砂に埋もれた硝子の欠片



――05.



「ジジイが楊ぜんに何のようなのだ?」
 電話に向かう楊ぜんを気にしながら伏羲は蝉玉に尋ねる。
「知らないわよ。そんなの」
 やがて電話を切った楊ぜんはテーブルに戻ってきた。
「なんだったの?」
 蝉玉の問いに楊ぜんは答える。
「明日、本家に来いって」
「楊ぜんが?」
 楊ぜんはこくんと頷く。
「何でよ?」
「わかんないよ」
 楊ぜんも困惑しているらしかった。
「のぉ、楊ぜん。ジジイはわしに対しては何か言ってなかったか?」
 伏羲の問いにも楊ぜんは首を振った。
「いいえ。何も」
「ジジイは何か企んでおるやも知れぬ。わしも一緒に行こうか」
 心配そうに伏羲は尋ねる。
「やだ。大丈夫ですよ」
 子供じゃないんだからと楊ぜんは笑った。



 翌日。楊ぜんは朝早くに屋敷を出た。伏羲と蝉玉が心配そうに楊ぜんを見送った。大げさなんだからと楊ぜんはまた少し笑った。
 元始天尊の住まう本家は駅三つほど先にある。近くであることは確かだが、楊ぜんは過去二回ほど伏羲のお供で出かけたことがあるきりだ。もっとも、本当のところは楊ぜんも伏羲というよりは元始天尊に雇われている立場だ。契約上はそうなっているはずである。
 駅を下りると本家の執事らしき黒ずくめの男が声をかけてきた。
「楊ぜん様ですね」
 楊ぜんは驚いて男を見る。
「そうだけれど、でも。あの。僕も使用人だから」
 いきなりの出迎えに楊ぜんは慌てた。過去に伏羲と訪れた時だって、歩いていったのである。
「お車を用意してあります。ご案内いたします」
「ねぇ。ちょっと待って。どうなってるのこれ」
 しかし男は楊ぜんの問いかけには一切答えてくれなかった。仕方なく楊ぜんは黙って車に乗り込む。車に入った家紋は確かに崑崙のものだった。
 どきどきと気味の悪い胸騒ぎがした。大きな車の中で楊ぜんは小さく縮こまった。男の対応は丁寧で、無機物に対するように冷たかった。
 やがて車は本家の庭へと滑り込む。純日本風の建物である。伏羲のお屋敷も随分と大きいと思っていたけれど、本家に比べるとおもちゃみたいだ。
 執事は頭を下げて大きく車のドアを開いた。
 楊ぜんが普段着ているのと同じ制服を着たメイドが歩いてくる。彼女は楊ぜんの一メートル前で止まり、きちんと90度頭を下げた。
「いらっしゃいませ。楊ぜん様」
 感情の入らない抑揚のない声に、楊ぜんは半歩ほど後ろに下がる。怖かった。
「あの。大旦那様はどちらに?」
 何とか楊ぜんはそれだけ言った。
「大旦那様にお会いになる前にお召し物をお着替えくださいませ」
「なんで……?」
「お召し物を変えていただかなければ、大旦那様に御目文字はかないません」
「わ、判りました」
 楊ぜんが言うとメイドはさっさと歩いていく。ついて来いということだろうかと楊ぜんは慌てて後を追った。きちんと背筋を伸ばして、少しも乱れなで歩くようにきっちりと躾られたメイドに楊ぜんは言いようのない気味の悪さを味わっていた。
 やがてメイドは一つの部屋の前で立ち止まった。きちんとひざをついて障子を開ける。
「中でお着替えください。半時ほどしましたら、お声をおかけします」
 楊ぜんが部屋の中に入ったとたんに障子はぴしゃりとしまった。
 楊ぜんは仕方なく部屋の中を見回す。
 部屋にあったのは振袖とドレス。
「……何これ」
 こんなの。どう考えたって変だ。
 楊ぜんは誰か話の通じる人を探そうと障子を開ける。ちょうど通りかかった女性に声をかけようとして、そして固まった。なぜならその女性がものすごい目つきで楊ぜんを睨みつけていたから。
 逃げ出したいのに身体が動かない。女性は楊ぜんの目の前でぴたりと足を止めた。
「そちが楊ぜんかえ」
 楊ぜんは声も出すこともできず目を見開いていた。それくらいその女性は異常だった。
「美しい。じゃが汚らわしい。その身体で伏羲をたらしこんだか」
 伏羲……ではこの女性は、伏羲の婚約者?
「違う……僕はそんなことしてない……」
「嘘を申すな。汚らしい捨て子の分際で!そうでなくば伏羲がそちなど見ようはずもなかろう!」
 何故知っているの。
 ブラックホールに吸い込まれるような絶望感。悔しくて悔しくて涙すら出なかった。体全体が心臓になったようにどくんどくんと鼓動する。その音で頭が一杯になって楊ぜんは何も考えられない。
「女カ様。お時間が」
「参る。口が穢れた」
 女カが消えたあとも、楊ぜんはしばらくその場を動けなかった。
 ――汚らしい捨て子の分際で
 違う
 ――汚らしい
 違う
 ――捨て子の
 いや。いや。いや!
 ――酷い話ね。あの子は、コインロッカーに捨てられていたのよ
 園長先生の声。
 ――コインロッカーなんかに捨てたら、死んでしまうことは判りきっているのに
 教頭先生の声。
 ――あんた、親がいないからちゃんと常識とか躾てもらってないのね
 学校のクラスメートの声。
 ――ねぇ楊ぜん。楊ぜんのお母さんはいつ迎えにきてくれるの
 施設の友達の声。
 ――駄目よ。だって楊ぜんのお母さんは……
 いや。いや。もう嫌!何も見たくない。
 楊ぜんは耳をふさいでその場にうずくまった。



