砂に埋もれた硝子の欠片
――01.
その寝室にはカーテン越しに明るい日差しが差し込んでいた。薄いクリームイエローのカーテンと白いレースのカーテンを二枚同時に楊ぜんは開け放つ。差し込む日差しはまだやわらかくて、楊ぜんはうーんっと伸びをするとくるりと部屋の中、寝台で眠っている人物を眺めた。あ、眩しそう。思いっきり日差しがあたってしまう顔の陰になるように立ってみる。
これできっと眩しくないはず。って、いけない。僕、起こしに来たんだっけ。
そぉっと眠っている人物に近づいてみる。伏羲様。楊ぜんのご主人様。白いシーツに埋もれて眠る寝顔は気持ちよさそうで、起こすのが可哀想になってくる。楊ぜんはそぉっとその肩に手をかけた。
「ご主人様……伏羲様……朝ですよ」
「うぬ……」
伏羲もぞもぞと寝返りをうち、それから一つうなづくと、ゆっくり起き上がってにこりと微笑んだ。
「おはよう。今日は楊ぜんであったか」
この屋敷にメイドは二人いる。もう一人は蝉玉という元気な女の子だ。伏羲を起こす係りは交代制になっている。
「おはようございます。ご主人様」
楊ぜんはにっこり笑って着替えを差し出す。
「ありがとう。楊ぜん。おぬしは気が利くのぉ」
誉められて嬉しくて楊ぜんはほんのり赤くなった。そんな楊ぜんを見て伏羲はにこりと笑う。
「水を一杯くれぬか」
「はい」
部屋に置いてある水差しから水を汲んで、楊ぜんは伏羲に手渡す。それを受け取りながら伏羲は口を開いた。
「もう、おぬしが来てから一年になるのではないか」
そう。楊ぜんがこの屋敷で働くようになったのは去年の夏の終わりの頃だ。一年前は施設にいた。
楊ぜんには両親がいなかった。生物学的な意味ではいるのかもしれないが、楊ぜんには判らない。楊ぜんはコインロッカーに捨てられた捨て子だった。深夜だった。たまたま通りかかって子供の弱弱しい泣き声に気がついた駅員が楊ぜんを見つけたのだ。あと一時間発見が遅ければ衰弱死していたはずだった。
夜中にこっそり園長先生と教頭先生がその話をしているのを立ち聞きしてしまったときの、背中に冷や水でも浴びせられたような、心の奥から凍っていくような感覚を楊ぜんは今でも覚えている。
楊ぜんにはいつか迎えに来るはずの父と母はいなかった。
「楊ぜん、どうしたのだ?」
伏羲に声をかけられて楊ぜんは我に返った。嫌なことを思い出していた。
「何でもありません」
楊ぜんはにっこりと笑う。伏羲は黙って楊ぜんを見つめた。その瞳に見つめられると、ご主人様はいつも楊ぜんの考えていることなんかお見通しなのかもしれないと楊ぜんは思う。
「おぬしの来た祝いに、なにかやろうか」
楊ぜんを見つめたまま伏羲は言った。青い瞳に吸い込まれるような錯覚を楊ぜんは感じる。
「だ、駄目ですよ。僕は使用人ですから」
赤くなって楊ぜんは首を振る。伏羲の目がすっと細くなった。立ち上がって、ぐるぐるとまるで犬にでもするみたいに楊ぜんの頭を撫ぜる。
「そういう可愛げのないこと言うでないよ」
空になったコップをテーブルにおき伏羲は楊ぜんに背を向けて着替え始めた。楊ぜんは赤くなりながらちらりと伏羲の背中を見る。
細い、小さな背中。子供みたいな体格。
そう、一年前から、ずっとこれを見てきた。
楊ぜんは伏羲の置いたコップをそっと手にとる。小さく、ため息が漏れた。
「可愛げがないなんて……本当のことだもの」
