逢瀬



……06



 けだるい熱の冷めない身体をもてあまして楊ぜんはぼんやりと天井を見上げていた。伏羲がごそごそと動き出すのに気がついて楊ぜんは呟く。
「酷い……こんなことでうやむやにするなんて」
「しかたなかろう、なりゆきだ」
 あっさりと伏羲は言ってのけた。
「……さいてい」
「そのようなこと申しても、わしはてっきりおぬしが誘惑しておるのかと……」
「してませんっ!」
 とぼけたことを言い出す伏羲に怒って楊ぜんは勢い良く身を起こし、腰のあたりにずきりとした痛みを感じて小さく悲鳴を上げた。
「大丈夫か、おぬし」
「あなたのせいでしょう」
 楊ぜんは思いっきり伏羲を睨みつける。
「だから心配しておるのではないか」
 伏羲はけろりとしてそう言った。
 楊ぜんはなんだか無性に頭に来て、伏羲をはったおそうとした。むかつくことに伏羲は抵抗する気もなさそうに押し倒されてからにやりと笑った。
「乱暴だのぉ」
 その一言に完全に頭に血が上った楊ぜんは伏羲の細い首に手をかけようとする。
「この変態っ。人が真面目な話をしようとしていたときにあんな事するなんて!」
「これ、やめぬか」
 伏羲は言った。
「これはこれでいい眺めだが少々やりすぎだ」
「は?」
 意味のわからない伏羲の一言に楊ぜんは伏羲の首から手を離し、そして漸く自分が何も身にまとわずに伏羲にのしかかっていることに気がついた。驚きと羞恥心が脳に達するまでにわずかばかりの差。
「え。あっ。あ……。いやあああああぁっ!」
 次の瞬間楊ぜんは凄まじい悲鳴をあげた。
「だあほ」
 伏羲は慌てて起き上がると手で楊ぜんの口をふさぐ。
「なんて声を出すのだ」
「いやっ!」
 楊ぜんはいまさらながら自分の胸を庇うように抱きしめた。
「おぬし今更なにをしておる」
「だって」
 楊ぜんは膨れる。
 そこにガラガラと引き戸が開いた。
「お師匠様。何かありまし……あ」
 ものすごい悲鳴に師を心配し駆けつけた弟子は、目の前に広がるかなり拙い光景に一瞬だけ固まった。
「うわっ、わ、わ」
 ごくりと唾液を飲み込んで武吉はくるりと後ろを向くと早口でまくし立てる。
「すみません。ごめんなさいっ!僕は何も見てません!本当に何も見ませんでしたっ!」
 それからわたわたと逃げ出していった。
「武吉め、慌ておって」
 伏羲は口を開く。そして楊ぜんの方へ視線を向けた。
「楊ぜん、あやつは信用できる。大丈夫……。楊ぜん?」
 視線の先の楊ぜんは、この場から消えてなくなってしまいたいとでも言うかのようにひざを抱きしめてぎゅうっと小さく縮こまっていた。
「何をやっておるのだ、おぬし」
「……見られた」
「ああ、だがあやつは信用できると……」
「そういう問題じゃない!」
 伏羲は楊ぜんをじっと見つめ、それから小さくため息をついて言った。
「まあ良い。気の済むまでこうしていてやろう」
 小さな手が楊ぜんの髪を撫ぜた。
 とんっと楊ぜんは伏羲の硬い胸を叩く。
「どうした?」
「酷い。どうしてこんなときだけ優しいんですか」



 頭を撫でられていると、ふと子供のころのことを思い出した。あの時は師匠がこっそり剣術を教えてくれた。あのころまだ楊ぜんは本当の女の子だった。
 今は、今はどうなのだろう。
 楊ぜんに酷いことばかりする伏羲は、たまにどうしようもなく優しくて。なんだかとても、ずるいと思う。
 頭、撫でられるのって気持ちがいい。とくんとくんと伏羲の心臓の音が聞こえる。ああ、この人も生きている。あたりまえのことになぜかとても安堵して。
「あ」
 今、凄く嫌なことが。
「伏羲、あなた」
「どうした、楊ぜん」
「妲己を殺すということは」
 皇后を殺すということは。
「あなたも死ぬってことじゃないですか」
 確実に死罪になるってことじゃないだろうか。
 伏羲は笑った。軽い笑い。
「それも良かろう。この先幾人もの姫が死ぬよりは」
「そんなの」
 伏羲にもたれかかっていた楊ぜんは身を起こした。
「あなたには似合わない。あなたはそんな偽善者じゃないっ!」
 伏羲はそっと楊ぜんの頬を撫ぜた。
「姫にわしの何がわかる」
「判りませんよ。あなた、わかってもらおうとしてない。それじゃ、誰もわかってくれない!」
 伏羲は黙って楊ぜんを見つめた。
「あなたは自分を表に出していない。何十にも取り繕ってる。卑怯なんだ。だから平気で自分が死ぬなんていう選択肢を導き出せるんだ!」
「姫、ひめ……」
 伏羲はもう一度、楊ぜんの頬を撫ぜる。否、違う。涙が。
 唐突に楊ぜんは気がついた。今、自分は、泣いているのだと。
「違う。違うんです」
 涙声で楊ぜんは言った。
「みんな、僕なんです。卑怯なのは、僕なんです……」
「楊ぜん」
 伏羲はそっと楊ぜんを抱きしめる。しゃくりあげながら楊ぜんは言った。
「僕が……僕が、怖かったから。姫発も、天化君も、みんな好きだったけど。怖くて、騙してたから、本当に自分でいたことなんかなかったから……あ、あなた……あなたが、初めて僕を見てくれたから……僕は」
 ぎゅいっと楊ぜんは目をこすった。それから身を起こす。
「あなた、僕に惚れてるって言いましたね」
「言った」
「人が死ぬのが嫌だって言いましたよね」
「言った」
「ならば。ならば誰も殺さないで。あなたも、あなた以外の人も、誰も殺さないで。僕は姫でもかまわない。一生あなたの籠の中ですごしましょう」
「籠の鳥か」
 伏羲は薄く笑ってそういい、それからぽつりと呟いた。
「そうか、そういう手もあるか。楊ぜん一つ芝居を演じてみるか」



