アトリエ



前篇



 バスを降りると新鮮な風が頬を撫でた。
 白茶けたアスファルトが草に埋もれながらも延々と続いている。青々とした山を楊ぜんは眩しげに仰いだ。冬になるとスキーが出来るらしいから、この辺にはロッジなどの観光施設は結構あるらしい。
 そう、こういうところはあくまでも観光として来るべきだ。楊ぜんはぼんやりと思う。
 一時都会の喧騒から解放された清清しさは、実は勘違いによるもので、きっと楊ぜんは都会を離れてなど生きていけない。新宿も銀座も渋谷も楊ぜんの愛すべき故郷だ。
 そうは思ったものの、楊ぜんは観光でこの長野の奥まった田舎を訪れたわけではなかった。人を訪ねてきた。
 愛しい人を。
 ――まったく、なんであの人はこんな人気のない田舎にアトリエなんか構えたのだろう。これじゃ、来るのが大変じゃないか。
 そうは思いつつも、楊ぜんはアスファルトの上を歩き続ける。白いアスファルトに磨きぬかれた革靴は見事なまでにミスマッチで大変歩きにくかったのだが、彼の美意識は歩きやすいウォーキングシューズなどあっさりと却下してしまうのだからどうしようもない。
 しばらく歩き続けると、コンクリートの打ちっぱなしの立方体が見えた。楊ぜんはほんの少し足を速めた。
 この建物こそが楊ぜんの愛しい人――伏羲のアトリエである。

 インターフォンを鳴らすと、建物内でそれが反響するのが感じられる。しばらく待っても誰も出てこないから楊ぜんは思い切ってドアノブに手をかけた。
 扉は、あっさりと開かれた。
 扉を開いたとたん、楊ぜんは立ちすくむ。
 楊ぜんが笑ってこちらを見ている。微笑んでいる楊ぜん。眠っている楊ぜん。俯いた楊ぜん。楊ぜん。楊ぜん。楊ぜんのオンパレード。
 壁と言わず天井と言わずあちらこちらにちりばめられた楊ぜんの油絵。
 無数の自分に見つめられる気恥ずかしい感覚。
 これは――。
「楊ぜん」
 懐かしい響きにさっと楊ぜんは振り返った。ふわりと長い髪が彼の残像を追いかける。
 伏羲が立っていた。
「師叔、これって……」
「ほれ、昔おぬしをモデルに色々書いたであろう」
「それは判りますけど」
 楊ぜんは恥ずかしくて頬を染める。そんな楊ぜんの様子に伏羲は軽く笑う。
「とにかく中に入らぬか。せっかく着たのだから」
 伏羲に手をとられて、楊ぜんは部屋の中に招き入れられた。

 油絵の具の匂いはくらくらする。実はあんまり好きじゃない。
 これが、楊ぜんが伏羲と一緒に長野のアトリエで暮らせない一つの理由。もう一の理由は楊ぜんが売れっ子のファッションモデルであることだ。
「なんか食ってきたのか?」
 もう1時に近い時間を気にして、伏羲は声をかける。
「いいえ」
 期待を込めたようなどこかいたずらっぽい目をして楊ぜんは首を振った。
「世話の焼ける奴だのぉ」
「何か作ってくれるんですか?」
「それを期待したのだろう」
 呆れたように伏羲は言う。
「手料理なんて1週間ぶりくらい」
「駄目人間め」
 伏羲に言われて楊ぜんは少しふくれる。
「だって、忙しいんですよ」
「しかし無理をしては……」
「稼げるうちに稼いでおきたいんです」
 楊ぜんは前を見据える。
「また、わしのモデルでもすればよかろう」
 楊ぜんはちらりと伏羲を見た。
「僕は高いですよ」
 伏羲は何も言わず、立ち上がってしまった。
 楊ぜんは少しだけ悲しくなる。怒ったのだろうか。
 仕事が忙しくて、イライラしている。一瞬だけでも癒されたくて、無理矢理休みを取って伏羲のところにきたというのに、なぜ楊ぜんは余計なことを言ってしまうのだろう。
 そういえば、伏羲は楊ぜんがファッションモデルなどやっているのをあまり快く思っていない。
 二人が付き合いだしたのは確か高校生のときで、その頃はお互いの夢に理解があったし、大切だとも思っていたのに。叶った夢は二人の間をギクシャクとさせた。
 とんっ。
 テーブル代わりの硝子のボードの上にお皿が置かれる。あ、焼きうどん。
「ほれ、食え」
 ペットかなんかに餌をやるような口調で伏羲はそういう。
 楊ぜんはこくんと頷いてお箸を手に取った。

 食べ終わって、さっき伏羲を怒らせてしまった手前、何を言っていいのか良くわからなくて、楊ぜんは伏羲の肩にコツンと頭を乗せた。
 甘えた様子に伏羲は苦笑してぎゅっと楊ぜんを抱き寄せてくれた。
 そこから先は、もう、言葉なんか要らなかった。

