あなたにリボンの贈り物
「師叔の莫迦っ!」
部屋に入ったとたんに楊ぜんに怒鳴られて太公望はきょとんとした。
「どうしたのだ、おぬし」
「知らなかったとは言わせませんよ。ここにあった桃。あれ、どうしたんです」
楊ぜんは机の上を指差す。
「ああ、それなら」
太公望はにっこり笑う。
「喰った」
「莫迦っ」
楊ぜんは再び叫んだ。太公望は訳がわからない。
「それは、おぬしに黙って喰ってしまったのは悪いとはおもうが、しかしどうせわしのために……」
そこで、太公望は乙女のごとくもじもじする。が。
「誰があなたのためなんていいました」
楊ぜんは太公望を睨みつけるようにして鋭く言い放った。
「しかし、だが」
太公望は柄になく慌てた、それは、彼としても楊ぜんから自分への贈り物であろうと考えるだけの理由はあったのだ。
「リボンがかけてあったではないか」
そう。桃にはどうやってかけたんだか、赤に金糸を織り込んだようなリボンがかけてあったのである。どう見ても、恋人、すなわち自分への可愛らしい贈り物に見えて、太公望はちょうどおなかが減っていたこともあり、喜んで食べてしまったのだったが……。
しかし、楊ぜんは非情にも言い放った。
「あなたのためにわざわざリボンかけたりなんかしませんよ」
「なっ!それはどういう意味だ!」
そういう言われ方をすると、いささか、自分に非があるとはいえ、太公望はカチンとくる。それに、もう一つ、別の疑惑がむくむくと湧きあがってきて、太公望はすっかりそれに飲み込まれてしまった。
「おぬし、わしというものがありながら他に男がいるのか!」
太公望は桃のプレゼントの意味をそう理解してしまったのだ。
さて楊ぜんは、売り言葉に買い言葉。もっとも、こんな台詞を恋人から言われたら誰だって頭に来る。
「ビーナス囲ってるあなたになんか言われたくありませんね!」
楊ぜんはそう、捨て台詞を残すと太公望の脇をすり抜け、わざと乱暴にばたんと戸を閉めるとそのまますたすたと走っていってしまった。
「なんなのだ、あやつ」
一人取り残された太公望はいらいらしながら呟いた。
太公望の言葉に楊ぜんは反論しなかった。反論しないということは、反論できないということか。太公望は考える。
「あやつ、まさか本当に……」
少しの沈黙。違う。楊ぜんは自分と同じで忙しかった。あの忙しい合間に二人の男と同時に付き合うなんて不可能だ。太公望とだって時間を盗むように逢瀬を重ねてきたのだから。
それに楊ぜんは恋愛には長けていないようにみえた。あの自信家がそういう方面になると急におどおどする。だから、楊ぜんに二股をかけるなどという器用なことが出来るとも思えないし、もしそうであったら、いくらなんでも太公望は気付いたはずだ。
そこまで考えて太公望は一応ほっとする。
一応ほっとしたものの、別の方面から疑惑は黒い雲のように沸き起こる。
だが、全部あれが芝居だったとしたらどうだ。第一、あの桃にかけられたリボンは何だ。
いらいらする。
これは嫉妬か。
結局、その夜太公望は一睡もできなかった。
翌朝の執務室の雰囲気ははっきり言って最悪だった。
まず太公望が目の下に濃い隈を作り幽霊のようにげっそりと控えている。文官が挨拶をすれば暗い声でああ、とかううとか良くわからない声が返ってきた。そこだけマイナスの気が発生しているようで恐ろしい。
ついで、楊ぜんが回りに冷気を放っている。太公望と目を合わせない。こちらは挨拶をしてももう返事も返ってこない。冷たい視線が返されるだけで下手に口をきこうものなら凍り付いてしまう。
姫発について執務室に入ってきた天化は一瞬固まった。その空気に飲まれてしまったのである。そもそも、莫迦みたいに明るい――師に莫迦とはたいそう失礼だが――道徳真君に育てられたせいもあって、こんなどんよりと暗い雰囲気には免疫がないのだ。毎朝執務室で楊ぜんと挨拶を交わすことが密かに楽しみだったりする天化にとってこの状況はまさに最悪だった。
