逢瀬
……05
目が覚めると見知らぬ部屋にいた。
楊ぜんは怪訝そうにあたりを見回し、ゆっくりと起き上がる。部屋は広いが殺風景で寒寒とした感じすら抱かせた。
「これは……」
朝廷で気が遠くなったことをうっすらと覚えている。それから、どうなったのだろう。この感じだと、誰かの家に運ばれたのか。姫発の家ならば知っているし、黄家がこんなに殺風景だとも思えない。しかし、楊ぜんが割と親しく付き合っている人物は姫発と黄天化の二人くらいのものである。
この家はそのどちらでもない。
「ああっ。目が覚めましたか、楊ぜんさん」
部屋に入ってきたのは少年だった。誰なのか楊ぜんにはわからない。怪訝に思ってじっと見つめると、純情そうな少年は顔を赤くした。
「今、お師匠様を呼んで来ます」
師匠……?不意に頭の中に玉鼎真人の顔が浮かんだ。師匠も昨日のことに気がついたのだろうか。今朝は楊ぜんがうっかり寝過ごしてしまったせいでろくに挨拶もできなかったのだけれど。
考え事をしていた楊ぜんは、香のにおいに顔を上げる。誰かが来たらしい。少年の言った師匠という人物だろうか。でも、この香は……
ふと楊ぜんは思い出した。
この香は昨日の男の物だ。
では、あの男は楊ぜんが良く顔を見合わせている人物なのか?
どきどきと心臓が騒ぎ出した。
「姫、目が覚めたか」
どきんと、心臓が大きくはねた。
この声。
昨日の男だ。
何者。
誰。
楊ぜんを知っているのか。
「あ……」
声がかすれて上手く出ない。
「あなたは」
酷く苦しい。逃げ出したいと思った。
「誰?」
そして、怖い。
「さあ、誰であろう。自分が誰なのかをわかっている人間など、はたしてこの世にいるものであろうか」
からかうような男の声。
そして、入ってきた男。背は低く華奢な体格。しかし、身体の華奢をそう思わせない強い強い瞳。
楊ぜんは強い眩暈を覚えた。
「……伏羲」
なんてことだろう。よりによってうかつにも昨夜自分が身を任せた男は、悪名高い妲己の愛人だったのだ。
「姫、どうしたというのだ。顔色が真っ青だ」
伏羲の声が遠くに聞こえる。楊ぜんは返事をする気にもなれない。
「困ったのぉ。やっと姫の顔が見られるというのに」
伏羲は楊ぜんの頬に手を伸ばす。
「触らないで」
楊ぜんは低く言って顔をそむけた。
「失礼です。僕は姫なんかじゃない」
「わしの前では存在するといったであろう」
楊ぜんはわずかに唇をかみ締める。何でこんな男と褥を共にしたりしたのだろう。どうして、この可能性に思い至らなかったのだろう。
「妲己の愛人なんかに用はない」
楊ぜんは伏羲を睨みつけた。伏羲はその視線を不機嫌そうに受け止める。
「おぬしがわしと妲己の何を知っているというのだ」
氷のように冷たく鋭く言い放った。楊ぜんは伏羲の様子に一瞬だけ鼻白み、そのことが余計悔しくて伏羲を睨み返す。
と、伏羲は笑った。
「否。済まなかったな。だから、そんな可愛らしい顔をするでないよ。だがのぉ、姫。おぬしがどこでどんな話を聞かされたのかは知らぬが、世の中の噂など当てにならぬものだ」
睨みつけたところを可愛いといわれ、ますます不機嫌になった楊ぜんは伏羲を睨みながら短く言った。
「姫なんかじゃない。楊ぜんです」
「そうか、ならば。楊ぜん」
伏羲は心持残念そうに言い直した。
「あなたは、判っていたのですね。僕が女だってこと判って、それで昨日……僕のこと、からかって。……あの……あんなこと……、なさったのでしょう」
怒りのためなのか羞恥心のためなのか、とにかく顔から火が出そうだ。
「否。わしは知らなかったよ。わしは『玉泉の姫』似合いに行き、おぬしを見つけただけだ。知っていたとすれば。妲己だ」
楊ぜんはきょとんとした。
「妲己様が……?」
「あやつは殺人淫楽だ」
「さつじんいんらく……?」
楊ぜんは怪訝そうに繰り返す。
「人を殺して快楽をえる病気のようなものだ。あやつはかなりの女御や更衣を手にかけてきた」
