光の庭
03.
「それで、あなたは、淋しくはないのですか」
楊ぜんの問いに伏羲は笑った。くっくっくと肩を揺らすようにして。
やがて彼は口を開く。笑いを含んだ目元。
「おぬしは信じたのか? わしの話を」
頭に血が上った。
「からかってたんですか」
がたんと楊ぜんは立ち上がる。
「これこれ、いきなり立つでないよ。お茶が零れてしまうわ」
「帰ります」
「帰り道も判らぬというのにか?」
「歩いていけば……」
「歩いていったところで、どこにも出られぬよ。ここにたどり着けたことこそが奇跡。一度奇跡が起これば二度とは起こらぬものだ」
楊ぜんは伏羲を睨みつける。
「あなたはなんて意地悪な人なんですか!」
大嫌いだ。ろくに苦労もしたことのない貴族様の癖に、楊ぜんをからかって喜んで。ああ、こんなのにつけこまれる自分はなんて惨めなんだろう。
「総てのものが自分に向かって微笑みかけてくれるべきだとでも思っておるのか? 可愛いのぉ、おぬしは」
莫迦にされている。
「止めてください!」
伸ばされた伏羲の手を楊ぜんは乱暴に振り払う。
「あ」
ガシャンと音がしてお茶が零れた。高価そうなポットがパリンと砕ける。
「ごめん、なさい」
楊ぜんはさっと青くなる。弁償しろなんていわれたらどうしよう。
「よいよ。寿命をまっとうできるのも、幸福の一つだ」
不意に冷めた口調で伏羲は言った。
楊ぜんははっとする。
「ホントに嘘、なんですか、さっきの話」
「さあのぉ」
「あなたは、死にたいんですか」
伏羲は黙って砕けた破片を拾い集める。楊ぜんはおずおずとそれを手伝った。
「いっ」
伏羲の手が止まる。傷を作ってしまったらしい。きっと普段は壊れた陶器など扱ったことも無いのだろう。そう考えると、楊ぜんは少しだけおかしくなった。貴族様なんて言ったって、所詮自分の世話すら出来ないんじゃないか。
「いいですよ。ここは僕がやります」
それでも伏羲は動かない。傷つけたらしい指先をじっと見ている。そんなもの、なめときゃ治ると思いながらも、楊ぜんは少し心配になって顔をあげた。
「深く切ったんですか?」
「否、楊ぜん、これがわしの血だ」
小さな白い指先に浮かんだ血は、どす黒い。
「静脈だからですよ」
心臓が脈打つのを感じながら楊ぜんは言った。
「おぬしも黒いと思うであろう」
「だから、それは静脈だから」
「わしはな、腐っているのではないかと思うのだ」
「血が腐っていたら生きていませんよ」
伏羲が震えているような気がして、楊ぜんはそっと伏羲の手を握った。
「だが、わしは。わしの身体はどうにもおかしい。そうであろう楊ぜん。何故年をとらぬのだ」
「あなたはきっと、勘違いをしているんですよ」
考え考え、楊ぜんは言った。
「本当はまだ、60年も経ってないんです。きっと、最初にあなたに会った男の人が嘘をついたんですよ。あなたにも、村の人にもね」
「楊ぜん、そんなことは……ありえぬよ」
可愛そうに、この伯爵様はすっかり錯乱している。
楊ぜんはそっと伏羲の手をとり、跪く。傷ついた指先を小さく吸った。
「楊ぜん?」
「これで治ります。あなたは少し時間の感覚がおかしくなってしまったんですよ。一人で影たちと一緒になんかいるから」
「影、か」
小さく伏羲は呟いた。
「あやつらはもともとこの屋敷にいた使用人たちだ。かわいそうにわしと一緒に化け物になってしまった」
伏羲はゆっくりと立ち上がる。そして、名残惜しそうに言った。
「ここにおれば、おぬしもやがて、ああなってしまうかも知れぬ。やはり、外に出るのが良い」
肩透かしを食ったような、拍子抜けしたような気分で楊ぜんは伏羲の言葉にこくりと頷いた。何故だか、素直に喜べない自分がいた。
門の前まで、楊ぜんを連れて行き伏羲は言った。
「わしはもう、随分と人里に下りておらぬが、街はあちらの方向だ。判らなくなったらとにかく下りへ行け。空気が漏れてしまうゆえ、この門を長くは開けておられぬ。門が開いたら、すぐに外に出るのだぞ。大丈夫。おぬしなら帰れる。帰ったらもう、この場所のこともわしのことも忘れてしまえ。決して誰にも話すでないぞ」
楊ぜんはこくりと頷く。頷きながらも、なんだかもどかしいような切ないような不思議な気分だった。このまま、帰って本当にいいのだろうかという思いが、彼の中で渦巻いている。
「あなたも、一緒に行きませんか」
伏羲を見つめ楊ぜんは声をかけた。
「あなたはひとりぼっちでここで暮らすんですか。辛くないですか」
ふ、と伏羲が笑った。
「ありがとう。だが、わしが下に降りて何が出来る? 誰もわしのことなど覚えていないというのに」
