砂に埋もれた硝子の欠片



――02.



 朝。楊ぜんはまた、眠っている伏羲を眺めている。蝉玉はあんなことを言うけれど、どう考えたって楊ぜんは自分が伏羲のまだ見ぬ婚約者に勝てるとは思えなかった。顔がちょっとばかり綺麗だったところでなんになるだろう。楊ぜんが駅に捨てられていた事実は変わらない。
 それに、ご主人様だって楊ぜんを恋人に、ましてや婚約者に選んだりしたら裏で陰口を叩かれるだろう。世間というものが決して美しくも綺麗でもないことを楊ぜんは知っている。孤児というものに対する、風当たりの強さも。
 ご主人様はたぶんきっと、楊ぜんのことが好きだ。
 独り善がりの自惚れではないと思う。楊ぜんは人の心の動きには鋭いほうだ。だけど、育ちのいい、いつも明るい光に囲まれている伏羲には楊ぜんのいる日陰がどのようなものかなんてわからない。そして、楊ぜんは伏羲にそんなものを見て欲しくなかった。楊ぜんのせいで伏羲が陰口を叩かれるなんて耐えられない。
 何も知らない、大好きなご主人様。
 だいすきな――
「楊ぜん」
 もそっと、布団が動いた。伏羲がじっと楊ぜんを見ていた。
「悲しい顔をしておる」
 そう言った伏羲のほうが、何故か辛そうな顔をしていた。
 楊ぜんはにっこり微笑んで首を振る。
「おぬしはたまに、そういう顔をしておるのぉ」
 伏羲は手を伸ばし、楊ぜんの腕をつかんだ。
「わしはおぬしからそれを消してやりたかった」
 それはきっと無理だろうと楊ぜんは思う。なぜならこの顔が、楊ぜんの本当の顔なのだから。
「ご主人様。すみません。起こしにきたのに、ぼーっとしていました」
「おはよう、楊ぜん」
「おはようございます。ご主人様」
「おぬし、昨日電話あと顔を合わせてくれなかったのぉ」
 楊ぜんは少し、顔を伏せた。
「のぉ、楊ぜん。昨日の続きなのだが……」
「ご主人様。早くしないと蝉玉君が昨日みたいに呼びにきますよ」
「……今日。ジジイのよこした女が来るのであろう」
 楊ぜんは俯いて黙り込んだ。黙り込んだ楊ぜんの手を伏羲はぐいっとつかんだ。
「楊ぜん。逃げよう」
 楊ぜんは顔を上げる。目の前にブラックホールのような伏羲の瞳。
「ご主人様……」
「出かけよう。連れてってやる。どこがいい?」
 一瞬その瞳に飲まれそうになった楊ぜんは、次の瞬間理性を取り戻す。
「駄目ですよ。大旦那様に怒られます」
「おぬしはわし付きのメイドであろう」
 いらいらしたように伏羲が声を荒げた。
「そう、ですけれど。でも駄目です」
「おぬしは、わしとジジイとどっちの言うことを聞くのだ」
 楊ぜんは伏羲を見つめた。悲しそうな瞳だった。
「ご主人様が幸せになるのが、僕は一番嬉しいです。だから、大旦那様の言うとおりに……」
 声が震えて聞き取りにくくなった。
「だあほ!わしの幸せはわしが決める。ジジイでもおぬしでもない!」
 楊ぜんは俯いて黙り込んだ。ご主人様は判ってない。この世はそんなに単純じゃない。
「楊ぜん。わしとともに逃げよ。わしはおぬしが好きだ。愛しておる。おぬしとてわかっておろう楊ぜん」
 楊ぜんは首を振った。涙がこぼれた。愛してる。なんて残酷な言葉だろう。決して結ばれないのが判っていながら、その言葉を聞かされるなんて。
「楊ぜん!」
 涙は止まらずあとからあとから滑り落ちた。
「命令だ。楊ぜん。ともに来い」
 伏羲は言った。楊ぜんは何も言わなかった。