 がらりと障子は開いた。
「あら、まだ着替えてらっしゃらなかったのですか」
 メイドはそういうと座り込んだ楊ぜんの側にやってきて囁いた。
「早くしなさいよ。あんた伏羲様のところのメイドなんでしょ。身に余る幸運じゃない。私だったら飛びつくわ。玉の輿だもの。何をぐずぐずしてるの」
 楊ぜんにはメイドが何を言っているのか判らない。判ろうとする努力すら放棄していた。
「ほら」
 メイドにせかされて楊ぜんはのろのろとドレスに着替えた。
 それからメイドの後を追って長い廊下を歩いていく。かなり奥まった部屋に通された。楊ぜんは映画館でフィルムを見ているように何も考えなかった。
 部屋には二人の人間がいた。
 一人は大旦那様。一人は知らない男。常の楊ぜんだったら、その男の衣装の派手さに度肝を抜かれたことだろう。その男はキラキラのラメの入った宝塚の男役が着るような衣装を着ていた。
「素晴らしい。君が楊ぜん君だね!」
 男は楊ぜんが入ってきたとたんに立ち上がり、そのまま楊ぜんの手をつかんだ。楊ぜんはびくりとする。
「大旦那様、この方は?」
「金鰲の大幹部。趙公明様だ」
 楊ぜんは礼儀上趙公明を見ると一つ頭を下げた。
「楊ぜんと申します。伏羲様のもとで――」
「これ、楊ぜん。それは良い」
 元始天尊は楊ぜんの台詞をさえぎった。
「趙公明様がぜひともおぬしを嫁に迎えたいといっておる。異論はなかろうな」
 楊ぜんは軽く首をかしげた。
「見合いということになるが、硬くなることはない。趙様もわかってくださっておる」
 それから楊ぜんにだけ聞こえるように低く囁く。
「おぬしとて、女カ殿と結婚した伏羲のもとにいるよりは良いであろう」
「大旦那様、僕は……」
 楊ぜんは言いかけて、でも何の言葉も出てこなかった。捨て子という言葉がぐるぐると頭の中を回っていた。蝉玉の言葉を思い出そうとして、でも、何一つ思い出せなかった。
 身分違い。
 夢なんか見なければ良かった。
 趙公明は楊ぜんを眺めていた。何か美しい人形を観賞でもするように。
「美しい!君は本当にけなすところが見つからないね」
 楊ぜんは自分の指の先に目を落とした。元始天尊は楊ぜんの肩を叩いていく。
「わしはもう行くゆえ。あとは良いようにせい」
 楊ぜんは本物の人形にでもなってしまったかのように黙り込んでいた。
「まあ、楊ぜん君楽にしたまえ。君の気持ちはわからなくもない」
 趙公明は笑う。
「伏羲君だね」
 楊ぜんは顔を上げて趙公明を見た。
「いい目だね。ぞくぞくするよ。いっそ君の瞳だけでも奪い取ってしまいたいくらいだ」
「僕に選ぶ権利はありませんか」
「ない。といっておこう。ただ君が楽になれるようにこういった話をしてもいい」
 趙公明はにやりと笑った。
「いずれ崑崙は金鰲に食われる」
 楊ぜんはびくりと趙公明を見る。
「崑崙が女カの蓬莱と婚姻を結ぼうとするのだって、金鰲を恐れてのことだ。否、たとえ崑崙と蓬莱がくっついたところで金鰲には怖くもないがね。わかるかい、マドモアゼル?」
 楊ぜんは小さく頷いた。崑崙が金鰲をライバル視していることは知っていた。そしてどうやら崑崙が劣勢であるらしいことも。
「そのときの伏羲の立場を君が救えるかもしれない」
「……どういう意味ですか?」
 楊ぜんは趙公明を見上げる。
「金鰲が崑崙を取り込んだときには崑崙の上層部はある程度入れ替えなければならないだろう。邪魔だからね。君のご主人様もそのリストの中に入るだろうということだ。
 さて、一方君があの家に残ったらどうなるか。女カは君と伏羲の関係を知っている。あの女は少々頭がおかしいからね」
 楊ぜんは驚いて目を見開いた。