主人と使用人、否、その前に崑崙財閥の御曹司と孤児。今の世に身分などないというけれど、そんなのはたぶん嘘だ。
「だあほ。おぬしは十分可愛いよ」
着替え終わった伏羲はそういうと楊ぜんの頭に手を伸ばした。
「動くでないぞ。ずれてしまったからな」
あ、ヘッドドレス。さっきご主人様が頭をくしゃくしゃにしたから。向かい合わせで合わせてもらったせいで、目の前にある伏羲の顔。直視できず楊ぜんは俯いた。
「これ、動くでないといっておろう」
「すみません」
楊ぜんは足元を見ている。床張りに自分の黒い革靴。そろそろ磨かなきゃいけない。半歩ほど先に、ご主人様のスリッパ。物理的な距離はとても近い。わずかに相手の体温が感じ取れるほど近く。
「ほれ、もう動いても良いぞ」
伏羲は笑って楊ぜんから離れる。伏羲が一歩後ろに下がってから、楊ぜんは漸く顔を上げた。恥ずかしそうににっこり微笑む。いたずらっ子みたいにご主人様は笑った。
「ねぇ、楊ぜん。なにやってんのよぉ朝ご飯冷めちゃうじゃない!」
下から蝉玉の悲鳴じみた声が聞こえて、二人は顔を見合わせる。
「もぉっ!あんたはホントに甘いんだから。主人だからって甘やかしちゃ駄目よ。起きないときはね、ベッドから蹴り落とせばいいのっ!」
楊ぜんはきょとんとして伏羲を見る。
「蝉玉君は毎朝そうやって起こすんですか」
「たまにのぉ」
しれっと言って伏羲は下に降りていった。楊ぜんは首をひねって、それからシーツを取り替えるために再び寝台のほうに歩いていった。途中、鏡で頭をみる。ご主人様の直してくれたヘッドドレス。
くすっと楊ぜんは笑った。鏡の中のエプロン姿の少女も一緒に微笑んだ。
☆
楊ぜん。16歳。女中。俗に言うメイド。自分の両親すら知らない本当の意味での天涯孤独。
伏羲。21歳。崑崙財閥の一人息子。高校時代から天才プログラマとして名を馳せ、特許などでかなりの資産を持つ。
あまりにも違いすぎる二人。
絶対に叶うはずのない想いを、楊ぜんはもてあましている。
☆
パソコンのキーボードの上を伏羲の細い指が軽いタッチで滑っていく。機械なんか全然わからないけれど、その様を見ているのが楊ぜんは好きだった。パソコンのディスプレイを真剣に見つめる瞳。笑ったような口元。
プログラミングをしているときの伏羲は楽しそうだ。いたずらっ子みたいな表情。この表情、凄く好き。
「楊ぜん、コーヒーが欲しい」
ディスプレイから目を離さずに伏羲は楊ぜんに声をかける。
「はい」
楊ぜんはコーヒーを入れるために部屋を出ようとドアノブに手をかけた。
「のぉ、楊ぜん」
キーを叩いたまま、伏羲は振り向いく。子供みたいに笑って。
「どこか、連れて行ってやろうか」
「出歩くのは、お嫌いじゃなかったんですか?」
「おぬしと一緒なら、良いやも知れぬ」
とくんっと、心臓が音を立てた。
楊ぜんは黙って首を振る。思わず小さくため息とともに呟いた声。
「酷い」
「楊ぜん?」
伏羲は手を止めて楊ぜんを見た。
「期待しちゃうじゃないですか」
伏羲を見ないまま楊ぜんは呟く。反抗的な態度。自分の口から出た言葉に楊ぜんは赤くなる。何を期待するというのだろう。主人と使用人。あまりにも恐れ多い。そんなことを考えた自分が恥ずかしくて、できることなら今の台詞を伏羲の記憶から取り消してしまいたいと楊ぜんは思う。
「しても良いぞ」
低く囁かれた声はぞくぞくと楊ぜんの中で震えた。
