逢瀬
……03
屋敷に戻ると、荒れ果てているかと思いきや、元のままの姿でそこにあった。
「お師匠様、お帰りなさい!」
そういって飛び出してきたのは武吉である。伏羲が学問を教えていた子で、よくなついていた。
「おお、武吉か!大きくなったのぉ。ちゃんと勉強しておるか」
「はいっ!」
「おぬしが掃除をしてくれていたのか」
「はい。あの……僭越だったでしょうか」
伏羲は苦笑した。
「おぬし随分と難しい言葉を使うようになったのぉ」
恥ずかしそうに武吉は笑った。
「そうだ。ちょうどよい。おぬし玉泉山の姫を知っておるか?」
「お師匠様の想い人ですか」
「だあほ。そうではない。ただ知っておるかと聞いたのだ」
武吉はちょっと考え込む。
「玉泉山といえば楊ぜん様のお屋敷がありますけれど、姫がいらっしゃるとは聞いたことがありません」
「楊ぜん?」
「はい。今日お会いになったのではありませんか」
伏羲は苦笑する。
「お会いになるもなにも、皆、警戒してしまって口もきいてくれぬ」
「そんな!お師匠様も本当のことを仰ればいいのに」
武吉は伏羲と妲己の関係を知る数少ない一人である。
「余計に警戒されるだけだよ。しかし、その楊ぜんというのとは一度話をせぬといかぬのぉ。どのような奴かわかるか」
「どのようも何も。それはお美しい方ですよ」
伏羲はきょとんとした。
「男がお美しいのか」
「はい。一目見ただけで息を呑むほどだと皆言ってます」
太公望はちょっと考え込む。実は宮中であった人物のほとんどを記憶していない。妲己憎らしさのあまり周りを気にする余裕はなかったし、戻ってきたときから宮中にあっさり受け入れられようとは思ってはいなかったが、久しぶりだと話し掛けてくる相手もいなかった。
が、そういえば一人目にとまったものがいた。
美しいというよりは、どことなく面影が幼い頃に殺された母に似ているような気がした。男などに母の面影を見出した自分に苦笑したのだが、相手は何を思ったのかじっとこちらを睨みつけてきた。
あれが楊ぜんか……。
「あ、もしかしたら。楊ぜん様のことをからかって姫と呼んだのかもしれませんよ。あの方は姿かたちに似合わず武術もお得意だそうで表立って言う人はいませんけど」
「否。姫だ。女性のはずなのだが」
妲己は女しか殺さなかった。少なくとも太公望が以前都につかえていたときには。
「なるべく早く玉泉山の姫にあわねばなるまい」
まさか妲己がすぐに行動を起こすとは考えられないが。
☆
翌日、楊ぜんは朝廷には姿をあらわさなかった。
どうにでもなれという思いで、例の十二単に袖を通しぼんやりと空を見上げていた。これで琴でも弾けということなのだろうか、それとも歌合せに興じろとでも言うのだろうか。
伏羲は怖気づいたと思うのだろうか。
所詮女だと笑うのだろうか。
誰とも顔を合わせたくなかった。このままこうしていればそれが叶うだろう。朝廷からお叱りがくるかもしれないが、そのときにはもう男性としての楊ぜんなどどこにもいないのだ。否、その前に姫発あたりが様子を見に来るかもしれない。
「でも……。女の姿で姫発に会うのはさすがに拙いよなぁ……」
猫に鰹節どころかまたたびでもやるようなものだろう。
もう、莫迦みたいに笑いあうこともできないのか。
ああ、そうだ。言葉遣いを直さなくては。
女性なのだから。
うんざりと楊ぜんは空を見上げる。
何故、空はあんなに高いのだろう。
何故、人は飛んではいけぬのだろう。
何故、女は男になれぬのだろう。
何故、師匠は……
ああ、もう何も考えたくはない。
楊ぜんは静かに目を閉じた。
☆
よりによって楊ぜんは朝廷には来なかった。姫発に聞きただしたところ珍しいことなのだそうである。
「上手くいかぬときには上手くいかぬものだのぉ」
仕方なく伏羲は直接屋敷をあたってみることにする。幸いにも退出した時にはまだ日があった。玉泉山といえばかなり遠いが、何とか日の入りまでには間に合うだろう。
しかし、途中人に道を尋ね歩いていけば、楊ぜんの住まうという屋敷についたのはもう黄昏時であった。
つつじの垣根をこっそりと覗いて見ると、美しい十二単姿がちらりと見えた。
「やはり姫がおったのか」
楊ぜんの屋敷に住まうということは妹かなにかなのであろうか。美人で知られる楊ぜんの妹ならばさぞや美しいのだろう。そういえば、妲己も紂王が見初めたというようなことを言っていた。
「直接話ができぬかのぉ……」
伏羲はきょろきょろとあたりを見回し、使用人らしい子供に手招きした。短冊を取り出し即興で詩など詠んでみたものの、焦ったためか出来栄えはいまいちである。そもそも、こんな時間に初めて会う男の詩をもらったからといって、入れてくれる女などまずいないだろう。