 目が覚めたのはすでに夕刻だった。
 オレンジ色の西日に楊ぜんは目を細める。
「起きたか?」
「ん……」
 楊ぜんは乱れたシーツを抱き寄せてごしごしと目をこすった。
 伏羲はカンバスに向かっている。木炭で何か描いている。こちらに向かって。
「何、かいてるの……」
 それには答えず伏羲は手を休めて楊ぜんを見た。
「やはり、疲れておるのではないか。あれのあと、こんなに長く、眠ったのは初めてであろう」
 楊ぜんはこくんと頷く。疲れてる。そんなの自分が一番良く知っている。
 それからちょっと考えて、自分の身体を確認する。
 大丈夫。痕ついてない。
 いくら楊ぜんの仕事が嫌いだとはいえ、伏羲もその辺はちゃんと考えてくれてるのだろう。
 楊ぜんはゆっくり起き上がってシャツに袖を通す。それから伏羲の後ろに回りこんで彼が書いていた絵を覗き込んだ。
「やだっ」
 とたんに顔が赤くなる。
 さっきまで眠っていた自分の姿がそこにあった。剥き出しの肩に絡まった長い髪。
「こんなの、描かないでくださいよ」
「綺麗だったから」
 平然と伏羲は言う。
「だって、誰かに見られたら……」
「だあほ。誰にも見せるか」
 それでも楊ぜんは赤くなって顔をそむけた。小さく口を開く。
「売り物にならない絵なんか描いて、どうするんです」
「描きたかったから、描いただけだよ」
「……僕の絵、売れないと、思います?」
 楊ぜんはじっと伏羲を見つめる。
「売りたくないから売らぬだけだ」
「でも、かなり値はつくでしょうね。あなたの描いた僕の絵なら」
 それから伏羲は黙り込んでしまった。怒ってるのだろうか。
「売り物の絵と、書きたい絵は違うよ。楊ぜん」
 だいぶ経ってからぽつりと伏羲は言う。
「だから、あなたの絵はいっつも、正当に評価されないんだ」
 楊ぜんはなんだか自分のほうが悔しくなってきて、小さく唇をかんだ。伏羲の絵は技術的にはかなり高い水準にある。でも、だからこそなのか、美しいだけで何の感動も呼び起こさないと一部で酷評されることも多いのだ。
「ねぇ、師叔。あなたのためになら僕、ヌードだってなんだって……」
「楊ぜん!」
 急に大声を上げて、伏羲は楊ぜんを黙らせた。楊ぜんは一瞬黙ったもののまた口を開く。
「僕じゃ、ご不満ですか?男なんか描いたって面白くないって言うんですか。でもね、僕みたいな綺麗な男の裸が見たいって莫迦も一部では多……」
「楊ぜん!」
「なんなんですか、さっきから!協力しようって言ってるんですよ、僕は!」
「おぬし、そんな目で自分が見られてなんとも思わぬのか!」
 楊ぜんは一瞬ひるみ、それから再び声を張り上げた。
「別にかまいませんよ。どんな目で見られようが僕は僕です」
 伏羲は静かに答えた。
「わしは嫌だ。おぬしがそんな目で見られるのも、わしの絵がそんな目的で使われるのも」
「……意外と……」
 楊ぜんは小さく笑う。まるで嘲るように。
「意外と純情だったんですね、あなたって」

「もうよい。帰れ」

「え?」
 楊ぜんは笑いを引っ込める。
「よく判った。わしが愛したおぬしはもう、おらぬのだな。だからもう、おぬしは帰れ」
「何言ってるんですか、師叔。僕、大事な仕事キャンセルしてまであなたに会いに……」
「だったらもう、来なくて良い」
 何を言われたのか、理解できずに楊ぜんはきょとんとした。
「……なに……」
「金も名誉も関係ないことはあるであろう。おぬしには、それがわからぬのだな」
「だって……」
 しばらくたってから楊ぜんは言った。
「それが全てじゃないですか」
 伏羲は何も言わなかった。
 楊ぜんはしばらく黙った後、ばたんと立ち上がる。
「莫ッ迦みたい。いつまで夢なんか追ってるつもりなんですか。あなたのそういうところ見てるとイライラするんだ」
 荷物をまとめる。扉に手をかけて。
「お望みなら二度ときませんよ。あなたはずっと僕の影でも追ってればいいんだ。あなたの愛した僕?そんなの幻ですよ。お生憎様。僕は生まれたときからずーっとこうなんだ」
 伏羲は何も言わない。それが余計に楊ぜんを煽った。軽蔑したように楊ぜんは言った。
「一言くらい、言い返したらどうですか」
 伏羲は答えない。
「さようならッ!」
 ばたんと楊ぜんは扉を閉じた。

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