砂に埋もれた硝子の欠片
――06.
行く当てなんかなかった。ご主人様のもとには戻れない。施設に行こうにもお金がない。楊ぜんは裸足のまま、ただ虚ろに歩いていた。止まることのないと思っていた涙は枯れて、今はただ、足が痛かった。他のことは考えなかった。考えたくもなかったし、実際のところ考えられる状態ではなかった。
何も考えないでいることが楊ぜんにできるただ一つの自己防衛だった。
うずくまって公園の隅の木陰で少し眠った。
目が覚めたときは夕暮れだった。
どうしよう。
そこで漸く楊ぜんは、虚ろから浮かび上がった。
選択肢は二つ。
ご主人様の元に帰ること。
もしくは、大旦那様のもとへ帰って、謝って趙公明との結婚に応じること。
逃げ出したのは楊ぜんでも、趙公明の突飛な考え方からすると、謝って許しを請えば楊ぜんを娶ってくれるかもしれない。
そうすれば、伏羲のためになる。
ご主人様のために。
キスくらいで逃げ出した自分が憎らしかった。キスもはじめても伏羲がしてくれたんだからそれでいい。ご主人様との思い出があれば生きていける。
趙公明が嫌だったら目を閉じていればいいのだ。何も考えなければ嫌だなんて思うこともない。ご主人様のためなら喜んで受けるべきだ。
ご主人様は楊ぜんを家族みたいな物といってくれた。ただの使用人の楊ぜんにキスして好きだって言ってくれた。
ご主人様。
ふわんと、楊ぜんは立ち上がった。
本家に行って、大旦那様に謝る。
ぎりっと、力いっぱい手のひらを握り締めた。
血のにじんだ裸足の足で再び歩き出す。
何も考えずに歩いてきたから道がわからない。
楊ぜんは仕方なく適当に歩き始める。
満月の夜だった。
夜なのに酷く明るかった。
周りは商店街のようだった。駅の近くなのかもしれない。
「なにをしているんだい?こんな夜中に」
声がした。上のほうから。
楊ぜんは上を見上げる。
「酷い格好だね。何があったの?」
ベランダの上から男が身を乗り出していた。黒ずくめに肩のところでバッサリと切りそろえられた黒い髪。それがつやつやと満月の光に青白く反射する。不思議な格好だが不思議と似合っていた。
「誰ですか?」
楊ぜんは男に尋ねる。不思議と警戒心は沸かなかった。あきらめていたからかもしれない。
「君は?」
「楊ぜん」
「警察は呼んだほうがいい?」
きょとんと楊ぜんは男を見上げる。それから自分の格好を思い出した。裸足の足に引っかき傷だらけの楊ぜん。きっと強姦に襲われたようにでも見えたのだろう。
「違うんです。これは僕が」
言いかけて楊ぜんは口篭もる。自分の今の状況を上手く説明できない。
「そんな格好でいたんじゃ、危ないよ。この辺、変質者が出るんだからね。あがっておいで。鍵はポストの裏だから」
「へ?あの」
楊ぜんは再びきょとんとする。
「合鍵、ポストの裏にガムテープで貼り付けてある」
楊ぜんはなおも男を見上げたままで動けない。
「ほうっとけないだろう。普通。嫌ならいいよ。行きなさい。あるいは、私が信じられないのならば。疑うのは悪いことじゃないからね。特にこういう場合は」
楊ぜんは頷いて、言われた通りポストの下を覗き込む。確かに小さな鍵が底に貼り付けてあった。楊ぜんは確認するように男のほうを見たが、男は楊ぜんのほうを見てはいなかった。月明かりをぼんやりと見ている。さらりと真っ直ぐな髪がゆれた。それが妙に似合っていた。
楊ぜんは戸惑いつつも、鍵を鍵穴に差し込む。それは小さな音を立ててカチャリと回った。ドアを開けるとリンと鈴の音がする。ドアに貼り付けてあるのだ。暗闇の中に、カウンター、小さなテーブル。喫茶店のようだ。
