逢瀬
……04
わずかな明りしかない闇の中では感覚はずっと研ぎ澄まされてしまう。楊ぜんはぎゅうっと目を閉じた。
「姫。そんなに緊張するでないよ」
「き、緊張などっ、しておりません!」
楊ぜんは震える声で何とかそれだけ言う。伏羲はただ笑った。
「何故このようなことをしておる。おぬしにふみをくれた男は皆呼び込むのか」
伏羲が楊ぜんのうなじのあたりに口付けたせいで楊ぜんは目をぎゅうっと瞑ってぶんぶん首を振った。
「違うっ。違います!」
「違う?では何故わしを呼び入れた?」
ずるりと伏羲の手は襟元から着物の中へと入っていく。触れた肌は滑らかで心地よい。やや小ぶりな胸はすっぽりと伏羲の手の中におさまった。
「そんなの、あ、あなたには関係ない!」
「大声を出すと家人が起きてしまうぞ」
楊ぜんはびくりと黙った。
見知らぬ男とこんなことをしていると養父に知れたら?
今この場に養父が入ってきたら?
「かまわない……」
「何?」
奇妙な残酷さが楊ぜんの中に沸き起こった。それが玉鼎真人に向いているのか、それとも楊ぜん自身に向けられているのか楊ぜんには良くわからなかった。
「おぬし何を考えておる」
「僕はもう、どうなったっていいんです」
いつのまにか一人称がわたくしから僕に治ってしまっているのに楊ぜんは気がつかない。
「全部、終わったんです」
伏羲は腕の中の楊ぜんに目を向けた。勿論暗くて何も見えなかったのだが、それでもいるはずの楊ぜんを凝視しようとした。
箍が外れているのではなく、自暴自棄なのだ。
玉泉の山奥で、誰に知られることもなくずっと過ごしてきた姫。いくら山奥とはいえ、ここは朝廷にから差ほど遠いというわけでもない。一時は紂王が迎えようとしたにもかかわらず、行方をくらましていたという姫。今、すべては終わったとぽつりと呟くようにいう彼女自身に伏羲は初めて興味を持った。
「おぬし、いつからここにおるのだ」
「生まれたときから」
思い着物の下には薄いからだ。さらさらと流れる髪は長く、するりと真っ直ぐに伸びる。その冷たい感触を伏羲は楽しんだ。
「一度も外に出てはおらぬか?」
肌はやわらかく上等のきぬのように滑らかで。
「小さな頃に、一度だけ。それから養父がわたくしを隠したのです」
「そのときに紂王に見初められたのだな」
少しの静寂。
「ご存知なのですね」
楊ぜんはそういって目を閉じた。
「あなたは誰?」
「おぬしが名のなぬならわしの名も申さぬ」
「わたくしの名は……」
そのとき、一つの鋭い快楽が楊ぜんを襲った。
「あっ」
楊ぜんは小さく叫び、身をよじらせた。
伏羲はどうやら、笑ったらしかった。
「することが一つならば、言葉は要らぬであろう?」
それから、楊ぜんは本当に言葉を紡ぐ暇を与えられなかった。口から漏れるのは獣のような喘ぎ声ばかりで、まるで自分が人間でなくなってしまったように楊ぜんは感じる。
男の手は優しくて容赦なく楊ぜんを攻め立て、意識が真っ白になるまで楊ぜんはその愛撫を肌に感じた。
すべてが終わってからも、楊ぜんは男の腕の中で小さく息を切らしているのがやっとだった。
伏羲は楊ぜんの髪を味わうように指先でたどる。それが楊ぜんには刺激になるらしく時たま痙攣したように身を震わせていた。
「姫は初めてであったか」
こくんと楊ぜんは頷いた。
「……ひどい……。あんな事するなんて……」
「誘ったのは姫であろう」
「……だって、しらなかったもの……」
伏羲は楊ぜんの頬を軽く指の腹で撫でる。
「でも、気持ちよかったであろう」
楊ぜんはぎゅうっと身をこわばらせた。
「……いたかった……」
「始めはのぉ」
楊ぜんは黙り込んでしまった。
姫発もあんなことしたのだろうか。天化君もあんなことするのだろうか。師匠も……?宮仕えの女房達も男としての楊ぜんにあんなことを望んでいた?