椅子から立ち上がった伏羲。こちらに歩いてくる伏羲。動けない楊ぜん。
すべてがスローモーションになる。
こんなの。うそ。
楊ぜんがぎゅっと目を閉じたのと、その声がしたのがちょうど同時だった。
「ご主人様!電話!大旦那様から」
あっけらかんとした蝉玉の声。その場の緊張が一気に解けた。楊ぜんはほっと息をつく。でも、この淋しいような感覚はなんだろう。
「パソコンからつなぐ。回してくれ」
ため息混じりに伏羲は言って楊ぜんから離れていった。
うるさいくらいせみの声が聞こえた。
コマンドを打ち込めば、心臓に悪い元始天尊様のドアップ。
「ぬおっ!」
思わず悲鳴をあげた伏羲は、照れ隠しにか、いいところを邪魔しおってなんのようだじじいと悪態をついた。
『うつけめ。また、ゲームででも遊んでおったか』
「元始天尊様これはゲームではありませぬ」
『ほぉ、ではメイドにでも手を出しておったか』
「な、何をっ」
『図星か。まあよい。浮気はばれなければ、しても良いぞ』
ディスプレイの中の元始天尊はとんでもないことを言った。
「浮気?浮気とは何のことです!」
『ほれ、そこの髪の青い』
そう言ってディスプレイの中の元始天尊は楊ぜんを指差した。楊ぜんは慌ててぶるぶると首を振る。
「何故、楊ぜんのことを浮気相手といわれねばならぬのですか!」
『たわけ、おぬしには婚約者がおるであろう』
しばらくの沈黙。楊ぜんは頭の中が真っ白になった。が、どうやらそれは伏羲も同じだったようだ。
と、ディスプレイの中のおちゃめなおじいさんは、しまったという顔をした。
『嗚呼……。もしかしたら。言うのを忘れておったやものぉ……』
とぼけるつもりらしい。目が泳いでいる。
「今、なんと?」
『だ、だから。ついうっかり肝心のおぬしに言うのを忘れておったかのぉと。……おっ。おお。白鶴が呼んでおる。済まぬが伏羲、悪く思うな。明日、先方がおぬしのもとに行くからいいようにせい』
「ま、待たぬか。くそジジイ!白鶴が呼んでおるなど嘘であろう!」
『おぬしとて、崑崙財閥に生まれたからには普通に恋愛結婚などできるとは思っておるまい』
そう言って一方的に電話は切れた。ディスプレイもまた暗くなる。
「だあほ!誰が政略結婚などっ」
パソコンに向かって伏羲は叫ぶ。それから楊ぜんの方を振り返った。早足で壁際に立っていた楊ぜんに歩み寄る。
「楊ぜん、わしはおぬ……」
楊ぜんは無理矢理伏羲の台詞をさえぎる。
「ご婚約おめでとうございます。ご主人様」
ぺこりと頭を下げて、楊ぜんはその場から逃げ出した。ふわりと翻ったほとんど黒に近い濃紺のスカートが、まるで残像のように見えた。
釣り合わぬは不縁の元。
そんなの、はじめからわかってたじゃないか。
☆
その晩。使用人部屋で楊ぜんはひざを抱えていた。蝉玉と楊ぜん二人の部屋。
「あんたさぁ。どうしちゃったのよ」
蝉玉が話し掛けると楊ぜんはよりいっそう小さくなった。誰とも話したくなんかない。黙って。放っておいて。
「ご主人様にセクハラされたとか?あんた目、つけられてるもんね」
楊ぜんはぐるぐる首を振る。
「違うの?お尻さわられたりとかしてない?」
「ご主人様はそんなことしない。……蝉玉君はそんなことされたの?」
「まっさかぁ」
蝉玉はだははと笑った。
「あいつが興味あんのは楊ぜんだけよ。あいつ私のこと女だと思ってないもん」
楊ぜんは黙り込む。そんな話聞きたくない。