「よいか。これをもって屋敷の姫のもとへ届けてくれれば駄賃をくれてやろう」
子供はきょとんとする。
「でも、このお屋敷に姫などいないよ」
「ほれ、そこにおるではないか」
子供は、子供特有の大胆さで生垣を覗き込んだ。
「あれぇ。ホントだ。お兄ちゃん釣り合わないよ」
随分ませた子供である。
「よいから、いかぬか」
「わかったよ」
「ちゃんと返事ももらうのだぞ」
「返事なんか、きやしないよ」
子供は駆けて行った。憎たらしいことこの上ない。
太公望は空を見上げて呟いた。
「困ったのぉ。日が暮れてしまった」
すでに外は真っ暗であった。
☆
ぼんやりと時を過ごしていた楊ぜんは渡された詩に驚いた。要するに逢いたいというような内容なのだが、これはやはり恋歌という物なのだろうか。どうして、楊ぜんが女だということがわかったのだろう。否、それともたまたま近くを通りかかって楊ぜんを見つけたのだろうか。
「こんなもの。莫迦みたい……」
楊ぜんはそれを放り投げようとし、それから思い直してまじまじとそれを見つめた。
――その後やることなんか一緒だろ。
甦ったのは姫発の言葉。どうにでもなれという自暴自棄な思いが楊ぜんの心を侵食していった。
半ば玉鼎真人へのあてつけのような思いで楊ぜんは言った。
「いいよ。入っても」
楊ぜんはそういって灯台の明りを吹き消した。
☆
「それで、姫は来るように言ったのか?」
伏羲は怪訝そうに子供を見つめた。子供はこくりと頷く。
「返歌は?」
「なかった。お兄ちゃん。あの姫様へんだよ。よしといたほうがいいよ」
「それは確かに奇妙だが」
「様子が変だよ。狐憑きだよきっと。食われちまうよ。ホント、このお屋敷に姫様なんていなかったんだよ」
「よいよ。ほれ、駄賃だ」
「何これ」
「桃だよ。美味いぞ」
そういって伏羲は屋敷の中へと入っていった。
「あーっ!しらねぇからなっ」
背に子供の声を聞きながら。
夜の闇は暗い。伏羲は頼りなげに歩きながら屋敷へと歩いた。部屋には明り一つともってはいなかった。
「姫、これではどこにいるのか判らぬ。明りをつけられよ」
楊ぜんはその声をじっと聞いていた。
大丈夫。知り合いの声ではない。このような話し方をするものは、近くにはいないはずである。
「どうせすることは一つなのでしょう。明りは必要ありません」
伏羲は怪訝そうに眉をしかめる。子供の言った通り、相当箍が外れているらしい。しかし、聞こえた声は耳に心地よく響いた。伏羲は見当をつけて声のするほうへ歩いていく。
「おぬしと話をしにきた。明りをつけられよ、姫」
「ぼ……わたくしに話などありません」
思わず僕といいそうになって楊ぜんは少しばかり焦った。心臓がどきどきと早くなる。認めたくはないが怖かった。
「何もする気がないのなら、お帰りなさい」
「妲己が、おぬしを狙っておる」
「何を莫迦なことを」
紂王ならいざ知らず。楊ぜんは本当にわけがわからなかった。
「わたくしをからかいに来たのですか」
恐ろしさの反動で怒りにも似た物がこみ上げてくる。
「そうではない」
「帰って」
楊ぜんは言った。莫迦なことをしていると後悔し始めていた。
「わからぬ女子だのぉ」
ぐいっと、腕をつかまれて楊ぜんは悲鳴をかみ殺す。そんなに正確に位置を把握されているとは思っても見なかった。
「なにをするのです」
「することは一つなのであろう」
ぐいっと伏羲は楊ぜんの身体を腕の中に抱きこんだ。ほっそりした、頼りない身体だった。自分自身武術に自信を持っていた楊ぜんはあんまりにも簡単に動きを封じられてしまったことに唖然とする。
養父以外に自分より強い男がいようとは思ってもみなかった。
「あなた、誰なの?」
小さな声で楊ぜんは言った。みっともなく声が震えた。
「知らぬほうがよい。いずれおぬしの兄から名を聞くことになるやもしれぬ」
「兄?」
「楊ぜんは兄ではないのか?」
ああ、ではこの男は今抱きしめている自分が楊ぜん本人であるとは知らないのだ。少しばかりの安堵に楊ぜんは息をついた。
「そのようなものです」
伏羲はそっと楊ぜんの頬に手を這わせる。
「明りをつけて姫の顔がみたい」
楊ぜんは静かに首を振った。
「いけません」
「何故?」
「嫌なのです」
「朝になったら……」
「朝になる前に、お戻りください。かがり火はお渡ししますが、決してわたくしを照らしませぬよう」
伏羲は笑った。
「火を向ければ溶けてしまうと申すか」
「いかようにでも」
「では、よいのだな」
楊ぜんは操り人形のようにこくりと頷いた。
「ええ」
「女子を抱くのは久しぶりだ」
伏羲は笑った。
楊ぜんはしっかりと目を閉じた。
next.
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