「右手奥にドアがある。そこをぬけると階段があるからあがっておいで。最初の部屋だよ。判ると思うけど。ああ、鍵はかけておいて」
楊ぜんは小さな喫茶店内を見回したあとドアを閉めて鍵をかけた。ほんの少し、怖いような気がした。通常の空間から切り離されて別の世界へ紛れ込んだような感覚。夜だからだろうか。
カウンターの奥にドアがあった。それのことだろう。楊ぜんはドアを開く。と確かに狭い階段があった。足をかけるときぃと音を立てた。急な階段を楊ぜんは上る。昇りきったところには部屋が二つ。言われた通り近くにあるほうの部屋を楊ぜんはノックした。
「来たね。おはいり」
ゆっくりと楊ぜんはドアを開けた。見上げたときのままの姿で、男は月を見上げていた。
「満月に迷い込んだね」
「え?」
男は振り返る。人形めいた器用に整った顔立ち。それはゆっくりと楊ぜんに近づいてきて、そっと、楊ぜんの頭を撫ぜた。
温かい手のひらの感覚。
伏羲がよくそうしてくれたように。
涙がこぼれた。
暖かい指の腹で男はそれを拭う。そして楊ぜんの額に一つ口付けた。びくりと楊ぜんは男を見る。
「女の子に涙は似合わない。話してご覧。楽になるから」
「あの」
「最初から、最後まで」
「あの」
「君のその涙のわけを」
「あなたは?」
「太乙真人」
男は笑う。
「それが何か?名前なんて所詮、記号に過ぎないのに」
楊ぜんは太乙真人を見上げ、それから少し笑った。そんなことを言うなんて変な人だ。でも、不思議と信用してもいいような気がした。
「でも。大切なことです」
楊ぜんが話しやすくなるようにと太乙真人は暖かいコーヒーを入れてきてくれた。
「砂糖は?」
「二つ」
太乙真人は砂糖も何も入れなかった。
楊ぜんはまた少し笑う。
「僕の好きな人はコーヒーに砂糖もミルクもあるだけ入れるんです」
「それは冒涜だね」
楊ぜんはまたくすっと笑う。
「それが、君の涙のわけ?」
楊ぜんは小さくこくりと頷いた。
「夢だってわかってたんです。判ってたのに、こんな覚め方するなんて、思ってなかったから。僕」
「夢は必ず覚める物だよ。そして、現実は夢じゃない」
「好きだから、力になりたかったのに。土壇場で僕、逃げてきたんです」
「何から?」
「たぶん、現実から」
「現実は逃げられる物じゃない」
こくんと楊ぜんは頷いた。
「好きだったんです」
「誰が?」
「ご主人様。大好きだったのに……」
声は途中でかすれて、泣き声になった。
楊ぜんは漸く、堰を切ったように話始めた。
大好きな伏羲のこと。孤児だった自分のこと。昨日かかってきた電話のこと。女カのこと。突然言われた結婚話。趙公明のこと。そして、裸足で逃げ出した惨めな自分のこと。
「それで?ご主人様のために君は崑崙の生贄になるの」
楊ぜんはこくりと頷く。
「それがご主人様のため?」
再び楊ぜんは頷く。
ふと、太乙真人は口調を変えた。冷たい声。
「きついことを言ってあげようか?」
え、と楊ぜんは顔を上げる。目の前に太乙真人、その向こうに夜空。そして大きく黄色い満月。現実ではないような錯覚。
「そんなことをされた男はさぞかし惨めだよ」
楊ぜんは太乙真人を見た。
「君は逃げているか、あるいはご主人様のために健気に振舞う自分に酔っているだけだ」
「そんな」
楊ぜんは口篭もる。
「僕はご主人様のことだけを思って!」
「それが酔っていると言う事だ。人間は所詮自分のことしか考えない」
「そんなこと無いです!」
「ある。現に君は考えなかった」
「え?」
「君にそんなことされて、君が言うように本当に君のことが好きなご主人様ならどう思うか、君は考えなかった」
楊ぜんは戸惑って口を閉じて太乙真人を見上げた。