「あ、あの……、楊ぜんさん」
それでも一応声をかけては見る。楊ぜんはいつものような美しい微笑を――見せてくれるようなことは当然なく、冷たい視線で天化を一瞥しただけだった。はっきり言って怖い。
「おはようさ……」
天化の努力は空しく中に消えていった。
「これは破局だな」
小さく姫発が呟く。
「破局?」
「切れたんだろ」
「何がさ?」
「だから太公望と楊ぜん」
「マジさ?」
姫発はにやりと笑う。
「振ったのは楊ぜんで、振られたのは太公望じゃねぇのこの場合」
天化は太公望のやつれた顔を見る。
「これは、チャンスだぜ、天化」
そういうと姫発はバシッと天化の背中を叩いた。
仕事しながらこっそりと楊ぜんは太公望のほうを盗み見ていた。なんだかげっそりしている。自分のせいだと思うと可哀想かなと思う反面、ちょっと嬉しい。
それはつまり、それだけ楊ぜんのことが好きだということだろう。
楊ぜんのことを疑ったのも、つまり楊ぜんが好きだからと考えられなくもない。好きじゃないなら楊ぜんが他の誰と付き合おうと太公望は気にしないはずなのだから。
謝ってくれれば良いのに。
楊ぜんは思う。もともと悪いのは太公望なのだ。人の桃を勝手に食べちゃっただけなく、変な勘違いをして楊ぜんを疑ったのだから、これはもう、太公望が謝るべきだ。
少なくとも、楊ぜんから太公望に謝るのは嫌だった。
楊ぜんは何も悪いことをしたと思っていない。
だから、楊ぜんから仲直りを持ちかけるのはなんだか癪だった。自分がとんでもない意地っ張りであることに楊ぜんはまだ気がついていない。
楊ぜんはただ、待ち続ける。
謝ってくれれば良いのに。
そしたら、許してあげるから。
ねぇ師叔。あやまって。
素直になれない楊ぜんは、心の中でそっと囁いた。
楊ぜんが見ていることに、太公望は少し前から気がついていた。
ちらちらと窺うようにこちらを見る楊ぜん。
昨日は悪いことを言ったなとおもう。
さすがに他に男がいるのかは拙かっただろう。
でも。太公望は思うのだ。じゃあ、あの可愛らしくリボンをかけられた桃はなんだったのだ、と。
それに付け加えて、あなたのためにリボンなんかかけないといった楊ぜんの可愛げのない台詞が脳裏をよぎる。では誰のためならリボンをかけるというのだろう。それを考えるとどうしても楊ぜんを疑ってしまう。
怖いのだ。
なんとなく太公望は判っている。
楊ぜんは綺麗で可愛くて男にも女にも人気があって、それが自分の手の中にいるというのがたまらなく怖いのだ。ちょっと手を放した隙に誰かに掠め取られてしまうのではないかとおもうと、いても立ってもいられないくらい怖い。だから、居もしないほかの男の影になんか怯えるのだ。
それでも、桃の意味がわからないうちはやはり気になる。リボンをかけるということは誰かに贈る為だろう。太公望にはリボンをかけてくれないのに他の人にはリボンをかける。
勿論、リボンがかかっていようがいまいが桃の価値は変わらないけれど、リボンのような装飾にはきっと楊ぜんの心が込められていたのだろうと太公望は思う。
だから悔しい。太公望がもらえない楊ぜんの心をもらえる奴が憎らしい。
楊ぜんはちらちらとこちらを気にしている。
誰も気がつかないけれど太公望だけは判るのだ。
なんだ、あやつひょっとして悪かったとか思ってるのだろうか。
謝るだろうか。謝らぬだろうな、あやつの性格からして。
楊ぜんが謝らぬのなら、わしだって謝ってなどやる物か。
つんっとわざとらしく太公望は楊ぜんから顔をそむけた。
とたん、楊ぜんが酷く悲しそうな顔をしたように思えて、太公望は無性に悲しくなった。
お昼休み。楊ぜんは一人で昼食を食べる。いつもは太公望と一緒なのに、太公望が謝ってくれないから一緒に食べましょうとは言いにくい。太公望は楊ぜんを置いてさっさと食堂に行ってしまうし、仕事中に目があったときも視線をそらされた。