    ☆



 さて、それより三日の後。

「恐れながら紂王陛下に申し上げます。ここにおりますのははるか西方より招きましたる世にも珍しき女祈祷師。その腕もさることながらその美貌もかくやと思わせる美しさ。是非陛下にもご覧頂こうとはるばる連れてまいりました」
 朝廷の床に深深と頭をつけ、黒尽くめの男はそう言った。
「そうか、美貌の祈祷師か。確かに珍しい。顔を上げよ伏羲。それから、その祈祷師とやらも」
「やあん。紂王様ったら祈祷よりも美貌の方に興味がおありなのですわ」
 ちらちらと伏羲を窺いながら妲己は茶化すようにそう言った。
「何を言うか妲己。妲己以外の女子になど余は興味がない」
「いやん。紂王様大好き」
 こほんと伏羲は一つ咳払いをした。伏羲に紹介された祈祷師はおもむろに顔を上げる。長い髪を奇妙な形に結い上げ、異国風の化粧に彩られた顔は素顔を隠してしまっているが、相当美しいということが窺える。珍しい香がした。
「これは……」
 紂王は思わず息を呑んだ。
「しかしこれでは素顔がわからぬぞ」
「恐れながら」
 祈祷師は片言に口を開く。言わずと知れた楊ぜんである。
「化粧には呪が宿っております。とることは叶いま……あっ」
 楊ぜんは小さく声をあげ妲己を見つめた。
「獣のにおいがいたします」
「獣?そのようなはずはない。いや、そういえば女御には猫を飼っているものがいたか。しかしここまでは猫もこないはずだ」
 楊ぜんは首を振った。耳につけた大きな飾りがシャランと音を立てた。
「いえ、これは……狐でございます」
「狐?このような場所に狐など入ってくるものか」
 紂王は顔をしかめる。
「いいえ、恐れながら申し上げます。皇后殿下には、おそらくたちの悪い狐がついておられる」
「いやん。酷いですわ……」
「女、妲己を愚弄する気か!」
「陛下!落ち着きください。この者ははるか西方の宮中をその力で救ったという大祈祷師。まずは話を聞いてからでも遅くはないかと!」
 伏羲が声をあげた。勿論真っ赤な嘘である。
 しんとしたところで楊ぜんは静かに口を開く。
「殿下を愚弄する気はございません。つかれたとなれば殿下もまた被害者」
「わらわは狐つきなどではありません!」
 楊ぜんはすぅっと目を細めた。
「あなたには血がついている」
「なっ……」
「見えますよ。昨年の弥生にいなくなった更衣は鴨川の土手、一昨年の女御は、琵琶湖に沈めましたか……」
 これはすべて妲己自ら伏羲に語ったことであるから、指摘できるのはあたりまえである。しかし、伏羲と妲己の関係を知らぬものから見れば、楊ぜんが死体を埋めた場所を、妲己を見つめて即答したと見えるだろう。まして楊ぜんは異国から来て女御や更衣が消えるという事件を知らないことになっているのだ。
「それは真か!」
「お望みであれば狐の仕業をすべてお聞かせいたします。掘り起こせば骨が出てくるはずでございます」
「わ……わらわはそのようなこと知りません!」
「ええ、知らないでしょうとも」
 楊ぜんは悠然と微笑んで見せた。
「狐は殿下の意識をのっとって行動するのです。狐が表に出ているときに殿下の意識はございません。ですから殿下は被害者なのです。その美しさに狐に見込まれてしまいましたのでしょう」
「なんと!では妲己は大丈夫なのか」
「陛下!わらわは物の怪など!」
「否、妲己。余は妲己が心配なのだ」
 心の中でくすりと伏羲はほくそえんだ。
 紂王は、すでにこちらの術にかかった。
「物の怪に憑かれることは決してよいことではございません。まして狐となれば、いずれその身をのっとられてしまうことでしょう」
「なんとしても妲己を助けてくれ」
「陛下!」
 すでに妲己の言葉は中央に届いていない。妲己を心配するあまり妲己の言葉が届かない。皮肉なことだと腹の中で伏羲は笑った。
 楊ぜんは薄く顔を曇らせる。
「しかし、これほどの物の怪となると……」
「よし。陰陽師にも加勢させよう」
 楊ぜんは首を振る。シャランと音がする。
「なりません。扱う呪が違います。まして、これほどの物の怪ならば見えるものも失礼ながらおりますまい」
「力が強ければ見えぬのか」
「力の強い物の怪は姿を隠す術をわきまえております」
「なんと!では余はどうすればよい!狐を落としてくれるというのなら褒美はいくらでも出す!」
 半狂乱で紂王は叫んだ。
 楊ぜんは考え込むように俯く。
「残念ながら陛下。私の力をもってしてでもこの物の怪は落とせません。しかし、一つだけ方法がございます」
「そ、その方法とは?」
「まず、妲己様をお一人になされませんよう。必ず数名を同行頂くことです。狐の力は強い物でございます。なるべく、それまでの殿下の取り巻きとは違った方を、それから」
「判った、それから?」
「遠方より、私の師を呼び寄せましょう。師なら落とせるはずです」

next.

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