マイ・フェア・レイディ



前篇



 古い古い記憶の断片。
 あの時楊ぜんは泣いていた。

 小高い丘。緑の芝。
 そして白い石。

 6月だった。雨が降っていた。たくさんの喪服の大人たちに囲まれて、当時14歳だった楊ぜんは酷く小さく見えた。

 父親の葬儀だった。

 墓の前で、楊ぜんはじっと動かなかった。一人、また一人と大人達が帰っていく中で。
「どうして……誕生日だったのに……」
 ぽつんと呟いた声が風に乗って聞こえた。あたりには誰もいなくて、楊ぜんが消えてしまいそうに見えて、声があまりにも細くて、震えていて。だから。
 だから――

 抱きしめてそっとキスをした。



     ☆



 何でそんなこと急に思い出したのだろう。
 雨が降っているからか?明後日が楊ぜんの誕生日だからか?
 楊ぜんは誕生日を祝わない。あの日からずっと。
 トマトを切りながら太公望はそんなことを考える。低血圧の楊ぜんは、朝はサラダしか食べられない。
 ちらりと時計を見れば、もうすぐ7時になろうとしていた。そろそろ起こしてこなければ。お寝坊のお嬢様。
 そっと太公望は楊ぜんの部屋に入る。猫足のソファに天蓋つきのベッド。とても東京には似合わない。これが高層マンションの最上階だというのだからなおさら。もっともこのマンションは全て楊ぜんの持ち物だ。その一番上と一つ下をぶち抜いて楊ぜんが使っている。崑崙財閥のご令嬢の名は伊達ではない。
 寝台の中の楊ぜんは、また泣いていた。眠りながら。
 楊ぜんもまた、あの日のことを思い出しているのだろうか。太公望は動けなくなる。あの日、楊ぜんに口づけた日。何故そんなことが出来たのか、未だに太公望には判らない。
 あの日のことは二人の間で封印されている。どちらからも言い出さないし、忘れてしまったこと、無かったことのように振舞っている。太公望はただの使用人で、楊ぜんにとっては決してそれ以上にはならない。宣言されているようで淋しくもあるが、しかしそれは当たり前のことだった。
 だけれど、泣いている楊ぜんは、あの雨の日とリンクして妙に心疼くものがある。もっとも、あの日以来楊ぜんが泣いているところなど太公望は見たことも無かったが。
 動けないでいると楊ぜんがうっすらと目をあけた。ほんの少し微笑む。虚ろな表情。その微笑はどこに向けられた物なのか。太公望はまた動けなくなる。
 ゆっくりと起き上がった楊ぜんは照れ隠しのように笑って太公望を睨みつけた。
「おはよう太公望。乙女の寝顔を覗くなんて随分といいご趣味じゃない?」
「朝食が出来ております」
 勤めて冷静に太公望は言った。
「そう」
 つまらなそうに楊ぜんは言って、もう太公望にはなんの興味も無くしてしまったかのように寝台から抜け出した。猫のような身のこなし。そっけなさもそのままに。
「着替えるから出てって」



      ☆



 太公望が出て行ったとたん、楊ぜんはほっとしたようにもう一度寝台に腰掛ける。泣いてるところ、見られただろうか。まさか自分が夢で泣くような繊細な奴だとは思っても見なかった。
 あの夢。お父様がなくなったときの。いや違う、葬儀のときだ。お墓の前で、太公望は僕にキスをした。ファーストキス。
 なに考えてたんだろ、あの男。同情か、哀れみか。当時14にしかなっていなかった楊ぜん。ただの出来心?あれ以来何事も無かったかのように日常は過ぎていった。楊ぜんにとってはオオゴトだったというのに。