なんだか、気持ち悪くなりそうだ。
「日の開ける前に、かえる約束であったな」
伏羲は口を開いた。楊ぜんは少しばかり心細くなる。今、自分を抱きしめるこの心地よい体温を手放したくなかった。
「まだ……立てません」
「では、ぎりぎりまでおぬしの側にいよう」
「あの」
ことんと楊ぜんは伏羲の胸に自分の頭を押し付けてみる。伏羲の胸は硬い。やわらかでふにゃふやした自分と違って。
「ん?」
「わたくしは、女性、ですか」
一語一語区切るように楊ぜんは言った。
「わしにとっては、な」
「では、わたくしもあなたのまえでだけ、存在しましょう」
楊ぜんは微笑んだ。まだ、女性には戻らない。だけれど。
名前も知らない誰かとの恋愛遊戯は、楊ぜんにとって無責任に女性でいられる息抜きのように感じられた。養父の目を盗んで逢引をするスリルもあった。
「おぬし。可愛いことを言うのぉ」
「でも……今度はあんなことは嫌です」
「わしは、なんどでもおぬしが欲しい」
楊ぜんは少し膨れて伏羲を見上げる
「……。……乱暴なんだもの」
楊ぜんは伏羲の着物を引っかいた。
「次はやさしくする。もう、痛くなどないように」
「では、月のない夜に」
「まだ、おぬしの顔を見てはならぬのか」
「……はい」
最後に伏羲は楊ぜんの頭を引き寄せて強引に口付けた。
楊ぜんは無駄にもがいてじたばたした。
「やはりあなたは、乱暴者です。繊細さのかけらもない野蛮人です!」
「それも好きなのであろう」
けろりとして伏羲は言った。
「莫迦!」
「ちゃんと、閨でいいといっておったではないか」
さぁっと楊ぜんの顔は真っ赤になった。頭がくらくらしたけれど、顔に血が上りすぎたせいなのか、怒りのせいなのか楊ぜんにはよくわからない。
「大莫迦者っ!」
楊ぜんは叫んだ。そして、本気で台所に塩を取りに行った。
楊ぜんが塩を取ってきたときには伏羲はもういなくなっていた。
「ああ、もぉ……なんなんだ一体」
☆
「あれぇ、お師匠様ご機嫌ですね」
翌朝、珍しくにやけている伏羲を見つけて武吉は声をかけた。
「面白い女を見つけた」
「へえ。美しい方ですか」
「いや、顔はわからぬ」
「はぁ」
武吉がきょとんとしたので伏羲はますます上機嫌に笑った。
「しかし、美しいのであろうな」
「なんですか、それ」
「玉泉の姫君だよ」
「いらしたんですか、本当に」
「いらしたようだのぉ」
「楊ぜん様と関係のあるお方ですか」
「妹とか言っておった」
武吉は再びきょとんとした。
「聞いたことないですよ」
「隠れて生きてきたのだという。わしの前でだけ存在すると可愛いことを言いおった」
「は、はぁ……」
武吉はその手の話は苦手らしくしどろもどろになった。
「いい気晴らしになろう。都に戻され腹の探り合いにうんざりさせられるかと思っておったが思わぬ収穫だ。面白い奴でのぉ」
「……」
「わしのことを大莫迦者と罵るのだ。きっと可愛い顔をしていったのだろうのぉ」
「……罵られたのに可愛いんですか……?」
「おぬしにも、そのうち判るよ」
伏羲はそういうと少しばかり考え込んだ。
「しかし、姫が玉泉から離れなければ、さすがの妲己も手が出せまい。何のつもりでほのめかしたのであろうな……」
宮中で、妲己が玉泉山の姫のことを口に出したのは、殺人予告のような物だと考えたのだが、違ったのだろうか。いくら妲己でも皇后の身分ではうかつに外に出ることなどできないはずなのである。刺客を差し向けるにも少々無理があると思えた。