一人の食事はとても淋しい。楊ぜんは急に泣きたくなった。
だけれど楊ぜんは我慢する。
太公望のためになんか、泣いてやるものか。
なんだか楊ぜんはますます意地になってきている。意地になって独りぼっちで周りのことが見えない。だからすぐ側まで天化がやって来てるのにも全然気がつかなかった。
「楊ぜんさん、あの」
そう声をかけられたとき楊ぜんは文字通り飛び上がりそうなほどびっくりした。
「な、なに?」
半分裏返ったようなおかしな声で楊ぜんは応じる。それから、それをごまかすようにこほんと一つ咳払いした。
「どうしたの、天化君」
「一緒に食べても良いさ?」
にこっと天化は笑う。
「でも、君、いつも武王と一緒に食べるじゃないか。護衛だろう。離れちゃ駄目だよ」
楊ぜんはなかなか手厳しく応じる。
「そのオウサマが行けといったさ」
「へ?」
「あ、じゃなくて」
天化は顔の前で手を振り回すという不審な行動を取った。実は、楊ぜんに思いを寄せながらも、見かけによらずもじもじと悩んでいる親友――少なくとも姫発はそう思っていた――に姫発は呆れて今がチャンスだからデートにでも誘い出せと命令したのである。
天化は傷心の楊ぜんを誘うなんて卑怯だと反論したのだが、じゃあ、悲しんでる楊ぜんを放っといて可哀想だと思わないのかと言われて、どうやらすっかりその気になってしまったのだ。
「たまにはプライベートが欲しいって言ってたさ」
「言いくるめられたんだね天化君。武王はいいかげんだから、君がしっかりしなきゃ駄目じゃないか」
楊ぜんはお姉さんみたいな口調でそう言った。
「でも、楊ぜんさん。今日いつもと感じが違ったから心配で……」
楊ぜんは不思議そうに天化をじっと見つめる。大好きな楊ぜんがまじまじと見ているせいで天化はドキドキした。
「ありがとう。でも、心配要らないよ。僕は大丈夫だから。座ったら?今日はもうこっちまで着ちゃったんだから一緒に食べよう。武王には誰か着いてるんだろ」
「ああ、オウサマの方は大丈夫さ。でも楊ぜんさん」
「何?」
「あんた、ちっとも大丈夫そうにみえねぇさ」
実は大丈夫そうに見えなかったのはむしろ太公望のほうだったりしたのだが、天化はとりあえずそう言った。
「話してみると楽になるさ」
「君に話せるようなことじゃないよ」
楊ぜんはため息をつく。それから天化の落ち込んだような顔を見て慌てていった。
「ああっ。ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ。駄目だね。僕」
「いきなり話せるようなことじゃないさね。俺っちが悪かったさ。楊ぜんさん気にすることないさ」
天化は笑う。それで楊ぜんはほんの少し救われたような気持ちになった。
天化は太公望のように話し上手ではないものの、それでも一生懸命楊ぜんに気を使っておしゃべりしてくれる。最初は修行や宝貝の話だったのが、いつのまにかお互い十二仙門徒ということもあって師の噂話になってしまった。ついには子供の頃の失敗談まで出てきて、二人はくすくす笑いあった。
「楊ぜんさんも案外そそっかしいさね」
楊ぜんと打ち解けることが出来たのが嬉しくて天化は笑う。
「だって、初めて包丁使ったんだよ」
楊ぜんも笑ってくれる。
「血が出たとき怖かったさ?」
「それより、師匠の剣幕の方が怖かった」
「いっぱい怒られたさ?」
「逆だよ。心配しちゃって太乙様呼んできたんだから」
楊ぜんは笑う。笑って、不意に太公望の視線に気がついた。
気にしてるのかな、と思ったとたん太公望はさっと視線を外して食堂を出て行ってしまう。
「どうしたさ?楊ぜんさん」
なんでもないよと楊ぜんは微笑んだ。
next.
novel.
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