 あなたはあの時僕に魔法をかけた。魔法?いや、これはむしろ呪いに近い。



      ☆



「誕生日、ゼミのみんなが来るから」
 サラダを突っつきまわしながら楊ぜんは言った。お行儀の悪い態度。太公望は注意すべきかどうか少し迷う。
「みんな?」
 太公望は聞き返す。何より楊ぜんが自分から誕生日の話をするなんて。
「うん。ウチでパーティーするんだ。皆、ただ飲みたいだけだよ」
 投げやりな口調。それからくすっと楊ぜんは笑った。
「ちょっとね。格好いい男の子が来るんだ」
 くるん。太公望の顔を覗き込むようにして。
「気になる?」
 紫の瞳は何かを期待している。
「いや。お嬢様にもそのようなことが、あっても良いかと」
「何それ。僕がもてないみたいな言いかたしないでよ。言い寄ってくる奴は皆ふったの!」
 言葉は急に棘をもつ。いつものことだ。太公望は動じない。
「何故」
「何故って……タイプじゃなかったからだよ!」
 急に楊ぜんは怒り出して立ち上がる。
「大学行ってくる!」
「今日は午後からでは……」
「予習だよ。今日の発表僕なんだから!」
「では車を」
「いらないったら!」
 楊ぜんはぱたぱたと走り去ってしまう。一人残された太公望はぽかんとその場に突っ立っていた。テーブルの上には突っつきまわされただけのサラダが一つ。太公望はそこからトマトをつまんで口の中に放り込んだ。
 感情の起伏の激しい子供みたいな彼のお嬢様。
 太公望にとって楊ぜんはいつまでたっても14歳のときの子供のままだ。
「格好いい男の子のぉ……」
 太公望は呟いて急に不機嫌な顔になると、サラダを全部三角コーナーの中に捨ててしまった。
「パーティーのぉ……ケーキでも焼いてやるか」
 しかし、アルコールはいただけない。楊ぜんはまだ19歳のはずだ。否、次の誕生日で20歳だったか……しかし、しかし……。



      ☆



「うわー。雨降ってる。これだから6月は……」
 ゼミが終わると、窓の外は土砂降りだった。
「そうかな、僕は好きだよ」
 悲鳴をあげた蝉玉にのほほんと楊ぜんは答える。数少ない楊ぜんの友人。
「そんなこと言ったってあんた傘忘れたんじゃなかったの?」
 アタシは持ってるけどね〜といいつつ蝉玉は鞄から折り畳み傘を取り出した。
「うん。僕は迎えに来てもらうから」
「ああ、そう。お嬢様は執事がお迎えって訳ね」
「うん」
「……冗談で言ったのに」
 子供みたいに雨空を見上げる楊ぜんを蝉玉は呆れ顔で見上げた。
「あんたさー。そういうのって、面倒じゃない?」
「なんで?傘持ってきてくれるし」
「一人暮らししたいとか、思わないの?」
「一人じゃ、淋しいよ」
「ふーん」
 蝉玉が怪訝そうに見守る中楊ぜんは電話をかける。
「もしもし、太公望?そう。……うん。雨降ってきちゃって……そう……迎えにきて、待ってる」
 へんなの。ぼんやりと蝉玉は思う。
 このコってコイビトに甘えるみたいに電話するのね。
「なに?どうしたの?」
 電話を終えた楊ぜんが、自分を見つめる蝉玉に気付いて声をかける。
「え、ううん。なんでもない、かな」
 蝉玉は言葉を濁し、それから少し笑った。
「なんでかな、幸せそうに見えたんだ」
「そう?」
 楊ぜんは頬を染めてにこりとした。