     ☆



 伏羲の小さな車は海岸線を走っていく。もう季節はずれとなりかけた海はすいている。伏羲も楊ぜんも黙っていた。小さなブティックを一つ見つけて、伏羲は楊ぜんを伴って中に入る。ドアに取り付けられた鈴がチリンと音を立てた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなものをお探しですか」
 ショートボブの可愛らしい店員が声をかける。
「済まぬが、こやつを。上から下まで揃えてやってはくれぬか。わしは女の着るものは良くわからぬ」
 楊ぜんは驚いて伏羲を見た。
「あらぁ。彼女、幸せね」
 店員はにっこりと笑う。
「ご主人様、いけません」
「伏羲だよ。楊ぜん」
 店員に聞こえないように二人は囁く。
「どのようなものがお好きかしら。スタイルがいいから何でも似合うと思うけれど、今の感じだとおとなしいのが好みですか?だったら、アンティーク調でちょっと可愛いドレスがあるんだけど、ほら。これなんかどうでしょう」
 たちまち店員は二、三着の洋服を持ってきた。
「ね。小花が散ってて可愛いでしょう」
 楊ぜんは困った顔をして洋服を見る。
「着てみてはどうだ」
 伏羲が笑って促した。
「そう、着てみると印象が変わるものですよ。こっちもね、アイボリーでシンプルなんだけど、ほら、ここを寄せてあるから着てみたときのシルエットがとても綺麗なの」
「ご主人様、僕は……」
「楊ぜん。良いであろう。わしからのプレゼントだ。受け取ってくれぬか」
「でも」
 楊ぜんは困って目をそらす。ディスプレイの硝子の指輪。硝子とは思えないほどキラキラとひかって見えた。
「楊ぜん。これが欲しいのか?」
 楊ぜんの視線を追った伏羲は指輪を取り上げる。それはシンプルなリングだった。楊ぜんの手を取って薬指に。しかしそれはぶかぶかで、仕方なく中指にしっかりとおさまった。
 薬指じゃない中指の指輪。
 楊ぜんは伏羲を見てこくんと頷いた。
「はい。……欲しいです」
「ではこれと、さっきの……」
 伏羲は店員に呼びかける。
「ご主人様。僕指輪だけで……」
 慌てていった楊ぜんに伏羲は囁いた。
「だあほ。上から下まで揃えろといっておきながら。1500円の指輪だけで帰れるか。少しは男を立てることを考えよ」
 楊ぜんはきょとんと伏羲を見て、それから薄く微笑んだ。
「おぬしやっと笑ったのぉ」
 伏羲は嬉しそうに呟く。
「ほれ、服もちゃんと自分で選んでまいれ」
 結局楊ぜんは、アイボリーのドレスとそれにあわせたカーディガン、サンダルと先ほどの指輪を買ってもらって店を出た。服は試着室で着替えて、制服のほうを変わりに包んでもらった。
 荷物を抱えて車に戻る。
「おぬし、制服を脱いだのだから、もうご主人様などと呼んではならぬぞ」
「でも、ご主じ……あ」
 楊ぜんは手で口元を抑えた。
「わしのことは伏羲と呼ぶのだ」
 楊ぜんは伏羲を見つめ、それからちょっと赤くなって呟いた。
「伏羲……様……」
「どうした楊ぜん」
 楊ぜんは中指の指輪をくるくると回す。
「ありがとうございます」
「どういたしまして、楊ぜん。さあ、どこに行きたい?」
 楊ぜんはハンドルを握った伏羲の横顔を見る。危険。胸が騒ぐ。このままこの雰囲気に流されてしまったら、あとで傷つくのは楊ぜんで。でも。そんなことを考えている間にも楊ぜんの口は主人をあっさりと裏切っていた。
「海、みたいです。もっと海岸線まで」
「判った。行こう」
 車は走り出す。
 一日だけ。夢が見られるのなら……。
 砂浜だった。波打ち際に寄せては返す波。海は暗い青。空との境目が見えない。白い泡が砂浜に押し寄せる。
 コンクリートの階段を下りて、楊ぜんは砂の上に足を下ろす。サンダルを脱いだ素足に砂は少し暖かい。片手にサンダルもって、階段の上の伏羲を見上げる。
「ご主人様」
「伏羲」
「伏羲……様」
「何?」
「海です」
 伏羲は笑った。
「おぬしが来たいといったのであろう」
「本物の海見たのって、僕初めてなんです」
「もっと早く連れてきてやればよかったのぉ」
 楊ぜんは首を振る。
「僕、これだけで、十分幸せすぎて」
「だあほ。これからもっと、どこにだって連れて行ってやる」
 楊ぜんは黙った。口を開けばそれは無理だという現実的な言葉が出てきそうで、でも今だけは夢を見ていたかった。
「楊ぜん、こっちにおいで」
 いわれて楊ぜんは鉄の手すりに手をかける。
「ご主人様?」
「逆睫」
「あ」
「とってやるから、もう少しこっちへ」
 階段の上の伏羲に良く見えるように楊ぜんは軽く背伸びをする。伏羲の手は楊ぜんの頬をはさみこむように捕らえ、軽く顔を近づけ、そして。
「え」
 唇にやわらかい感覚。楊ぜんはとっさに目を閉じる。そのまま伏羲に頭を抱え込まれた。
「やっとつかまえた」
 唇を離して伏羲は囁く。
「おぬしはなかなか隙を与えてくれぬから」
 手すりにかけた手が、軽く震えた。
「駄目……です」
「嫌だ。もう離さぬ」
「ご主人様、許して」
「嫌だ」
「僕を苦しめないで」
「わしが守ってやる」
 楊ぜんは体の力を抜いて、ぐったりと伏羲にもたれかかった。
 潮風が二人の髪をさらい、頬を撫でていく。
「楊ぜん」
 伏羲はもう一度、楊ぜんの紅い唇に小さく口付けた。



