光の庭




01.



 ――ねぇ、知ってる? この森の奥に湖があるの。そこには、父さんや母さんや大勢の人がいて、皆仲良く暮らしているの。私も死んだらそこ行くのよ。

 その日、妹が死んだ日。彼が天涯孤独になった日。
 空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだった。
「やだねぇ、また雨が来るよ。悪い病気が流行るよ」
 大人の誰かが言って、妹の手を組ませた。
 かわいそうだが、焼かなきゃならない。
 誰かが言った。妹の腕には紫色の斑点があった。病気で死んだ者は皆焼いてしまいなさい。誰かが言ったから。妹の焼かれる煙を、彼はぼんやりと見ていた。
 前にもこんなことがあと二回あった。父が死んだ日。母が死んだ日。燃やさないでとすがって泣いた妹はもういない。
 妹は父と母のもとにいけたのだろうか。
 ぼんやりとそう思った。
「一人になっちまったねぇ、楊ぜん」
 誰かがそう言って、彼の頭を撫でた。

 家に帰ると、石造りの冷たい壁と重たい空気が彼を出迎えた。
 街には病が流行っていた。一日に一人は彼の知るものが死んでいた。
 隅っこに、ひざを抱えてうずくまる。自分の順番はいつ来るのだろうと考えた。

 朝になって彼は堅いパンを齧った。妹が死んだ翌日も腹の空く自分が滑稽だった。
 朝の日差しは淡いカーテンのように部屋の真ん中まで差し込むが、彼のもとには届かない。彼は自分が日差しを退ける悪魔の子にでもなったような気分になってそれを見ている。
 ぼんやりとしていた。
 熱さも寒さも何も感じない。
 今までは妹のためにと頑張ってこれた。でも、もう誰もいない。働きに行く気もしなかった。
 石造りの部屋の中で、少年は彫像のように動かない。
 日が昇るにつれて、往来は騒がしくなる。窓から差し込んだ光は消えてなくなる。少年の家だけが静寂に包まれて酷く暗い。まるで別世界の住人になったような気がして、彼は通りに耳をそばだてた。
 ――聞きました? お隣のお嬢さんが
 ――ああ、もうすぐだろうと思っていたけれどねぇ
 ――お兄ちゃんも頑張ったのにねぇ
 ――一人ぼっちだねぇ。誰か養ってあげられないのかい
 ――そんな、どこのうちにも、余裕なんか、ありゃしないよ
 ――それにあれだろ。ずっと妹の看病してたんだから。移ってるかもしれないじゃないか、悪い病気が
 ――そんなこと言っちゃ、奥さん
 ――あら、皆思ってるはずよ。そうでしょう
 少年は小さく身を縮め、目を閉じた。自分が、この世にいてはいけない、化け物になったような気がして。
 ――綺麗な子だったのにねぇ
 ――ねぇ
 ――そういえば、人買いが着ていたよ。追っ払ってやったけどね
 ――ねぇ、今、あの子を売ったら、誰がお金をもらえるんだい?
 ――ちょっと莫迦なことを言わないでおくれよ。それに、買いに来たのは妹のほうだろ
 ――そんなのわかりゃしないよ。顔だけならお兄ちゃんのほうが綺麗なんだから
 ――アンタね。売られた子供がどんな目に会うのかわかってるのかい。あの子は男の子なのに
 ――それでも、ちゃんと飯は食わせてもらえるんだろ、ここにいるよりか、よっぽどましじゃないか
 売られるとは、どういうことだろうか。ぼんやりと少年は考える。往来の喧騒は激しくなる。誰かが口喧嘩を始めたらしい。少年はゆっくりと立ち上がると、往来へ続く扉を開いた。ぱたりと、音がやんだ。そこにいたのはどれも、彼の見知った顔だった。
「楊ぜん、アンタ、工場に行ったんじゃあ……」
 彼を売ろうと言い出した、女が引きつった顔で楊ぜんを見た。それは、向かいの家の気のいい若女将だった。
「僕は、売られるんですか」
「莫迦なこと言うんじゃないよ、楊ぜん」
 ぐいっと太い手が伸びてきて彼の肩をつかみ、ぐらぐらとゆすった。
「そんなことは、アタシ達が絶対にさせないからね」
「僕は別にどうなっても……」
「楊ぜん、アンタは生きてるんだからね。しっかり生きなきゃ駄目だよ。ほら、工場に行っておいで。親方にちゃんと謝るんだよ」
 背中を押されて、楊ぜんはよろけるように二三歩踏み出した。振り返ると、また、口喧嘩が始まったところだった。楊ぜんはしぶしぶ歩き出す。
 レンガ造りの道は酷くほこりっぽい。湿った空気にむせ返りそうになる。ごちゃごちゃとした家々が立ち並ぶごちゃごちゃとした通り。
 なんで、生きなくちゃいけないんだろう。
 彼はぼんやりと思う。
 何故、妹は死んで、僕が生きているのだろう。
 否、彼だって死ぬはずなのだ。いつかは。
 ならば。
 生きてる必要なんて、少しも無いじゃないか。
 ぱたりと彼は足をとめた。
 森の中だった。
 工場へ行くのに、いつも通る道。帰りはいつも、妹が迎えに来てくれた。
 そう、ここで妹は言ったのだ。まだ元気だったときに。
 ――ねぇ、知ってる? この森の奥に湖があるの。そこには、父さんや母さんや大勢の人がいて、皆仲良く暮らしているの。私も死んだらそこ行くのよ。
 道を一歩踏み出せばうっそうと茂る樹木が彼を出迎える。
 森は酷く薄暗かった。
 針葉樹ばかりの森。一年中日の射さない森。
 そこに、父や母や、まして妹がいると思ったわけではない。
 ただ、そこに行けば死ねるのではないかと思った。

