光の庭






05.

 伏羲は難しい顔で、古い本を繰っていた。
 少し離れた窓辺で、楊ぜんは大きな絵本をみる。本の中では天使たちが母なるマリアに受胎を告げている。有名な一場面だ。
 楊ぜんはぼんやりと顔をあげて伏羲を見る。字を教えてくれると言ったのに、伏羲はさっきから黙ったままで楊ぜんのほうを見ようともしない。埃っぽい書庫に、暖かな日差しがわずかに忍び込んでくる。
「何が書いてあるのですか」
 小さく楊ぜんは尋ねる。伏羲は漸く顔を上げ、ちょっと驚いたような顔で楊ぜんを見た。きっと楊ぜんがそこにいたことそのものを忘れてしまっていたのだろう。伏羲は子供を見るような目で楊ぜんを見た。
「ちとな、さっきの風が気になってのぉ」
「風?」
「ああ、おかしいではないか。もうずっと昔から吹いておらなんだのに」
「でも、おかしいとしたら、むしろずっと風が吹かなかったことの方がおかしいのではないですか?」
「それはそうなのだが、しかし、この城で起こることと言えば、むしろ普通でないことの方が普通であるから……」
「ああ、それならば」
 ぱちんと楊ぜんは手を叩いた。
「普通に戻ろうとしているのではないのですか? この城が」
「普通に……か」
 はい。と頷いて楊ぜんはにこりと微笑んだ。それが素晴らしくいい考えに思えたから。しかし、伏羲はそうは思わなかったらしく思案顔だ。
 しばらくして伏羲はこういった。
「のぉ楊ぜん。もしもおぬしの仮説が真実だとしたら、その時わしはどうなるのだろう」
「どうなるって……?」
 いまいち質問の意図するところが飲み込めなかった楊ぜんはきょとんとする。
「数十年時に逆らい続けたわしの身体は……どうなるのだろうか」
 はっとして楊ぜんはまじまじと伏羲を見た。幼い顔立ち。小作りな身体。
「大人に……なるんじゃないですか」
 冗談めかして楊ぜんは笑った。その先を考えるのが怖かったから。
「そうか、大人になるのか、それは良いのぉ」
 伏羲もまた、同じことを考えたらしかった。
 不吉な沈黙に耐え切れず、楊ぜんは絵本の文字を指でおって本を読むふりをした。ちらりと横目で伏羲を見ると彼は机に頬杖をついてじっと何かを考えているようだった。
 日が落ちる前に楊ぜんは洗濯物を一人で取り込んだ。
 なんとなく、伏羲には声をかけづらい気分だった。