「あなたは、僕と伏羲のことを知っているのですか」
「僕は愛だの恋だのに現を抜かすつもりはない。必要なのは君が美しいという事実だけさ。美、それこそがすべてだ。そう思わないかい、楊ぜん君?」
「思いません」
 楊ぜんは身を硬くする。
「はーっはっはっ!」
 いきなり趙公明が笑い出したので楊ぜんはびくりとした。
「君はまだ子供なんだね、マドモアゼル。いや、むしろプシキャットかな」
 楊ぜんは怪訝そうな顔をした。プシキャットという言葉の意味が良くわからなかったのだ。
「話を元に戻そう。君が伏羲のそばにいれば、あの女カお嬢様は、たちまち君を追い出そうとするだろう!そういう面ではあの恐ろしいお嬢様の右に出る物はいないからね」
 楊ぜんは趙公明を睨みつける。
「いい表情だ。マドモアゼル。しかし僕が言っているのは事実だ。それに確かに女カは君のご主人様を救うのにはある程度価値があるだろう。今の君にはその価値はない」
 楊ぜんは自分の握り締めたこぶしを見つめる。いつしかそれは何かに耐えるようにしっかりと握り締められていた。
「だが、僕のもとにくれば君の価値は女カ以上に大きくなるだろう!こういってはなんだが金鰲で僕の地位はかなり高いと思ってくれていい。君の頼みならば何だって僕は聞こう。僕にとってそれだけの価値が君にはあるからね」
 趙公明は嗤った。
「悪い条件ではないだろう、楊ぜん」
 何かが楊ぜんを壊そうとしている。趙公明の言葉は楊ぜんの硬くなった身体にじんわりとにじんでいく。
 大好きなご主人様。
 中指の指輪。
 金鰲にのっとられる崑崙。
 プログラミングをしているときの笑ったような伏羲の口元。
 繰り返す女カの声。
 捨て子。捨て子。捨て子――
「僕は、捨て子なんです」
 楊ぜんは小さく呟いた。
「僕にとっては、君が美しいということがすべてだ。それ以外は必要ない」
「捨て子でも」
 楊ぜんは息をつく。
「捨て子でもご主人様を救えますか?」
 楊ぜんは趙公明を見上げる。
「約束しよう」
「趙公明様……」
「ノンノンノン!僕のことは薔薇の貴公子と呼びたまえ!」
「ば……薔薇の貴公子……さま……」
「僕の物になるかい?楊ぜん!」
 こくんとマリオネットのように楊ぜんは頷いた。
「はーっはっはっ!ではマドモアゼル。誓いのキスで二人の愛を神に誓おう!無論、そんなことは形式にしか過ぎないが、この世界は形式がすべてだ!そして形式は美しい!」
 背中に回された趙公明の腕。
 逃げ場を封じられた楊ぜん。伏羲のものでない体温。
 楊ぜんは目を閉じる。
 我慢すればいいんだ。我慢すれば、伏羲のためになる。
 蝉玉のとがめるような目が楊ぜんの脳裏にちらついて、そして消えていった。
 だって楊ぜんには、こうするしかもう道がない。
 伏羲のものでない唇が楊ぜんのそれに触れる。
 嫌。駄目。我慢すれば。我慢、しなくちゃ。
 楊ぜんの身体をなぞる、伏羲のものではない腕。
 嫌。
 歯列を割って入ってくる舌。悪寒。
 嫌。嫌。いやっ!
 ご主人様、ご主人様、ご主人様!
 楊ぜんは思いっきり入ってきた舌をかんだ。じわりと血の味が口の中に広がる。趙公明がひるんだすきに思いっきり力を込めて彼を突き飛ばす。さすがに楊ぜん一人の力で突き飛ばされはしなかったものの、趙公明がふらついた隙に楊ぜんは腕から抜け出した。そのまま庭のほうへ走り出す。
 趙公明はぐいっと口元の血を拭った。
「なにかございましたか?」
 部屋の前で控えていたメイドに答える。
「仔猫が一匹逃げてしまったよ。可愛い猫だったのに、残念だ」
「あの」
「軽く引っかかれた。それだけだ」
「はあ」