「自己犠牲で勝手にレールを引いて、そんなことをされて喜ぶ男がどこにいる?君は伏羲のプライドを踏みにじるところだったんだよ。もっとも、あるとすればだけれどね」
楊ぜんがいなくなったあとのご主人様。
女カと結婚して、崑崙は安泰で、ご主人様の将来も保証されて、楊ぜん一人いなくなればこれ以上ないくらいのハッピーエンド。
傍から見れば。
ぼんやりと、涙で視界がぼやけだす。今日は一体どれくらい涙を流したのだろう。
女カと結婚するご主人様なんか、想像したくもなかった。女カと幸せに暮らすご主人様を考えることを頭が拒否していた。だから、考えなかったのだ。それでご主人様が本当に幸せなのかどうか。否、でも。だけど――
楊ぜんは顔を上げて太乙真人の秀麗な顔を睨みつけた。
「じゃあ、僕にどうしろって言うんです!どうできたって言うんです!」
大旦那様の命令にはご主人様だってそうやすやすと背くことはできない。どちらにせよ、楊ぜんは使用人だ。ご主人様との恋なんてはじめから叶うはずもなかった。
「考えなさい。頭を冷やして。それは私がどうこう言える問題じゃない。そういう意味では君は逃げてきて正解だった。ただ、一つだけいえるとすればね」
太乙真人は少しだけ表情を緩めた。
「君はご主人様を信用できなかったんだね」
楊ぜんは目を伏せた。とくんと、胸が痛かった。
そう、信じきれなかった。
大好きだったけれど、信じてはいなかった。
「ご主人様は、育ちがいいせいか、すこし楽天的なところがあって」
ぼそぼそと楊ぜんは話し始める。
「僕、好きだったんです。僕は、いつも悪いことばかり考えるから、ご主人様の子供みたいに無邪気って言うか、苦労知らずって言うか、育ちを考えればあたりまえなんですけど。でもそういうところ凄く好きで。だけど」
信じることはできなかった。
「使用人の僕に平気で好きだって言うんです。愛してるって。嬉しかったけど、辛かった。絶対叶わないのに、ご主人様はそんなこと考えないんです。頭のいい人なんだけど、そういう現実的なところには疎かった。身分とか考えないんです。平気で使用人の仕事を手伝ったりして」
「本気で好きならば、もう少し信じても良かったね。ご主人様と一緒に路頭に迷うのは嫌だった」
楊ぜんは激しく首を振る。
「僕はどうなったってかまいません。でも、ご主人様が辛いのは嫌なんです。いつも、笑っていて欲しいんです。楽天的なご主人様が好きなんです」
「落ちぶれたご主人様を見たくなかった」
太乙真人の言葉には容赦がない。
楊ぜんは戸惑い、それから小さくこくんと頷いた。
「あの人に、僕みたいな想いを味わって欲しくないんです」
「そうか、君はもう少し、自分を信じるべきだね」
楊ぜんはきょとんとして顔を上げたが、太乙真人はその言葉に説明を加えなかった。
「考えがまとまるまで、うちで働くかい?」
楊ぜんは再びきょとんとし、それからここが喫茶店だったことを思い出した。
「いいんですか?」
「ウエイトレスを募集しようと思ってたんだ。メイドやってたくらいだから簡単な料理くらいできるんだろう」
「はい」
「時給は相場。隣の部屋開いてるから勝手に片付けて使って。家の掃除もするんなら食事代も出す」
「はい」
「下に行って、シャワーでも浴びておいで。服は私のを貸すから」
楊ぜんはぺこりと頭を下げる。
「ああ。階段の下に電話があるよ」
「え?」
「なんでもない。言ってみただけ」
☆
シャワーを浴びてぶかぶかの太乙真人のワイシャツを羽織る。確かに階段の下に電話があった。
電話。
使っても言いという意味だろうか。あるいは、もっと積極的にかけておけという意味だろうか。