「……あれだけ高い地位にあり、美しく、陛下のご寵愛を一身に受けているような方が、何故……?」
伏羲は皮肉のように笑った。
「何故。そのようなこと関係ない。あやつは殺すこと自体が目的でそれでどうしようなどとは思っておらぬ。しかし、手口も巧妙で信服している者も多い。それで今まで大事にはならなかっただけだ」
「では、昨夜僕が危険だといったのは……」
「真だよ」
楊ぜんはしばらく黙り込んで考えていた。それから真っ直ぐに太公望を見つめた。
「何故あなたがそれをご存知なのです」
「それは……」
伏羲は言いよどんだ。楊ぜんは息を詰めて伏羲の次の台詞を待つ。
「妲己がわしの姉だからだ」
楊ぜんは伏羲に視線を置いたままで囁いた。
「それでは……。それでは、あなたが僕を殺しに来たのですか」
殺されるのかもしれない。今、ここで。そう思わせるほどこの男は、研ぎ澄ました刃物のように鋭い。
「否」
伏羲は淋しそうに言った。
「わしはおぬしを助けに行ったつもりだった。信用してはくれぬか」
「何故」
「何故?」
「何故、あなたは僕を助けるのです」
日は暮れようとしている。薄らぼんやりと伏羲の顔が闇に浮かぶ。
「嫌だから、では、駄目か。わしは人が死ぬのが嫌なのだ」
楊ぜんは、逢魔時の闇の中で、静かに笑った。
「いいえ。僕も、嫌です」
「あなたは、妲己をどうするおつもりなのです」
すでに日は暮れてしまった。曇り空に月も見えない。初めて会った闇の中で楊ぜんは静かに言葉を紡いだ。
「やめさせる」
「殺人淫楽とはなおらぬ病気なのでしょう」
「やむを得ぬときには、やむを得ぬ」
「血を分けた姉君を殺すのですか」
「仕方がなかろう」
伏羲は言った。表情は見えなかった。つらそうな顔をしているのだろうかと楊ぜんは考える。
「僕に一つだけ、提案があります」
「何?」
何も見えない闇の中で伏羲の視線が自分の上にあると、楊ぜんは感じた。
「僕が、入内しましょう」
「な……」
「紂王陛下の寵を得る自信はあります」
大胆なことに楊ぜんはきっぱりと言い切って微笑んで見せた。勿論伏羲に見えるはずもなかったが。
「何を言う!お主自ら敵の手に落ちるつもりか!」
「これでも多少の嗜みはあります。逆に僕が妲己を討ちましょう」
「ならぬ、あやつの手下のことをおぬしはわかっておらぬ」
「あなたも僕の実力のことをわかっていない!」
「駄目だ」
伏羲は言い捨てた。
「何故!」
「楊ぜん。おぬしは逃げよ」
楊ぜんは伏羲を、伏羲がいると思われるほうを睨んだ。
「あなたはそうやって、ずっと逃げつづけるおつもりですか!」
「否!妲己はわしが討つ。これはおぬしのかかわることではない!」
「僕は、もう、十分関わっています。女だと思って莫迦にするのですか!」
「判らぬ女子だ。可愛くもない!」
伏羲はそういうと、楊ぜんの腕をつかみ、彼女が抵抗するまもなく自分の身体の下に敷きこんだ。
「何をするのです!」
楊ぜんは悲鳴をあげる。いんいんと闇に響いた。
「これで自分の力がわかったであろう!女だからと莫迦にしておるわけではない。非力なものを非力だと言ったまでだ」
少しも敵わなかった自分が、憎らしく悔しかった。
「また昨夜のように無礼をはたらくつもりですか!」
悔し紛れに楊ぜんは叫んだ。
「男とは皆、こうするものだよ。姫」
きっとなって楊ぜんは叫ぶ。
「姫などと呼ぶな!」
「わしがどう呼ぼうが、おぬしは姫であることにかわはなかろう」
伏羲はそっと楊ぜんの頬をなぞる。
「嫌っ!」
「少々おとなしくしておれ。わしのために」
「何であなたのためになんかっ……」
楊ぜんはなおも伏羲の身体の下であがいた。
「困ったのぉ」
ぽつん。伏羲は言った。
「わしはどうやら本気でおぬしに惚れておるようだ」
楊ぜんはぽかんとして、自分の真上にいるのであろう伏羲を見つめた。
next.
novel.
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