     ☆

 森の中は想像以上に暗かった。外が晴れていたのがまるで嘘のように。
 下草は彼の足を平気で傷つけたし、時折響く甲高い鳥の声やその羽音は彼を驚かすのに十分だった。
 道など無い。白い霧の誘う中、彼は歩き続ける。
 果たしてこの奥に湖などあるのだろうか。
 霧のせいで、酷く寒かった。地面はぬかるんでいる。気味の悪い虫たちが彼の足の下を這う。森は黒くそして青い。すでに方角など判らない。無論、今がいつなのかも。
 歩いて歩いて、また歩いた。
 誰もいない。何も無い。ただ、時折鳥の声が聞こえる。
 獲物でも、狙っているのか。
 不意に、心細くなった。
 帰りたい。父のもとへ。母のもとへ。妹のいるもとへ。
 歩みを止める。
 振り返る。
 背の高い針葉樹が莫迦な子供を見下ろしていた。
 その向こうにも、さらに向こうにも、同じような景色が広がっているだけ。
 彼を嘲笑うかのように、さわさわと葉が鳴った。
 楊ぜんは走り出す。走って走って、でもどこにもたどり着けない。しばらくすると彼はため息をついてその場にしゃがみこんだ。口元を引き結ぶ。そうしていなければ、自分は泣き出してしまうのではないかと思った。しかし、涙を見せるわけにはいかない相手などどこにいる?
 そう思えば余計に、涙は出てこない。からからに乾いた心で、彼はじっとあたりに耳を澄ます。
 さわさわと木の葉がなり、甲高い鳥の声が響いた。霧はいよいよ白くなり彼を包み込む。
 寒い。
 ぎゅっと、自分を抱きしめる。
 どうしようもない、孤独。
 目を閉じたら、死ねるだろうか。
 死ねる――?
 否。嫌だ。
 父も母も妹もいるものか。
 こんなところで、たった一人で、死ななければならないなんて、絶対に嫌だ。
 乾いた目をこすって彼は立ち上がる。
 歩き出す。方向などわからない。ただ、前と決めた場所に向かって。
 どれだけ歩いたことか。
 足はまめだらけで、一歩踏み出すごとに酷く痛かった。
 永遠に続くかと思われた森は、ぽっかりと別の景色を映し出していた。
 そこには屋敷があった。レンガ造りのお城。
 楊ぜんはぽかんとしてそれを見上げる。こんなところに、こんなものがあるなんて、聞いたことも無い。
 それでも彼は走っていく。せめて帰りの道だけでも教えてもらえれば。
 近づくと時計台が見えた。針は3時を指している。
 ごおんと、鐘が鳴った。
 樹木を空気を総て振動させるような音だった。
 楊ぜんは一瞬驚いて立ち止まり、それからまた走り出した。

     ☆

 門は閉ざされていた。鉄で出来た門はところどころ錆び、蔓で覆われている。
 ひょっとして、もう誰もここに住んではいないのではないか。そんな不安が楊ぜんの心に広がる。恐る恐る手をかけるとぼろぼろと門は崩れる。
「あの……」
 呟くように言っても、声は樹木に吸い取られる。
 気を取り直して、楊ぜんは叫んだ。
「誰かいらっしゃいませんか!」
 彼を莫迦にするように声はいんいんと木霊する。
「誰か! 僕凄く困ってるんです!」
 思い切って彼は門を押した。
 ぎぃっと音をたて、門は意外にもあっけなく開かれた。
 小さく息を呑み、楊ぜんは呆然と門の中を覗き込んだ。そこは色彩にあふれていた。
「なに……これ……」
 手入れされ綺麗に咲いた薔薇の花。白いユリ。淡い彩りのガーベラ。紫の紫陽花。チューリップ、クロッカス、マリーゴールド、コスモス。
 ありとあらゆる花が、季節に関係なく咲き乱れている。
 小鳥のさえずりが聞こえる。
 それに加えて、誰かの足音を聞きつけ、楊ぜんははっと身を堅くした。
「扉を……扉を閉めてくれぬかのぉ……。ここの空気が逃げてしまうゆえ」
 慌てて楊ぜんは体重をかけるように扉を閉める。
「久々に人が迷い込んだのぉ」
 声を近くに感じて楊ぜんは振り返る。
 酷く年老いたような声だと思っていたのに。どういうわけか振り返った先にいたのは、彼とさほど年の違わないように見える少年だった。
「あなたは誰……?」
「わしか……わしは伏羲という。昔は伯爵と呼ばれておった」
 どういうわけか、少年の声は年相応のものに変化しているように聞こえた。
「ここに今、お爺さんがいませんでしたか?」
「否、ここにおるのは、わしだけだよ」
 伏羲は笑う。
「それより。おぬしこそ誰だ?」

next.

novel.