逢瀬
……02
朝廷は緊張に包まれていた。
楊ぜんはちらりと姫発を見る。姫発は声を出さずに呟いた。
「伏羲が来る」
「あなたの言ったこと、本当だったんですか」
「莫迦。有名な話なんだ」
「紂王陛下は何故伏羲を呼び戻したのでしょう」
「妲己だろ。妲己が裏で手を回したんだ」
楊ぜんは黙り込んだ。妲己の悪い噂は有名である。まだ見ぬ伏羲への不信感が楊ぜんの中に芽生えつつある。
「かかわんないほうがいいぞ」
「みたいですね」
楊ぜんは頷いた。
そのとき、あたりが騒がしくなった。
「噂の伏羲がきたらしいな」
楊ぜんはそっと騒がしくなったあたりを見つめる。
ちらりと伏羲の姿が見えた。あたりのざわめきを気にする風もなく平然と、むしろふてぶてしく歩みを進める。姫発のせいで伏羲を妲己の愛人だと決め付けていた楊ぜんは、養父玉鼎真人のような優雅な美形を想像していたのだが、入ってきた伏羲は玉鼎真人とは全く別の容姿だった。
体格はむしろほっそりして小さいくらい。顔も童顔の部類に入るだろう。しかし大きな瞳に宿した光は鋭く、見るものを刺し貫くように強い。その奇妙なアンバランスさが不思議な、一種色気のような魅力をかもし出している。
楊ぜんは妙に怖くなっておびえたように伏羲を見つめた。養父の玉鼎真人の包み込むような優しさと違い、触れるだけで火傷しそうな男だ。
伏羲はちらりと楊ぜんを見つめ
莫迦にしたように笑った。
楊ぜんはそれまで感じていた恐ろしさを忘れ、じっと伏羲を睨みつけた。悔しかった。それと同時に別の恐怖を感じた。まさか、見破られたのか。伏羲の笑いが楊ぜんには、女がこんなところで何をしているのだ。そういっているように見えた。
もう、玉鼎真人が言ったように潮時なのだろうか。
しかし女性に戻ってしまったら待っているのは、滅多に外に出ることも許されない籠の鳥のような生活。無論、普通の女性はそういうものなのだが、一度自由を知ってしまった楊ぜんにはあまりにもつらかった。
「おい、楊ぜん。どうしたんだ、怖い顔して」
何も知らない姫発が楊ぜんの袖を引っ張った。
「僕、あの人、嫌いです」
姫発は笑った。
「気が合うな。俺もあいつ、好きじゃない」
「紂王陛下のおなり!」
その声に二人は深く平伏した。
☆
結局、退出したのは夜半遅くになってからだった。
さすがに楊ぜんはぐったり疲れて、うとうとしながら家路についた。
また師匠心配してるかなぁ……。
いささかうんざりと楊ぜんは考える。玉鼎真人が楊ぜんに女性に戻るようにほのめかすのも悩みの種だった。
それで、師匠が僕のこと愛してくれるならそれでもいいけれど。
養父が自分のことを子供だとしか見ていないことは、楊ぜんには嫌というほど判っていた。
「家、帰りたくない……」
かといって楊ぜんに他に帰る場所など無い。
それに。
もう、朝廷にも戻れないかもしれない。
あの伏羲の莫迦にしたような笑い。
「やだなぁ。これってどこにも行き場が無いってことじゃないか」
それでも楊ぜんはしぶしぶと屋敷に戻り、玉鼎真人と顔を合わせないように部屋に閉じこもった。そして、唖然とする。
衣架にかけられた美しい十二単。これは何?