「姫に外に出るなと釘をさしておくか……」
釘などささずとも、あの様子では外に出るようには思えなかったが。
☆
午後、朝廷に顔を出せば、楊ぜんが困ったかおをして女房達と押し問答していた。
「ですから、僕はそういうのは苦手で」
「でも、皇后様がぜひ楊ぜん様もお招きをと」
伏羲は怪訝そうにそちらを見つめた。妲己が楊ぜんともども玉泉山の姫も歌会に招くのかと警戒して。それにしても、兄弟だけあって楊ぜんの声は姫の声とよく似ていた。
「駄目だよ。こいつは、それより俺誘ってくれよ」
にまにまと姫発が割って入った。
「ええ、姫発様もぜひ、楊ぜん様とご一緒に……」
「わかってるって、プリンちゃん。縄かけてでもひっぱってくからよ」
「まぁ」
けたけたと笑いながら女房達は去っていった。
「ちょっと、姫発。僕は行きませんよ」
「わかってるって、おまえは当日頭痛で寝込んでるってことにしといてやるから」
楊ぜんの剣幕に、あっけらかんと姫発は答える。
「そんな。妲己様の催しものを断れるわけがないでしょう」
「びょーきなら大丈夫だって。おまえ昨日も休んでたから、明日か明後日も休んで体調が優れないってことにしとけ。なら誰も疑わねーよ」
「あとあと僕が困るんです!」
ふーんと、姫発は楊ぜんを見た。それからにやりと笑う。
「な、相手はどこの女だ」
「はぁ?」
楊ぜんは素っ頓狂な声を出した。
「おまえさぁ、今日は妙に色っぽいからさぁ。俺はぴんと来たわけ」
「何が着たんです」
だからさぁといいつつ姫発は楊ぜんの背中をバンバンと叩いた。
「俺にだけは隠し事すんなって。ダチだろ。な」
「なんなんですか」
楊ぜんは迷惑そうに姫発から逃げようとする。
「おまえもとうとう男になったんだろ」
「僕ははじめから男ですけど」
どぎまぎして楊ぜんは言った。
「ちげーよ、莫迦。これができたんだろ」
そういって姫発は小指をピンと立てた。
「女嫌いで有名な楊ぜん様を振り向かせたのはどこの女だよ」
「え、楊ぜんさんに彼女ができたさ?」
天化が気がついて振り向いた。そのほかにもわらわらと人が寄る。伏羲もそれに乗じて楊ぜんの側まで寄ってみた。どこかで姫と同じ香りがした。取り立てて珍しい香ではないからあっても不思議ではないのだが。
楊ぜんは集まってきた人々を警戒するように見回し、それからぐいと姫発の服の袖をひっぱって小声で囁いた。
「そ、そういうのって。見て判る物なのかい?」
「まあな」
楊ぜんは自分が男の格好をしているのも忘れて口を抑えた。では、昨日の狂態はすべてここにいる皆に知れ渡っているのか。皆、みんな、知って……
眩暈でくらくらした。
目の前が真っ暗になった。
そのまま楊ぜんは見事にばたんとひっくり返りそうになり。
「楊ぜん!どうしたんだよ。おい。おまえ本当に具合悪かったのかっ!」
姫発が慌てて抱きかかえようとし。
その前に、ちょうど楊ぜんの真後ろにいた伏羲が成り行きで楊ぜんを抱きとめた。
「……」
人がわらわらと集まってくる中、伏羲はキツネにつままれたように気を失って自分の腕の中にある楊ぜんをじっと見下ろした。
「……姫?」
next.
novel.
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