 楊ぜんは走っていた。外壁伝いに走っていけばなんとか門までたどり着く。庭木も楊ぜんの身体を隠すのに役立ってくれた。庭木の陰から様子を窺う。門番は外からの侵入者は警戒しても中から出て行くものにはあまり注意していないだろう。走り抜けられるだろうか。
 機を窺う。軽く首を上げる。それが拙かった。
「そちはそこで何をしておるのじゃ」
 びくりと身体を硬直させて楊ぜんは声のしたほうを見る。女カだった。
「とうとう盗人でもはじめおったか」
 やがて女カは楊ぜんから目をそらした。
「いね」
 楊ぜんはどうしていいのかわからない。
「出てゆけと申しておる。二度とわらわと伏羲の前に姿をあらわすな」
 女カが門番を睨むと門番は道を開けた。楊ぜんは酷い敗北感を味わいながら屋敷の門をぬけた。ばたんと、まるで楊ぜんを締め出すように門が閉められる。
 そこで初めて涙がこぼれた。
 楊ぜんは裸足で、そのうえ行きに持って出た鞄もすべて本家に残してきてしまっていた。豪華なドレスは泥だらけで、それが余計に惨めたらしかった。
 きっと酷い顔をしているに違いない。酷く心細かった。
 ご主人様に逢いたい。
 逢って、抱きしめて欲しい。
 そして、ふと気がついた。
 元始天尊は抜かりのない人である。きっともう、楊ぜんが趙公明に嫁ぐことに同意したことを伏羲に伝えているだろう。
 事実、楊ぜんは、一度は趙公明に身を任せようと思ったのだ。たとえそれがどんな理由を伴う物でも。
 もう、ご主人様にはあえない。
 一度は趙公明に身を任せた身体で、ご主人様には逢えない。
 それに。趙公明の話が頭の中に甦る。
 伏羲だって女カと結婚したほうがいいのだ。
 視界がにじんで楊ぜんは目をこすった。
 伏羲とおつかいに行った日。
 ――ねぇ、ご主人様、子供、お好きですか?
 浮かれていた楊ぜん。
 ――そうだのぉ、おぬしとの子供であれば……わしは莫迦みたいに可愛がるだろうよ
 伏羲の言葉。楊ぜんを見つめる瞳。
 夢みたいだった。そう。夢だったのだ。
 判ってたのに。
 判ってたはずだったのに。
 ご主人様。頭の中で繰り返す。
 ご主人様のことが好きだった。
 身分違いだったけど。
 大好きだった。
 初めてのキス。
 一緒に眠った夜。
 伏羲と楊ぜんと蝉玉と、三人で囲んだテーブル。
 楊ぜんが側にいた日を、どうか、忘れないで。
 唯一。それだけ残った、中指の硝子の指輪に口付ける。まるで祈りを捧げるかのように。
 ご主人様――



 涙で、視界がぼやけていた。

next.

novel.