     ☆



 二人を出迎えた蝉玉は当然のことながら怒っていた。
「大旦那様はもうかんかんで、勘当じゃーとか叫ぶし、婚約者のお嬢様は爬虫類みたいな顔で気色悪いし。私一人で本当に大変だったんだから」
「ジジイはともかく、お嬢様の顔はわしのせいではあるまい」
「何いってんの。自分の婚約者でしょう。さっさと婚約破棄して楊ぜんとくっついちゃいなさいよ」
「おぬしの言うほど簡単に物事は進まぬよ」
「あんたがそれだから楊ぜんが煮え切らないんだわ」
 主人をあんた呼ばわりして蝉玉は決め付けた。
「あれでも、かなり前進したのだぞ」
 伏羲はそう言って楊ぜんを見る。楊ぜんは話し込んでいる二人をよそに夕飯の支度に追われていた。さすがにもういつもの制服に着替えていたが指輪はそのままで、時折眺めては嬉しそうにくるくると回している。
「まあ可愛くなったのは認めるけどね。それはそうとご主人様。帰ってきたときに着てた楊ぜんの服は?」
「似合っておろう」
「そうじゃなくて。どうしたのよ」
「あやつがきてちょうど一年だから買ってやったのだ」
「ふぅん。私の時には何もしてくれなかったわよね」
 ぎくりと伏羲は蝉玉を見た。
「お、おぬしは……」
 伏羲は一つ咳払いをした。
「おぬしにはハニーがおるではないか。それなのにわしが物をやってはハニーに悪いであろう?」
「まあそれもそうね」
 蝉玉は簡単に納得する。
「まあ、恋愛に関しては私のほうが先輩なんだからなんだって聞いて頂戴よ」
 だははと笑って、蝉玉は楊ぜんを手伝いにキッチンへと歩いていった。
「爬虫類は……嫌だのぉ」
 伏羲は一人呟いた。それから元始天尊に連絡をとるために二階の仕事部屋へと足を運んだ。



     ☆



『たわけめっ!今の今まで何をしておった!』
 開口一番。元始天尊は叫んだ。
「楊ぜんと出かけておりました」
『楊ぜん?ああ、メイドじゃな。可愛い顔をしてようやりおる』
「わしが無理矢理連れ出したのです」
『何を考えておる。ばれなければ、浮気してもかまわぬといったであろう。やるなら上手くやれ』
「わしは楊ぜんを愛人などという地位に置くつもりもございませぬし、楊ぜん以外の妻も要りませぬ」
『おぬしの結婚には崑崙のすべてがかかっておる。おぬし一人の我侭が通るわけがなかろう。幸いにも女カ殿はおぬしを待ってくださるといっておる。顔は……まぁ確かによろしくはないが、おぬしを思う気持ちは本当じゃ。柱の影からじっとおぬしを見ておったと申された』
 それはストーカーというものではと伏羲は少しだけ背筋が寒くなった。
「は、破談にはならなかったのですか」
 実はそれを期待していたのだが。
『普通ならば破談になるところじゃ、女カ殿に感謝せい』
 ……嫌だ。
『まぁ、おぬしとてイキナリの話だから動転しよっても無理はなかろう。女カ殿もわかってくだされた。一週間後そちらにいらっしゃるゆえ、今度は粗相があってはならぬぞ』
 そう言って、伏羲に反論する暇を与えず電話は切れてしまった。

next.

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