      ☆



 黒塗りの車の到着に、これだからお嬢様はと蝉玉はまた一つため息をつきたくなる。
「あ、太公望」
 下りてきた黒ずくめの男に、楊ぜんは子供みたいに無邪気に手を振った。執事というからてっきり年配の紳士を想像していたのに、降りてきたのは下手をすると中学生にすら見えそうなコドモだった。
「これ?これが執事?」
 蝉玉はたまらなくなって、楊ぜんに問いただす。これ呼ばわりされた太公望は何とかポーカーフェイスを保つとうやうやしく車のドアをあけた。洋画の中で男性が女性をエスコートするように。
「どうぞ、お嬢様」
「ねぇ、車の免許なんか持ってるの?まるっきり子供じゃん」
 遠慮しない主義の蝉玉はずけずけと言った。
「彼は、これでも僕より年上なんだよ」
 くすくすと楊ぜんは笑う。
「まさか、その顔で30代とか言わないわよね」
「……もっと若い」
 ぼそっと太公望が呟いた。
「彼、料理、上手いんだ。パーティーは期待してね」
「うん」
 頷いて、それから、蝉玉はぎゅっと楊ぜんの腕をつかんで自分の方に引き寄せた。
「ねえねえねえ、アタシに隠し事はなしよね?」
 にやにやと蝉玉は笑う。
「何、急に?」
「コイビトなんだ」
「ちょっと、蝉玉君。いくら君でもそれは失礼だよ」
「違うの?」
「何で」
「だって男と女が一緒に生活してて、それで何も起こらないなんて、あたしは信じないなぁ。それにアンタ、さっきの電話……」
「やめてよ」
 不意に楊ぜんは蝉玉の手を振り払った。
「そういう事だってあるんだ。僕と彼はなんでもない。何でもかんでも君の物差しで計らないで!」
 楊ぜんの剣幕にあっけに取られた蝉玉は一言ごめんと謝った。
「お嬢様」
 太公望がたしなめるように楊ぜんに声をかける。
「ごめん、なさい」
 納得いかないような様子で、それでも楊ぜんは謝った。
「バイバイ、蝉玉君。また明日」
 バイバイと車に乗り込む楊ぜんに手を振りながら、それでもやっぱりアタシはそういう関係も今の楊ぜんの態度も変だと思うと心の中で蝉玉は呟いた。

「おおっ!蝉ちゃん、傘持ってる。ラッキー」
 不意に場違いな明るい声が響いて蝉玉は振り返った。ルックスは良いけど、性格はイマイチ。なによりあのオヤジギャグはいただけない。そんな評価を下されていることを当人は知っているのだろうか。
 知ってても、気にしないんだろうな。こういう奴は。
 韋護。ゼミ仲間。
「やあよ。アンタ傘に入れたらアタシはみ出しちゃうもん」
「つれないなぁ。俺待っててくれたんじゃないの?」
「まさか。ちょっとね。姫の逆鱗に触れちゃったんだ」
 そう言って小さく蝉玉は舌を出した。
「うわ。姫。いたんだ。なんで引き止めといてくれなかったの」
「だって、執事さんが高級車でお出迎えだもん」
「さすが!執事かよ。どんなじいさん?」
「そう思うでしょ。若いのよ。カワイイんだ」
「ふーん」
「二人っきりよ、今」
「……」
「気になる?」
 ちらりと蝉玉は韋護を見た。
「そりゃあ、姫親衛隊としては」
 いつからそんなのあったのよと心の中で突っ込みつつ、蝉玉は呟いた。
「それで、なんにもないなんて思わないでしょ、普通。あのコもう親いないしさ。夜も二人きりだし」
 わざとらしく、言ってみる。とたん、自分の意地の悪さを意識した。
「いや、思う。俺は信じるね」
「それって、希望的観測じゃないの」
「信じる者は救われるって、知らない?」
「……莫迦ね」
 言い捨てて、蝉玉は雨の中歩き出した。



     ☆



 灰色のアスファルト。永遠に続くしかない道。暴力的な赤い光を放つシグナル。
「そんなふうに見えちゃうのかな、僕達」
 車の中。ガラスにあたる雨を見つめながら楊ぜんはぽつんと呟いた。
「申し訳ありません」
「どうして謝るの」
「お嬢様は、嫌でしょうから」
「……。うん。そうだね。きっと太公望も」
 信号は青に変わり、黒い車体は再び走り出した。

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