 翌日、楊ぜんが洗濯物を干していると伏羲が現れた。なんと声をかけていいのか、判らないでいる楊ぜんに伏羲は笑った。
「手伝わせてもらってもよいかのぉ」
「ええ。伯爵様」
「伯爵様か。……のぉ楊ぜん。おぬし以前わしのことを仲間だといったのぉ」
「そして、あなたは仲間なんか要らないって僕に言ったんです」
 楊ぜんはそういうとぱんっと洗濯物をのばした。
「そう、意地悪をいうでないよ」
 困ったように伏羲は笑う。
「仲間ならば、名前で呼んではくれぬか」
 楊ぜんは驚いて伏羲を見た。はにかんだような、子供のような瞳で伏羲は楊ぜんを伺っている。
「わしは……もう何十年も自分の名前が呼ばれるのを聞いた事が無いのだ」
「そんなこと言われても……伯爵様のお名前をお呼びするなんて、恐れ多いですよ」
 楊ぜんは困って、指をこねくり回しながら呟いた。
「おぬし、今までわしのことを散々罵倒してきたくせに今更そんなことを言うのか」
 憤慨を装って伏羲は言う。
「罵倒なんかしてないです」
「したではないか」
「してないですよ!」
 まるで子供の喧嘩のようだ。そう考えたら急におかしくなって、楊ぜんは不覚にも笑い出してしまう。伏羲が怪訝そうな、引きつったような笑いを浮かべた。つられて笑いそうになったのだろう。
「楊ぜん、これは結構わしにとって重要な問題なのだ」
 困ったように伏羲が言う。けたけた笑っていた楊ぜんは急に笑うのをやめて、それからちょっとだけ真面目な顔になって伏羲と正対する。そして小さく微笑んだ。
「伏羲様。手が止まってますよ」
 伏羲はきょとんとして自分の手に握られている、つかんだままの洗濯物に気がついた。
「ああ、すまぬ」
 伏羲は慌てて洗濯物を干し始める。
「これが終わったら……」
 楊ぜんは手を休めずに口を開いた。
「今日こそは、字を教えてくださいね」
「ああ、そうだのぉ」
 その時だった。
「ああ、まただ……」
 静かなそよ風がふわりと2人の間を通り抜けていく。
「洗濯物を干すと風が吹くのでしょうか」
「ああ、水蒸気に関係しているのかものぉ」
「水蒸気?」
「庭に水をまくと涼しくなるであろう。あれだよ」
 ふうん、と楊ぜんはわかったようなふりをして頷いた。
「伏羲様は物知りなんですね」
「まぁ、のぉ」
「でもきっと、一回も自分で庭に水をまいたことなんて無いんですよね」
「おぬし何がいいたいのだ」
「つまり、それが僕とあなたの違いなんですよ」
「判った判った。あとで水などいくらでもまいてやる」
 ばさばさと伏羲が洗濯物を振り回したので、そこらじゅうに水が飛び散った。
「ああ、もぉ。止めてくださいよ」
 楊ぜんは水をよけながらもくすくす笑いだす。はじけた雫がきらきらと光った。
 洗濯物を干し終わったら、書斎で勉強の時間。
 約束にたがわず、伏羲は楊ぜんに字を教えていた。
「YOUZEN、これで楊ぜん」
 言われたとおり楊ぜんは白い紙にインクで字を書き写す。
「伏羲様は?」
「FUKKI」
 伏羲が隣に字を書いた。
「I、これが私。YOU、これがあなた」
「意外と、簡単ですね」
「単語だからのぉ。これではまだまだ本は読めぬ。しかし、書くよりも読むほうが簡単だ」
 伏羲はそう言って薄い詩集を取り出した。
「読んでやろう。こっちにおいで」
「なんか、子ども扱いされてるみたいなんですけど」
 伏羲は取り合わず、機嫌よくページを開きだす。
「あの、男2人がこんなにくっつきあって座ってるなんて傍から見てちょっと寒くないですか?」
「おぬし、男だったのか」
「ええ、一応ね」
「それはがっかりだのぉ」
「本気で言ってるんですか」
「まさか。いくらわしでも男と女の違いくらい判るわ」
 楊ぜんはため息をついてちょっとふくれた。
「読んでやるといっておろう。よいか、わしが読んだら、次はおぬしが読むのだぞ」
 薄い詩集の朗読はすぐに終わった。伏羲は気に入ったものを選んで、それを書き写せという。楊ぜんは丁寧に几帳面にそれを紙に書き写した。
「それで、その詩はおぬしのものだ」
 伏羲に言われて楊ぜんは嬉しくなった。他にもあれこれと選び出し、詩を写すのに夢中になる。
「ねぇ、伏羲。これは? ここにはどんな詩があるのですか」
 興味本位に楊ぜんが取り出してくる本ので伏羲の周りはたちどころにいっぱいになった。たまらず伏羲は叫ぶ。
「楊ぜん。一日に一冊だけだ。一日に一冊。余り詰め込みすぎるのは良くないであろう」
 楊ぜんはちょっと反抗的な、すねたような瞳で振り返った。
 まるで、子供だ。伏羲はおかしくなる。ひょっとしたら楊ぜんは伏羲以上に本の虫になってしまうかもしれない。
「判ったよ。今日は特別だから、もう一冊だけ読んでやろう」
 楊ぜんは散々迷って、表紙に美しい花の描かれた本を選び出した。
「伏羲様、詩って不思議ですね」
「ん?」
「こんなに短いのに、いろいろな風景が見えて、いろいろな思いが伝わってくる」
「そうだのぉ、きっと本当に伝えたいことを伝えるには、案外短い言葉の方が伝わるせいだろうよ」
 楊ぜんは頷いて、伏羲の隣に腰をおろす。伏羲は笑って本を開いた。
「おやこれは……残念だのぉ。これは詩ではなく小説のようだ。おぬしにはまだ、早いかのぉ」
 いいながら伏羲はぱらぱらとページを捲る。
 不意に、一つのページで伏羲は手を止めた。そっと本を差し出す。
「楊ぜん、読めるか?」
 楊ぜんは開かれたページを覗き込む。
 そこにはたった一行だけ。

 I love you.

 楊ぜんは不思議そうに伏羲を見つめ、それから呟いた。
「……愛してる……」
 そっと文字をなぞる。伏羲の真意を測りかねて。
「おぬしが愛しい」
 耳もとの囁き。
「僕、男ですよ」
「関係ないよ。こんな常識からかけ離れた城の中では」
 楊ぜんは困ってひざの上で組んだ自分の指先をじっと見つめた。
「……僕は、わからない。あなたは好きだけど。わからない」
「よいよ。気にしなくて良い。済まぬな。困らせたかったわけではなかったのだ」
 その時。がたがたと窓を鳴らす音が響いた。
「まさか」
 2人は顔を見合わせる。ついで立ち上がる。
 先に窓辺にたどり着いた楊ぜんが大きく窓を開いた。明るい日差しとともに飛び込んできたもの。
 楊ぜんの長い髪をさらい、散らばった紙を吹き飛ばし本のページをいたずらに繰る、それは――
「伏羲様、風が……」
 遅れて窓辺にたどり着いた伏羲が唖然としながら徐に楊ぜんの背に腕を回した。
「駄目! 散ってしまう。花が!」
「良い。良いのだ」
「でも!」
「花は散るものだ。そうであろう? 楊ぜん!」
 楊ぜんは身を乗り出して窓の外を覗き込む。
「冬が、来るのですか。時が動いて」
「ああ、そうだよ。きっとそうだ」
「でもどうして! 今まで動かなかったのでしょう!」
 取り乱して叫ぶ楊ぜんに伏羲は笑った。
「おぬしが……おぬしが着たから。おぬしがここへやってきたから」
「僕?」
「そうだ。おぬしが時を動かしたのだ!」
 風は吹き続ける。花は散り続ける。
 伏羲は立ち尽くす楊ぜんをじっと見つめていた。春の妖精のように美しい彼を。

next.

novel.