「でも、じゃ、何であんた落ち込んでんのよ。電話の後からよね。私に当番代わらせてご主人様とあわないようにしてたの。あの電話、なんかあったの?」
楊ぜんはこくんと頷いた。
「借金の督促状とか?」
「ご主人様に返せない借金なんかないよ」
「じゃ、隠してたはずかしい過去がばれたとか」
「なんだよそれ」
「うーん。怒んないでよ。……売春とかさ」
「やってないっ!」
楊ぜんは顔を上げて怒鳴った。
「うう。怒んないでって言ったのに」
「怒るよ!」
「ご、ごめん。悪かった。じゃ、あんた処女なんだ」
「悪い?」
「悪くないってば。でも、じゃあ、なんだったのよ。その電話」
一瞬の沈黙。
「……婚約者がいた」
楊ぜんはまたしおれて足の指の先を見つめる。
「誰に?」
「ご主人様」
蝉玉はちらりと楊ぜんを見た。
「ふーん。……ん?ご主人様に婚約者がいて、何であんたが落ち込むのよ。げっ。あんた、ひょっとして、ご主人様のこと好きだったのぉ!」
「その、げっ、て何?」
楊ぜんはまた顔を上げる。
「あ……いやぁ……。そうね。好みは人それぞれよね。蓼食う虫も好き好きっていうしね」
「なんか、蝉玉君にだけは言われたくないなぁそれ」
「え、なんで?」
蝉玉はきょとんとした。まさか蝉玉の趣味は理解不能だとも言えず楊ぜんは再び黙り込んむ。
「まぁいいや。ご主人様に婚約者ね。どんな人なの?」
「知らない」
「はい?」
蝉玉は聞き返した。
「ご主人様も知らないみたいだし、大旦那様が勝手に決めちゃったらしいから」
ちなみに大旦那様は元始天尊様のことである。
蝉玉はなにやら考えていたようだがやがて口を開いた。
「ふうん。じゃ、楊ぜん。あんた、今からご主人様襲いに行きなさい」
「は?」
わけのわからない言葉に楊ぜんはまじまじと蝉玉を見る。
「何が、は?なの。ほらちゃんと制服着て。あ、下着は勝負下着ね」
「な、何、しょうぶ……?」
楊ぜんが混乱している間に蝉玉は勝手に楊ぜんの箪笥の中をがさごそとやり始めた。
蝉玉を止めようと楊ぜんは立ち上がる。
「もぉ、楊ぜん。何でもっと色っぽい下着もっとかないかな。こればっかりは貸してあげるともいえないし。ああっ。あんたメイドでしょ!」
「はい」
蝉玉の剣幕に楊ぜんは素直にこくりと頷いた。
「だったらなんでガータベルトがないの。メイドさんの風上にも置けないわ!」
「え、あ、あの」
がーたべるとって、何?
なにやら楊ぜんには判らないことが推し進められようとしているらしい。本能的な恐怖を楊ぜんは感じていた。
「仕方ないわね。今日はパスよ。明日下着買いに行くからね楊ぜん」
蝉玉は燃えている。
「駄目だよ。仕事が」
「サボるのよ。当然でしょう」
「でもご主人様に迷惑が……」
「ご主人様も喜ぶのっ!」
「そう、なの……?」
楊ぜんは困惑して泣き出しそうな顔をした。
「そうよ。いい?婚約者としてどこのお姫様がくるんだか知らないけどね。あんたのほうが絶対綺麗なんだから。それに世間知らずのお嬢様なんかより、私達みたいに細やかな気配りのできる女らしいメイドのほうが絶対男性にはうけるのよ!」
そう宣言して蝉玉は男らしくあぐらをかいた。
「任せときなさい楊ぜん。私があんたとご主人様くっつけてあげるから!」
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