「師匠!」
楊ぜんは悲鳴のように声を荒げた。そしていささか乱暴に養父のもとに駆け込んでいった。
「なんなんですかあれは!」
「ああ、十二単か」
書き物をしていたらしい玉鼎真人はゆっくりと顔を上げた。楊ぜんの様子にほんの少し眉をひそめて。
「何でそんなものがここにあるんですか!」
楊ぜんはぎゅっと玉鼎真人に詰め寄る。
「おかしくは無いだろう」
「おかしいですよ!」
必死に叫んだら、目に涙が浮かんだ。悔しかった。
「楊ぜん。こんなことを続けていてもおまえは幸せにはなれないよ」
諭すように、玉鼎真人はそういった。判っている。もう破綻しかけている。伏羲はたぶん気がついたのだ。楊ぜんを一目見ただけで。
「どうしたって幸せになんかなれませんよ!師匠が僕のこと娶ってくださらなきゃ一生幸せになんかなれません!」
なんて、醜態。涙がこぼれた。はらはらと涙をこぼしながら楊ぜんはじっと玉鼎真人を見つめた。
玉鼎真人は楊ぜんから目をそらそうとし、それから思い直したようにじっと楊ぜんを見つめ、首を振った。
「楊ぜん。それはできない」
判っている。でも、聞きたくは無かった。最終的なこの言葉を、本人の口から告げられたくは無かった。
「楊ぜん、おまえがまだ男でいたいなら、それでもいい。でもあの着物があれば、いつでも女性に戻れる。家の中でだけ袖を通すのでもいい。着たくないのならば着なくてもいい」
玉鼎真人の台詞が楊ぜんの頭を空滑りしていった。
たまらなく惨めで、伏羲のあの莫迦にしたような顔がフラッシュバックした。
たぶんきっと。玉鼎真人の言葉は正論なのだろう。あるべきものはあるべき姿でいたほうがきっといいのだ。
一度だって、男に負けたと思ったことなど無いのに。否、この場合それは論点が違うのだろう。どんなに男の振りをしてみたところで、楊ぜんは男にはなれない。この男性本位の宮廷ではそれこそが決定的な「負け」なのだ。
楊ぜんはぎゅっと手のひらを握り締めた。
「楊ぜん、女性を軽んじるのではないよ」
「軽んじているのは男性達ではありませんか」
「そうかな」
玉鼎真人はいとおしむように楊ぜんに微笑んだ。楊ぜんは結局顔をあげることができずに歯を食いしばって部屋に戻った。
寝てしまおうと思った。
眠れるはずなどないのだけれど。
目に入るのは十二単。
師匠が選んだのだろうか。
「……綺麗」
その布に楊ぜんは静かに顔を寄せた。
涙で視界がぼやけていた。
☆
同じ頃、明りも灯さずに暗い部屋にうごめく影があった。
「あはぁん。伏羲ちゃん。久しぶり〜ん」
「何の茶番だ」
「茶番?なんのことかしらん。妾はいとしの伏羲ちゃんにお会いしたかっただけですわん」
ずるりと衣擦れの音が響く。
「触るな!」
「ストイックなのねん。相変わらず、つまんない男」
「おぬしいいかげんに……」
クスクスと甘い笑い声が響く。
「かまわないじゃないのん。あなたと妾の仲ですわん。紂王様は勘違いして嫉妬しちゃったみたいですけどねん。伏羲ちゃんがどんなに嫌がっても、妾との縁は切れないのよん」
歌うように妲己は言う。
「血を分けた兄弟ですものん」
「母上を殺したのはおぬしであろう。始めはおぬしの母親だとおもっておったが、それでは解せぬところがある」
「身分が低いのが悪いのですわん。ママが嫌ってたようでしたから毒をもって差し上げましたの。子供に大人を殺す方法ってそれくらいしかないでしょぉん。美人で評判の方でしたけれど、死に顔は醜かったですわねん」
くすくすと、面白くてたまらないというような女の笑い。
「何故わしを呼び戻した」
「伏羲ちゃんを愛してるからよん。親と子供は違いますものん。勘違いしている莫迦な女も多いようですけれどねん。あの安っぽい女と伏羲ちゃんは大違い」
「ふざけるな!」
「あらん。ふざけてなどいないわん。あなたの憎しみに満ちた瞳。妾は好きなのん。見つめられるとぞくぞくするわん。可愛い伏羲ちゃんを側に置いておきたいだけよん。莫迦な信奉者にはうんざり」
「おぬしを許さぬ」
「そう。でも伏羲ちゃんは妾を殺すことはできないのよねん。たった一人の姉上ですものねん」
「おぬし……わしが都を離れている間に何人殺した」
「伏羲ちゃんがいないとつまらないから、自粛したのよん。だから5人くらいかしらん」
くすっと笑い声。
「でも、これ以上宮中でやるとさすがにまずいのよねん。うわさでは、玉泉山の姫君も美しい方なのだそうですねん。紂王様が後宮に迎えたいと仰っておりましたのに、最近では噂も聞きませんわん。病で亡くなられたのかしらん。だったらいい気味ですけれどん」
がたりと立ち上がるあわただしい音が響いた。
「せっかちなのねん。夜はこれからですのにん。ホント、つまらない男」
誰もいない闇に向かって妲己は呟いた。
「そして、姫の噂が消えたとたんに、楊ぜんが戻ってきたのよ。相模に行っていたなんていうけれど、そんなのは嘘。調べればすぐわかる……」
くすっ。闇に響く笑い。
「莫迦な子ねん。莫迦は大嫌いだわん」
くすくすくす。
next.
novel.
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