太公望の部屋で、楊ぜんと二人っきりで、手を伸ばせば届く距離で、豆電球の明りだけが薄暗くあたりを照らし出している。
「それは……嬉しいかのぉ」
この流れは拙いんじゃないだろうかと太公望は思う。
そんな太公望をよそに、楊ぜんは顔半分タオルケットに埋もれて呟いた。
「じゃあ、太乙先生も僕に好きって言われたら、喜んでくれるかな?」
「は?」
太公望は莫迦みたいにあんぐりと口をあけた。
「先生……男が男を好きになっても、いいですよね?」
「そうだのぉ」
楊ぜんは安心したように息をついて、それから今度こそ本当に目を閉じた。
やがて立ち始めた楊ぜんの寝息をBGMに、太公望はぶくぶくと沈没していった。
next.
novel.
|