楊ぜんは受話器を取る。指が勝手にプッシュフォンのボタンを押す。声を聞くだけなら。
呼び出し音。受話器をとる音。
『もしもし?こちら崑崙の……』
蝉玉の声。もう何年も聞いていないような気がする。楊ぜんはそっと口元を手で抑えた。
『もしもし。どちら様でしょうか?ちょっとぉ。何で返事しないのよ。……楊ぜん?楊ぜんなの?あんた今どこにいるのよ』
向こうでなにやら話し声。
『もしもし。楊ぜんか。おぬし今どこにおる。返事をせい。楊ぜんなのであろう?何故黙っておる』
――ご主人様。
受話器にしがみつくように楊ぜんは床にしゃがみこんだ。
『楊ぜん。ジジイの事はわかったから。わしがいいようにするから。のぉ。早く帰って来い』
「ご主人様……」
小さく声が漏れた。
『楊ぜん。楊ぜんだな!何をしておるのだ。今、迎えに行くから。場所を教えよ』
楊ぜんは受話器を抑えて小さく首を振った。
「できません」
『何?』
「ご主人様。僕、逃げてきたんです。もう知っているでしょう、大旦那様は僕の結婚話を持ってきたんです」
『知っておる。しかし、おぬしがそれに従うことはあるまい。わしが何とか――』
「ご主人様はお忘れです。僕の本当の雇い主は大旦那様なんです。大旦那様にそむいては、あの家には戻れません」
『……よう、ぜん』
「ご主人様。大好きでした」
『待て!楊ぜん。わしが何とかするから!』
楊ぜんは薄く笑う。
「もう、なんともなりません」
『待てといっておろう。わしは崑崙と縁を切る』
「駄目です」
楊ぜんは受話器にしがみついた。
「いけません。ご主人様」
『わしはわしのために自分で決めて行動する。たとえおぬしであっても、邪魔はさせぬ』
「ご主人様?」
『崑崙の飼い犬でいるのはもううんざりだ。わしの道はわしが決める。言ったであろう?』
「そんなの。簡単に行く分けないじゃないですか!」
『誰も簡単に行くとは思っておらぬ。楊ぜん、少しはわしを信用せい』
楊ぜんは言葉に詰まる。
『すぐには無理だ。そう――楊ぜん。三年だ。三年待てるか?』
「三年?」
『三年経ったら、わしはおぬしを迎えに行く。崑崙の伏羲としてではなく、ただの伏羲としてだ』
楊ぜんは黙って受話器を握り締める。
『三年経って。それでもまだおぬしがわしのことを好きだといってくれるならば』
一瞬の沈黙。
『結婚しよう。楊ぜん』
楊ぜんは嗚咽を抑えるために手で口を抑えた。この人はいつだって、夢みたいなことばかり言って。
『一度だけ。一度だけでよい。わしを信じてくれ』
「三年も、待ってられるわけないでしょう」
『待つよ。おぬしは。わしは信じてる』
「僕はあなたから逃げたんですよ」
『それでも、わしのもとに戻ってくる』
「あなたは、三年も待てるんですか」
『わしは、待つのではないよ。三年で全力でおぬしを追いかける』
「え?」
『おぬしがもう、身分などにおびえなくとも良いように。おぬしに、ふさわしいように』
楊ぜんに、ふさわしいように?
お互いに、ふさわしいように。
そんなこと、考えたこともなかった。ぎゅっと、受話器を握る手に力が篭った。軽く息を吸い込む。
「僕も、ご主人様追いかけていいですか?待ってるだけじゃなくて、全力で、走ってみてもいいですか」
『楊ぜん。三年後に』
「信じていいんですね」
『勿論』
穏やかな伏羲の声。
『おぬしが。自分を大切にしてくれて、良かった』
床の上にぺたんと座り込んで、楊ぜんは宝物みたいに受話器を握り締めていた。
next.
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