楊ぜんははっとした。伏羲は街に来ても生活の伝が無いのだ。伏羲は貴族だけれど、そのことを誰も覚えていない。つまり、収入となるものが無い。しかし、貴族を働かせてくれるところなんか街には無いだろう。かといって、楊ぜんが伏羲を養うことも出来ない。第一、伏羲にはそんな生活は屈辱のはずだ。
「おぬしとわしでは、生きている世界が違うのだ」
楊ぜんは黙って伏羲から目をそらした。
「もう、行きます」
「迷ったら……」
伏羲は言いかけ、それから首を振って否定する。
「否、迷っても、ここにはもう戻らぬ方が良い」
楊ぜんはこくりと頷いた。
伏羲も頷く。
そして、彼は外の世界への扉を開けた。
森はどこまでも広がっている。伏羲の指し示した方角めざし、楊ぜんは振り返らずに真っ直ぐ歩いた。森は薄暗く湿っている。不思議な開放感があった。ここでは空気が流れている。そうだ。あそこの空気は妙に淀んでいた。息苦しかった。
霧が出ている。肌寒い。気味の悪い鳥の鳴き声。
しかし、この森は生きている。深く深呼吸すれば身体全体が清められていく。ここの空気は街へと続いている。
このまま進めば、日常が待っている。
あの光溢れた庭が嘘のようだ。
否、本当に夢だったんじゃないかと楊ぜんは思いつつある。何年も年をとらない人間の話なんて莫迦げている。本当にそんなことがあるはずが無い。それに、何年もあの場所でひっそりと暮らすなんてやはり不可能だ。否、それ以上に、あの庭はありえない。あの季節感を無視した花々と言ったら――。
でも、あの庭ならば逆に、人が何年も年をとらないなんてことがありうるのではなかろうか。
とたんと、楊ぜんは立ち止まる。
――無理矢理、咲かされた花など、美しいものか
あれは、彼自身のことではなかったか。
悪い魔法をかけられた御伽噺の王子様。
何十年も一人きりで生きなければならないと言うのはどういうものだろうか。楊ぜんなど、妹一人失ってさえこんなにも苦しいのに。一人きりのテラスで飲むお茶など美味しいはずが無い。どんなに贅沢をしても心が満たされるはずが無い。今朝一人で齧った乾いたパンを思い出す。ああ、すでに今朝のことは数百年も昔のことのようだ。
伏羲を一人きりにしてあの庭に置いてきてしまって本当に良かったのだろうか。楊ぜんはひょっとしたら、卑怯にも自分ひとりだけ逃げ出してきたのではなかったか。
戻る?
でも彼は、楊ぜんとは別の世界に生きているといった。
避けられたのだろうか、自分は。所詮、一般庶民のそれも貧しい部類に入る楊ぜんなど、相手にする価値も無いと思ったのだろうか。上流階級の伏羲にとっては楊ぜんは人間ですらないのかもしれない。
でも彼は、お茶を入れてくれた。
本当のことを話してくれた。
総てを楊ぜんがしゃべってしまう危険を顧みず、楊ぜんに帰れと言ってくれた。
帰れといわれたのなら、大人しく帰るべきなのでは? 彼の善意を無駄にしてはならない。弱気な心が顔を覗かせる。
否、でも。
帰ったところで楊ぜんを待っているのは空っぽの部屋と、貧しさ故に楊ぜんを売り渡そうとさえした人々。売られるのと伏羲のもとにいるのと何の違いがある? 楊ぜんもまた、居場所を失った一人なのだ。
ならば、今楊ぜんがいるべき場所は?
一人きりのかわいそうな人。ずっと側にいてあげる。
まぶしい日の光も、美しい花々も、隣で微笑んでくれる人がいなければそんな物は無意味だ。
でも。
また別の不安が楊ぜんの心に染み込む。
戻れるだろうか? この森は迷いやすい。すでに幾時間歩き続けたことか。伏羲だって言っていた。この屋敷にたどり着いたのは奇跡だと。
途方にくれながらも、楊ぜんは振り返る。歩いて歩いて、また迷ってしまったらどうしよう。下手をすると一生森から出られないかもしれない。冷たい森の中、一人で死ぬのは嫌だった。
不安。怖気づきそうになる心を何とかなだめて。
振り返ったその先。
あにはからんや。
城は目の前にそびえていた。
呆然と楊ぜんは城壁を見上げた。少なくとも一時間はさまよったはずなのに、城はまるで楊ぜんを待ち構えるようにそびえている。
――この森はどうやら、人間を選ぶようだのぉ
伏羲の言葉がぼんやりと頭に響いた。
では、楊ぜんは選ばれたのか。
そっと扉を撫でる。蔦の絡まった思い扉はひんやりと冷たい。楊ぜんはちょっと戸惑い、それから手に力を込め、そして思い切って扉を開く。
息をつめ、滑り込むように楊ぜんは細く開いた扉の間に身体をねじ込ませた。
目を移せば光の溢れる庭があった。
空気の流れない、淀んだ庭が。
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